エピローグ
夏休み前日。
一学期の終業式を終え、その放課後。俺は逆襲ルームにて一人、出入口に向かってパイプ椅子に腰掛けていた。
逆襲ルーム前の廊下をまたいだ窓を開け、この部屋の戸も開け、部屋の奥の窓も開けると、蒸し風呂のようなこの部屋もほんの少し風通しがよくなる。
部屋の入口にのれんとか付けるといいかもしれないな。
ただでさえ真夏の気温は激しく、常に汗をかいている状態だ。脱水症状とか起こしたら、この会を公の場に晒すことになってしまうし、何しろ水分が足らなくなってぶっ倒れるのは御免被りたい。扇風機も動く置物と化していて、これじゃ扇風機としての価値も既にない。戸を閉めなきゃならないのは解っているが、下着に滲む汗のように理不尽さを感じるぞ。
治、映美、しいかはまだ来ていない。
俺は座りながら腿の裏から尻、腰を除いた背中の部分に、汗がべっとりと吹き出しているのを感じながら、治のこの一週間を思い出していた。
治にとってこの一週間は異常に長く感じたものだったに違いない。かく言う俺も治を影で心配しながら、授業中のみならず、昼休みやトイレの時もこの瞬間に奴らから危害を加えられているんじゃなかろうかなどと憂慮に暇がなく、夏休みを前にして一週間を長尺に感じていた。
この週の真ん中。とうとう落ち着きのなさも極限にまで達した俺は、治のいる教室まで足早に様子を見に行っていた。
教室に到着するまでも、もし到着した時にいじめられていたらどう対応しよう、とか種々考えていたが、教室についてすぐにその考えは吹き飛んだ。
普通に、クラスメイトと話をしている治がいた。
しかもそのクラスメイトは、治を殴った藤堂だ。
教室の出入口のドアから様子を覗いていたが、楽しげに話をしているではないか。
いくらか安心した俺だったが、それもブラジェノの手の内で、治を陥れようとする手筈なのだと心中ダークに染まっていた。
そして昨日。夏休み二日前。
俺は治に話を聞いた。
治は月曜日から昨日まで、ずっと逆襲ルームには来なかった。治にしては稀有な例だと思う。
「”逆襲絶ち”してたんス」
治はこの前テレビで観たロマンス映画よろしく、恋人と戯れる大物女優のような笑顔で俺に言った。
「いじめに耐える強さを見せつけることに、全力を注ごうと思ってまして」
治は両手を天井に向け背筋を伸ばしながら、
「いやー、約一週間ぶりの逆襲ルームはいいっスね。この蒸し暑さも懐かしいっス」
「で、どうだったんだ?」
「え? ああ、いじめっスか? それが全くありませんでした」
治はけろりと言った。
「藤堂くんには謝りましたが、謝る前からたいして僕を殴ったときみたいな怖いオーラも出さず、謝った途端に藤堂くんも『ごめんなー』って言ってくれて……」
どういうことだろう?
治が無傷なのは祝着千万だが、それにしたって何事もなかったのがやけに引っ掛かる。
荒くれ者の看板を掲げて、街中を大腕ふって歩き、自分たちに逆らう者などないと言いたそうな目つきで、またその目つきすら悪い連中だ。そして、犯罪を平気の平左でやらかしている奴らだ。
そんな悪人が、ただでさえオカマだと馬鹿にされている治なのに、そのことを口実にして、かつその人物がホモ漫画を描き、自分たちの仲間に被害が及んだとあれば、治へ集中砲火を浴びせるのに、持ってこいの理由が備わっている。
それがなかった?
そして、今日。昼下がりの逆襲ルーム。夏休みまで一日もない。
釜茹での刑を、学校全体で執行しているかのような蒸し暑さを逆襲ルームで味わいながら、俺はある人物の事を考えていた。
大和光司。
ブラックジェノサイドの総帥。
あいつの性格や、いじめを見てきた俺にとって今回の一件はどうも腑に落ちない。
実のところ、先週の治が殴られた日から、大和は学校に来ていなかった。
時々学校をサボることはあっても、成績は赤点常習犯の域には達していない実力はもっているという大和だが、この約一週間は、担任の先生が朝礼で述べたところによると、サボりではなく病欠なのだそうだ。
これは俺の憶測に過ぎない。この憶測が、気まぐれな俺のお人よしから来るものだったとしても、個人的な妄想であり、推理小説で展開される名探偵の卓越した推理とは天地の差で劣り、別次元のものであると言っておく。
保健室で逆襲同好会の面子が集まって話していたあの時。
隣のベッドで寝ていたのは、朝、不良という役柄でありながら、卒業するために単位を取ろうと健気に登校するも、あえなく体調不良に陥った、大和だったのではないか?
ならば、なおのこと治が蹂躙されるのは必然だが、それがなかった。
大和は進路で悩んでいそうな雰囲気だったし、奴にも砂漠の砂一粒くらいの小ささで、人間らしさや慈悲の心があったとしたら? 奴だって一応人の子だ。ないとも言い切れない。
俺たちの話をカーテン越しに聞いていた大和は、治の勇気に心が折れ、藤堂などの配下にいじめるなと命令したとか?
馬鹿馬鹿しい。
低劣な憶測はここまでだ。
そんなわけがあるか。
あんな傲慢な奴がそんな大それた事をできるはずもない。
人の心なんて解らない。
笑顔で話している奴を偽善者だ、人格者だとジャッジを下している時点で、想像の枠内にいるのだ。
ただその笑顔だけが真実を物語っているのさ。
だから今は、藤堂の治と話していた時の楽しげな表情を信じるしかない。
しいかが逆襲ルームに入って来た。
「おう、しいか、バンドの調子はどうだ?」
「あ? 何がバンドの調子だ馬鹿タレ! てめえこそ歌詞の方はどうなんだ、コラ!」
しいかはちょっと厳しめにそう言ったが、男としての俺の思惑は「早く京太郎の作った歌詞が見たい」「京太郎と一緒に歌詞を考えたい」と、催促しているように聞こえた気がした。当然妄想でしかないのだが……。
「おう、すまんな。一応考えたことは考えたんだが、全く思いつかなかったんだ」
「無理もねえ。初めて書くわけだし、詩心あって頼まれたんならまだしも、芸術に疎い奴がやるのは至難の技だぜ。映美会長からも、お前のそんな話は聞いてたんだけどよ。そこで、あたしから提案がある」
しいかはそう言って、俺の隣のパイプ椅子を俺に向けて座った。したたかな目つきをした彼女。この距離で顔を見合わせようとすると、彼女はそわそわと目線があっちこっちに行ったりしていて、何か他意を抱いていそうに思えた。
俺もどこを見たらいいか、目を向けた先が一点に定まらない。
こうして女子の真向かいに座ると、下手に視線を首から下へは動かせられない。下心は正直ある。が、今はそんな事を考えている場合ではない。
しいかは、俺の目をしっかと見つめた。
「京太郎、お前は書こうとしてる対象への言葉をただ書き並べるだけでいい。その言葉を元にあたしが歌詞を作る。それでいいだろ?」
「なるほど、そういう手もあるんだな」
「考えて出てきた言葉をただ書き並べるのだって、創作みたいなもんだぜ? 色々やり方はある。どういう言葉を書くか、楽しんでやってみろ。創作ってのは苦しいときもあるが、意外と楽しいもんなんだぜ?」
それなら何とか出来そうな気がする。
俺はいつの間にか、顔のベクトルをしいかの腰のあたりに送ってしまっていた。
彼女のなまめかしいくびれを、スカートとワイシャツの境目を見ながら思い浮かべていた。
「お前、どこ見てんだ?」
「あっ、いや」
「ま、男なんてそんなもんか。お前もしかして、制服フェチとかだったりする?」
「あっ……、いや」
しいかはニヤリと、唇を動かした。目付きはどこか俺の下心を験しているみたいだ。
直後、戸のところで声がした。
「ちょっと、開けっばなしにしないでちょうだい、しいかちゃん」
映美が治と一緒にやって来た。
「いや、あたしが来たときには開いてたぜ?」
「って事は京太郎くんね? まったく。危機感ないんだから」
映美はそう言って、戸を閉めてしまった。俺は彼女の注意を気にせずこう言った。
「なあ、この会の夏休みって合宿とかあるのか?」
「なるほど。合宿か。それも面白いわね」と映美。
「なんだ、何も決めてないのか?」
「まあ、また連絡するわよ。期待しててね」
「僕とBL漫画を完成させてコミケで売る企画なんてどうです?」
そう治が提案したが、俺は即答した。
「ふざけんな」
「ま、各自宿題とかあるでしょうし、わたしも夏季講習で大忙しだから、しょっちゅうは遊べないけど、長い休みだし、何か企画するために集まるのもいいかもしれないわね」
肩をしょげる治をよそに映美は言った。
こうして、一学期が終わった。
学生では最後の夏休みになるのだろう。
一ヶ月以上の長い休みは日がな一日、ただだらけるだけだ。これが一日や二日ならまだしも、一週間二週間と続くと、精神的に七年間地中に埋もれて一夏を過ごす蝉の儚さに似ていて、一生の内のひと月ちょいたらずの夏休みが、悲しみと虚しさ、そして寂しさの充満したある意味儚い日常と化す。そんなていたらくだから、高校に入ってから夏休みには嫌悪感を抱いていたが、今年はそんな暇もないように思える。
時の流れに身を任せることがどうしても嫌だった。
このまま大人になれば、必然的に後悔してしまうのは解っていた。
朝起きるときに、五分ずつの目覚ましをセットしても物足りなく、あと五分あと五分と一向に布団の中で起きようとする気配もなく、睡眠時間を渇望するのだが、非情にも遅刻の時間が差し迫ってくるようなそんな感覚に近い。焦るけれども、まだ学生のままでいたい自分がいた。
だがこの会に入り、わずかな期間で教わったことをまとめると、俺に多大な影響を与えたのは間違いない。価値観が入る前と後ではガラリと変わったのだ。
時間の流れにただ流されるんじゃない。
船を造り、仲間たちとこの大海の流れに乗っかればいいのだ。
人生の目的をしっかり持ったこいつらに、学べることはきっとある。
そして、今は今だ。今を頑張ることが、未来へと繋がる第一歩のはずだ。
夏休みもこれで最後だろう。俺は逆襲同好会にこれから先を案内してもらう導き手としての役割を見出だす。進路を粘り強く考えながら、彼らにしがみつくように付いていけば、自然と時間の進み具合に憂鬱になることもなくなるさ。
進路の事で悩むのは少しずつでいいからやっていこう。そして、こいつらの色鮮やかで清々しい雰囲気に身を委ねよう。
楽しみながら、着実に前に進んでいこう。
何より今は、彼方まで広がる青空に飛行機雲が一直線に伸びる光景を仰ぎ見るような、開放感ある気持ちだった。
久しぶりに夏休みが楽しみに思えてきた。
同好会の逆襲!(一学期)完
同好会の逆襲!(夏休み)へつづく