塗り固められた正義と、それを貫く槍。
生まれた時から死ぬことを知っていた。
:塗り固められた正義と、それを貫く槍。
生まれた時から、漠然と分かっていた。
否。それは決められていたと言っても過言ではないだろう。
世界を統括する『神』に
捧げられる『人間』と捧げる『人間』の重さを計る『天秤』。
それは古の昔に、死者の心臓と真実の羽の計った神の神話のようで、
けれど、現実にこの世界は 神の創りしプロセスとそのシステムによって動いている。
生まれる前か、はたまた生まれた時か?
どっちにしろ自分が介入できる前にあれよあれよ言う間に
周囲に流され、『生け贄』としての俺は、その生を祝福された。
捧げられる側の『人間』として。
母はいない。
母は俺を生んだ後、名前だけを託して、残して消えた。と、俺の教育係である 奴 は言っていた。
アヌビス
それが俺の名。
俺をこの世で唯一、無償で慈しんで愛してくれた人が付けた名前。
どこかの国の冥界の神さまの名前。
その名を口ずさむたびに、知らないはずの、記憶にない母の 強く美しい笑顔が頭に浮かぶ。
頭の中の母がそうやって笑う度、俺は腹の中で笑いたくてしかなたかった。
空へとのびる階段を前に、踏み出そうと立ち止まった足のこの先には 白い、白い空間がある。
悠久から存在されるとされるその空間に『天秤』があり、
そこでこの命とこの命以外を天秤にかけ、
重かった方の願いを叶えるといわれる『神』がある。
それは偶像か、はたまた神そのものか。
それを知るのは今まで 捧げられる側の人間だけだった。
そして今日、少年もその1人へとカウントされる。
「アヌビス」
今、まさにその階段を昇り、命を計ろうとする少年を 彼の声が呼び止めた。
「何だ?」
少年は階段に足をかけ、鷹揚と首だけで振り向くと 彼がいた。
今まさに世界をかえる神聖な儀式の最中だというのに、
少年は厳粛なはずの白いローブのポケットに両手をつっこみ、首だけこちらを見ている。
その姿は、まるでどこぞの不良のようで 彼は苦笑した。
少年はそんな彼の態度ににやりと笑い返した。
笑ったその顔は楽しそうに笑っているのにどこか、悲しそうだった。
少年をここまで連れてきた大人達は、それがこの少年がこの役割を
全うすることに感極まっているからだと言っていた。
自分達はなんて立派な『贄』を育てたのだろうと笑っていた。
けれど、彼には分かっていた。
そうじゃない。と。
「行くんだね」
彼は少年に言った。
彼の声に少年は、今度は身体全体を向き合うように くるりと振り向いた。
「俺はその為だけに生まれ 生きている。
俺はこれまで『生け贄』として世界の『柱』とされていった奴らの命と
それをただ甘んじて享受する奴らの命と、
どちらが重いのか計らなければならない。」
憮然という少年に、彼は笑った。
そんなの分かり切っているだろうと、
「何億も存在する命と、たった数百もの命を計るのか?」
少年も笑った。
「この世界は腐っている」
腐った蜜柑の方程式を知ってるだろ?
なんせ、お前が俺に教えたのだから。
少年の言葉に彼は頷いた。
「そうだね。1つの腐った蜜柑でよくもまぁ、これだけ腐らせたもんだよ」
「蜜柑を腐らせるのは簡単だったろう?」
「とってもね」
少年は彼のそんな答えを予想していたが、
いざ実際言われると 何とも不可思議な気持ちだった。
これから何が起きるか分かっているはずなのに、それでも彼の態度は常日頃と変わらない。
思い返すと初めからこんな風だった。
誰もが自分と距離を置く中で、常に変わらない態度で、
何かを仄めかすように、嗾けるような物言いをするのは彼だけだった。
否。本当ならもう1人だけいたかもしれない。
記憶に残らずに この名だけを与えて---------消えた人。
(あぁ。)
少年は何かに気付いたように 笑った。
(そう言うことか)
彼は 記憶にないはずの 母 と同じなのだろう。
自惚れていないならば、正しく世界よりも 彼は自分を選んでくれているのかもしれない。
もう。それを確かめる時間はないのだけれど……
そうして少年は最後にココロの底から ニコリと笑った。
それは自分の母と違う理由かもしれないが、それでも嬉しかった。
これから世界をひっくり返すような、自分の『答』を肯定する彼に-------
生まれた時から死ぬことを知っていた。
それならば何故、自分は生まれてきたのかを考えたこともあった。
死ぬことを望まれその為だけに生まれてきたのなら、それはあまりにも惨めだったから。
決められたレールの上を歩くの趣味じゃない。
他人の言いなりなんて真っ平だった。
死が恐いわけじゃない。
だって、死を恐れるまで生きていない。
ただ、誰かに言われて 誰かに決められて死ぬことが 嫌 だった。
何もない自分の この身体と この命だけが 唯一自分の変わらぬ 所持品 だったのに、
それすらも許されないことがムカツイタ。
そして何より、それを当たり前に思う奴らのことが憎かった。
この命がその他の命より軽いなんてあるはずがない。
俺は知っている。
これまで捧げられた『人間』たちは ただこの世界を愛していただけなのだと…。
だからこそ、その願いのままに『天秤』は捧げた方の命に傾き、
その『人間』の 願いを、祈りを 叶えたのだと。
けれど、俺は違う。
俺は世界を愛しているからこそ、俺を裏切り続ける世界が 憎い
愛しているからこそ、憎かったのだ。
アヌビス
それは死者の命を計るもの。
そして、裁くものの名でもあったと言われている。