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 夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。

 一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。

 音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。

 男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。

 力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。 






 そんな情景の夢をやけにはっきり覚えている。 

 理沙はまだ寒い部屋の中でファンヒーターをつけながら、夢の中身を反芻していた。

 まるで小説の中のような情景。今現在、1LDKのボロい賃貸マンションに暮らしている自分とはかけ離れた世界だ。

 夢の中で雪の中倒れているのは自分。そして、倒れている自分を抱き上げる男は知らない。顔もぼんやりとしてわからない。

 なのに、ひどく懐かしい気がするのは何故だろう。


 寝ぼけながら服を着替え、着ていたものは洗濯機へ突っ込む。洗濯は帰ってからだ。

 ぼうっとした頭を占めているのは、やはり夢のこと。


 夢には続きがあった。

 自分が魔法使いになって、その魔力の強さ故に戦争に巻き込まれていくのだ。そして、そんな自分を支えてくれる美しく屈強な騎士――――


「ばっかじゃないの?!」


 理沙は頭を切り替えるように言うと、コーヒーを淹れるためにキッチンへ向かった。

 そう、ヒストリカルの恋愛小説の読みすぎだ。あるいは、ネットで読んだファンタジー小説か。あんなありえない話を夢に見るなんて、自分は欲求不満なんだろうか。

 気合を入れるために濃い目に淹れたインスタントコーヒーは苦すぎて、ミルクを多めに入れるはめになった。




 職場に向かう電車に揺られながら、理沙はあの夢のことを考えていた。電車の外は雪が降っている。都心には珍しい雪は、流れていく建物を白く塗りつぶしていく。一旦日がさせばあっという間に溶けてしまうのだろうが、今だけは屋根屋根に降り積もり誰にも侵されていない聖域のように静かで美しい。

 夢の中の光景は今と同じで辺り一面真っ白な雪に覆われていた。だからついつい考えてしまうのだろう。


(でも、流石に雪に閉ざされるとそんなふうには思えなくなるのよね)


 白くふわふわと積もる雪は、赤や青の屋根を隠して降り積もっている。いつもは乱雑に並んでいる印象のバラバラな色の建物が灰色と白で塗りつぶされ、ガラリと雰囲気が変わっている。


 やがて電車は大きな公園の脇を走り抜ける。電車の中からは鬱蒼とした杉の木の間から、少し奥にある広場がいつもは見えるのだが――――この日は雪のせいか、見えなかった。そこにあるのは重たく枝を垂らした木々だけで


「――――!」


 その瞬間、理沙の脳裏を駆け抜けたのは雪を被った深い森。そう、丁度今朝の夢のような――――


『雪の日って本当に静かだね』

『そうだな』

『静かすぎてしんしん降る音が聞こえてきそうだよ』

『しんしん?お前の国ではそんな音を立てて雪が降るのか?』

『やだなあ、×××。そうじゃなくて』


 突然、頭の中で再生されるシーン。

 暖かな暖炉の前で薪のパチパチと爆ぜる音、燃える匂い。

 あまりにはっきりとした情景、けれど話している相手――――たぶん男――――の顔や名前はさっぱりわからない。


(なに? 今の。あれが白昼夢ってやつ? なんて鮮明な)


 目眩を起こしそうなほどの鮮明さだった。

 そう、背後から抱きしめられて座っている、その感触さえもわかるほどに。





「おはよう月原さん、週末はどうしてた?」


 理沙がデスクに座るなり、横から同期の男性社員・遠藤が声を掛けてきた。

 彼はジャニーズ系のイケメンで、社内でも人気が高い。密かにファンクラブがあるほどだ。ただし、理沙自身は彼を恋愛対象とは見ていない。そんな理沙を遠藤は気に入って、いわば親友づきあいをしているのだ。


「おはよ、遠藤君。週末ね、ええと……」


 理沙は貴重品だけ入れた小さなバッグをデスクの引き出しにしまいながら、この週末のことを思い返した。


 土曜の朝は、たしかふつうに起きて、日課の散歩に行って----

 その先が、どうしても思い出せない。


 呆然と固まってしまった理沙を遠藤がのぞきこんだ。


「月原さん? どうかした?」

「え?あ、ううん、なんでもない」


 その時始業時間になり、遠藤も席に戻っていった。理沙は頭を切り替えて仕事に入ったが、頭の隅にモヤモヤとしたものが残って、なんとも能率の悪い仕事をすることになってしまった。


 昼前に頭を冷やす意味もあって銀行へ行くことにした。幸い、もともと銀行へいかなければならない用事はあったのだ。


 ベージュのロングコートを羽織り、足もとは家から履いてきたブーツに履き替える。会社のビルを一歩出ればまだ雪は降り続いていて、歩道は積もっていないまでもすっかりぬかるんで歩きにくいことこの上ない。理沙は空を見上げた。

 鼠色の空からふわふわと音もなく舞い落ちてくる雪片は白ではなく黒く見える。それが視界一面に見えて、なんだか不思議な気分になる。


「---寒っ」


 理沙はマフラーに口元まで埋めて歩き出した。銀行は歩いて5分ほどのところだ。


(道が凍ってなくて歩くのが楽よね)


 歩きながらなんとなく理沙は考えていた。


(雪が降った次の日って、積もった雪が凍って。そのうえにまた雪が降ると滑りやすいから)


 ぬかるんでいるとはいえ、アスファルトむき出しの道のなんと歩きやすいことか。雪の上を歩くときはつま先から足を下ろさないと滑って転ぶから----



 そこまで考えて理沙はぴたりと足を止めた。


「----何? それ」


 雪の日の歩き方だの、雪が凍ってどうなっていくかだの、何故自分はそれを知っているのか。理沙は生まれも育ちも東京で、雪とはほとんど縁のない生活を送ってきたはずだ。当然、雪の知識なんてない。

 なのになぜそんなことを知っているんだろう?




 ----つきん



 何だろう。胸が痛い。

 ぽっかりと何かが抜け落ちてしまったような気持ち。

 週末の記憶がすっぽり抜けていることだろうか? そうだ、そうに違いない。


 そう言い聞かせてはみたものの、心に浮かんでくるものは全く別のものだった。





 そんな感じだったので、その日の理沙はさんざんだった。幸い仕事上のミスをすることだけは避けられたが、どう考えても能率の悪すぎる作業しかしていない自分に自己嫌悪だ。


「今日はどうしたんだよ、月原」


 何とか定時までに必要最低限の仕事を終わらせることができた理沙に声が掛けられた。ロッカールームへ向いていた足をぴたっと止めて振り返ると、なんだか真面目な顔をした遠藤が立っている。遠藤は公私をはっきりとわけられるタイプの人間で、オフタイムには理沙の苗字から「さん」をとって呼んでいた。だから理沙もそういうときはくだけた話し方にするようにしている。


「え? 何が?」

「とぼけなくていいよ。今日はなんだか上の空じゃないか----なあ、今日は時間あるか?」


 飲みに行こう、と言われて、悩み疲れていた理沙はすぐに首を縦に振った。




 駅前にあるチェーン店の居酒屋でビールとつまみを何品か注文し、「で?」と遠藤が無遠慮に切り出した。


「なんか悩んでるんだろ?」

「そんなんじゃないよ、たぶん疲れてるんだよ」

「週明けだぞ? なんだ、休みの間そんな忙しかったのか」

「それも問題なんだよねえ……」


 なにしろ覚えていないのだ。まるで遠い昔のことを思い出そうとしているようにぼんやりと霞がかかっているような気がする。

 親友の気安さでその話を訥々とすると、遠藤が首をひねった。


「なんだそりゃ。ただ単にひたすら寝てたんじゃねえの?」

「それならそれを覚えてるでしょ? 全く抜け落ちてんの。そこだけぽっかり記憶に穴が空いたみたい」

「記憶喪失ってやつか?」

「え~! 小説じゃないんだから」


 理沙は口をとんがらせてビールを飲んだ。注文したつまみもあらかたなくなったが、そろそろおなかもいっぱいだ。遠藤もジョッキに残っていたビールをぐいっとあおり、それから立ち上がった。


「月原、今日はもうお開きにしよう。帰って休んだ方がいい」

「ええ? まあいいけど。なによ、デートの約束でも忘れてたんでしょ」

「バカ、真面目に心配してんだぞ!」


 見上げると遠藤の目は極めて真剣だ。


「―――ごめん、茶化したりして」

「ああ、うん、怒鳴って悪かった。でも、送ってくから今日はもう休めよ」

「え! いいよ、具合悪くなんかないんだから一人で帰れるよ。時間だって遅くないし」

「俺が心配なんだよ。ほら、いくぞ」


 あれよあれよという間に遠藤は会計を済ませ、理沙を店から連れ出すとタクシーを止め、奥の席に彼女を押し込んで自分がそのあとから乗り込んできた。


「月原、行き先」

「え? あ、うん―――すみません、新郷通りをまっすぐ行って―――」




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