第二話 夏休み直前の出来事
七月になり、夏もいよいよ本格的に始動してきた。
一学期の期末テストが終わり、夏休みまで残り二週間弱。今日はその週末に近いあたりだ。大半の同級生は夏休みに入ると、夏季講習やら進学へ向けての特別補習などが待ち構えており、おおわらわだった。
俺はといえば、逆襲同好会という、みょうちくりんな集まりに入らされ、会員の一人である弦間しいかのバンド、シャドウバスターズに歌詞を提供することになってしまった。
が、俺は入会した六月辺りから今までの約一ヶ月、逆襲同好会の部屋まで足を運んだことはなかった。
同じ三年で会長の棚野映美が隣のクラスだったので、彼女に見つからないよう帰宅するのは、佐々木京太郎率いる帰宅部(部員約一名)が入学より始まって以来の、緊迫感極まる様相を呈していた。
しかし、週末近くなった日の放課後。
俺は一度クリアしたゲームソフト「最終幻想世界2」を二周目に突入させ、昨晩も夜通しゲーム三昧だったが、期末テストは可もなく不可もなく、赤点より多少はましな出来栄えだった。
教室を出てあくびが出そうになり、またどこかの知らない同級生の女子に変な所に勧誘されちまうんじゃないか、と恐怖に駆られた俺は、出かかっていたあくびを寸でのところで噛み殺した。
ぎゅーっと顎を噛み締め、歪みに歪みまくった顔にくっついているつぶれそうな目の隙間から見たものは、手を腰に当てこちらを窺う逆襲同好会会長、棚野映美だった。映美は言った。
「久しぶりね。京太郎くん」
「おお……」
あくびの涙目で応答する俺。映美には寝不足で不健康そうに見えている俺の面かもしれないが、この時の俺は内心かなりビビっていた。
「このあと暇かしら?」
「おお……」
「逆襲ルームには来れそう?」
「おお?」
「ああ、逆襲ルームってあなたがこの間入会の手続きをした部屋よ」
「おお……」
「じゃ来れるのね? よかったわ今日会えて。もうちょっとで夏休みになっちゃうから連絡も取れなくなるし、心配だったの」
「おお……」
「あとで携帯番号教えてもらうわ。いいわね?」
「お、おお……」
「じゃわたし、職員室寄ってから行くから」
と言って映美は去った。始終、あ行最後の言葉で会話を成立させた俺だった。疑問符のところで、映美が俺の言葉になっていない疑問に答えたのは見事といえよう。
ここでバックれたら男が廃る。
連絡先教えて、なんて年頃の女から言う台詞か?
ふははは。
俺って今結構いい立ち位置にいるんじゃないか? しいかも映美も結構顔立ちはいいし、治は男だが女みたいな面構えだから脳内変換して、女三人に囲まれていると思い込めば、漫画とかにあるハーレム状態驀進中じゃないか! ふははは!
胸中にて高らかに笑う俺だった。
教室から出て映美に遭遇した後、しばらく廊下を歩くと、隣の校舎へと行く渡り廊下があるのだが、そこに見覚えのある人物が廊下と渡り廊下を隔てた引き戸のサッシの部分に寄り掛かっていた。
大和だ。
大和は身長が百九十センチ位ありそうな背丈に、怒り肩をして、体つきもしっかりしている。細身ではあるが、制服のシャツの半袖を肩までたくし上げ、浅黒く焼けた筋肉質の腕が俺を圧倒させる。奴がブラックジェノサイドという不良団体の頭をやるには、まさしく相応な風貌だった。
俺は今いる三階から降りて二階の渡り廊下を……、と思ったがそれはそれで面倒でもある。一か八かの賭けに出て、俺は大和の前を通ることにした。
大和を視界に入れないように、大和と目を合わせないように、素早く通り過ぎようとした俺だった。
「おい、待てよ」
大和に突然話し掛けられ、俺の心中は極度に戦慄した。
「なに俺の目の前通ってんだよ」
大和は台詞のわりに純朴な口調で言った。
「エ?」
一文字しか言葉が出ない俺。
「エ? じゃねーよ。何の許可もなく俺の目の前通ってんじゃねえ。通行料五万だ」
「い、いや、俺そんな金持ってないし」
「じゃあそこら辺にいる奴からかっぱらってこい!」
「大和さん」
その時、大和の不合理なもの言いにタジタジの俺を一筋の光が包んだ。
「なんだ、円か。何の用だ」
と、大和は言った。
そう、そこに現れたのは、俺のオアシス、学校のアイドル、そして生徒会長の倉敷円だった。相変わらずのポニーテールが似合う彼女。表情はいつも通り溌剌として朗らかだ。大和と比べて背は低いが、俺とはほぼ変わらない身長なのが、彼女にこれまでと同じ親近感を持たせる。
「小林先生が進路の事で呼んでましたよ」と、円。
「だりいなあ。進路かあ、めんどくせえ」
そう言いながら、大和は寄り掛かっていたサッシから離れ、渡り廊下を歩いていった。
「大丈夫ですか? 佐々木先輩」
円が俺を気遣う。
「ああ、なんとかな。しかし助かったよ円。でも大丈夫か? あんな嘘ついて。あの大和だぞ? 後が怖いんじゃ……」
「平気です。小林先生がお呼びになっていたのは本当ですから。そんなことより、佐々木先輩が無事で何よりです」
真夏に玲瓏と咲くヒマワリの如く、俺なんかに笑顔を作ってくれる円。俺はこの時、円と共に大和という困難を勝ち越えた共闘感を感じていた。
こういうやり取りが、美少女生徒会長と出来ることに、大和にはミジンコくらい小さく感謝しなきゃな。お前という凶事がいるおかげで、俺と円の間には共闘感が生まれているんだ。お前は小林先生にきつく、お灸をすえられているがいい。
しかし、女に助けられてしまう俺も俺だよな。呑気にハーレム到来だとかって喜んでいていいものなのかね?
その後は、円も何かと忙しいらしく「速やかに下校した方がいいですよ」と忠告をしてくれ、その場で別れた。すまない円。俺はこれから別の女と約束があるんだ。二股かけてるような気もしなくはない。何とも微妙な立ち位置に思えてきてならないぞ。
女運急上昇なのはいいが、同好会といいさっきの大和といい、不運に見舞われる事もしばしばだ。
しかし、大和も案外先生に弱いところがあるんだな。円の呼び掛けにすぐさま応じたのは、奴も先生が怖いんだろうし、停学や退学を避けたいんだろう。ブラックジェノサイドの統領も、容姿端麗な女子と厳しい訓導には弱かったってわけだ。
円とのほんのひと時のパラダイスを終え、逆襲ルームまでやって来た俺だった。
夏の熱線が、校舎のコンクリートを通り越して校内にまで降り注いでいるかのようだ。しかし暑いな。日陰だとしてもこの暑さは尋常じゃない。下着もぐっしょりだ。
逆襲ルームの戸を無造作に開けた俺は、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした男鹿治が一人、室内で椅子に腰掛けながらこちらを見ているのを目撃した。治は漫画を描いており、その後ろで俺が生まれるより前からありそうな古めかしい扇風機が、風を送りながら首を左右に振っている。
「すまんな治」
と、俺が無造作に開けたことを陳謝しながら手近にあったパイプイスに座る。治は漫画を描いていたようで、その手を止め「い、いえ」と言って心残りがあるように、顔を机に向けた後、ゆっくりと体を戻した。俺は治の釈然としない動作に、はっと気付かされた。
「悪い、合言葉みたいな奴、言うんだっけか? 大和対策なんだよな?」
俺の言葉に、治は男のくせに化粧品のコマーシャルに出てる女優と大差ない顔を向けて言った。
「いえ、いいんスよ。元はといえば棚野先輩が大和さん対策として、同好会だけで合言葉を作ろうっていいだしたんス。合言葉の元ネタは棚野先輩がお兄さんから受けた影響で、映画の登場人物の名前になってるっスね」
「えっと、たしか『スタンリー・グッドスピード』だったよな?」
「そうっスね。九十年代の映画『ザ・ロック』からで、ニコラス・ケイジ扮する主人公の名前らしいっスよ」
「へえ。そういや、俺が初めてここに来た時、映美は自分の作品のこと何も口にしちゃいなかったが、あいつ、もしかして映画作るとか?」
「いえ、僕も最初そう思ったんスけど、映美さんから聞いた話では、映画監督志そうとして、親に猛反対されたらしいっス」
「そっか。じゃあ、あいつの”逆襲”って何なんだよ?」
「なんなんでしょうかね……。先輩は何だと思います?」
治は漫画を描きながら少し無愛想に反応した。
俺は治のその反応を見て思った。
一ヶ月前、俺が入会するに至った直後に映美が自分の”逆襲”を語らなかったことで、スムーズに逆襲ルームを後にしたことを、俺は今になって後悔していた。
梅雨入りの六月、ジメジメする逆襲ルームは嫌だったし、これからここでやったことのないことにドギマギしながら、高校生活を締めくくるのはどちらかといえば嫌だったので、できれば早くこの部屋から、そしてこの学校から退避して、映美たちの世間話に愛想笑いでごまかしながら帰宅したかったのだ。
俺は約一ヶ月、この部屋の敷居を一度も跨がなかった。その間、円が生徒会長になるというビッグなイベントがありつつも、この空白の一ヶ月のおかげで出遅れた感は否めない。それに本人のいない場で本人の、もしかしたら聞かれたくないような質問を、本人以外の人間に聞いているわけだから、これじゃハーレムの中心にいる王ではなく、少なからず治には同好会の和を乱す悪魔のように見えてるのかもな。
だが今、治が発した無愛想は見方によっては俺を窘めているようにも見える。それに「先輩は何だと思いますか?」なんて俺に面白いことを言わせようと試みているようにも聞こえる。
同好会の連中に付き合うのは面倒ではあるが、大和に報復できる手立てがクッキリと形をなし実存している。それならば、少しばかりの煩わしさがあろうとも、高三で卒業を控えそのあとに、ニート、フリーターが待ち構えていようとも、やってみてもいいんじゃないか?
俺はいささか、治の愛想の悪い顔を気にしながらこう言ってみせた。
「映美は実はブラックジェノサイドの元首領だった。大和に首領の座を乗っ取られたあいつは、俺たちを子分に従え、ブラックジェノサイドに反旗を翻そうとしている……ってのはどうだ?」
治の漫画を描いていた手が止まり、治は俺の方を見て言った。
「なかなか面白い発想っスね」
「だろ?」
「ですが、映美さんが仮にブラックジェノサイドのボスをやる才気があったとしても、喧嘩の実力なんて無に等しい僕らを子分なんかにしてどうにかなるもんなんスか?」
「なるさ。まず、凶器となるものをそれぞれ持ってる。治、お前はその漫画を描くペンだ。目を刺す武器になるぞ」
「ワーオ」っていう外国人みたいなリアクションで両手を軽く挙げる治。
俺は続けた。
「そして、しいかはギターもしくはアンプとか、凶器になるもんはあいつには揃ってる。鈍器ばかりだが安心しろ。マイクのコードが首を絞める凶器だ。そんでもって俺は家が酒屋だから、ウイスキーのビンとか武器になるぜ?」
「なるほど!」と治。治は喜々として話した。
「こうして完全に僕たちは、戦士として立ち上がる事ができるわけっスね。うん。面白いっス先輩!」
「気に入ってもらえたようでなによりだ」
「ですが、そんな同好会だったら辞めてます僕」
治はそう言って、ニカっと笑う。お前その笑顔は反則だ。グラビアアイドルも負けを認めるぞ。こいつにビキニを着させてみたくなった。
「ま、そうだな。俺も間違いなく虚構だと思って言ってる。辛うじてここに来てるのも、この会が芸術で大和の首をはねてやろうっていう趣向だからだぞ」
「そうですよね」
「一ヶ月サボっちまったのは悪かったが……」
「いえいえ!」と慌てて否定する治。
「そんな、先輩、芸術家志望じゃないんスから、たしかにここで活躍するのは難しいかもしれないっスけど」
「しかし、話は変わるが、扇風機の意味ないな。サウナ状態じゃねえか、この部屋」
「そうなんスよ。確かにあちーっス」
「映美だか誰だか知らないが、なんでこの部屋を選んだんだろうな?」
「うーん……」
と、治は考えながら話す。
「多分ですが、職員室の前の通りなんで不良が寄りつかないから、とかじゃないっスかね?」
「ほう」
「戸のところに第二サーバールームって書いてあるのも機械とか置いてあって、いつ先生たちが機械を見に来るか解らないから……」
「たむろする隙がないってことか?」
「じゃないでしょうか」
「なるほど、もっともな意見だ。しかしだな、それは不良共だけじゃなく、俺たち普通の生徒にも言えなくないか? こんなところで扇風機回してくっちゃべってたら、不良じゃなくても怒られるだろうよ?」
「まあ、そうっスね。ですが、僕が思うに顧問の先生がいるから、先生方も黙認してるってのがあるんじゃないです?」
「治はその顧問の先生の顔見たことあるのか?」
「それがないんですよ。まあ、あまり興味ないですし学校で漫画が思いっきり描けるなら、どんな先生でもいいっス。僕にとってはありがたい黙認っスよ」
実を言うと俺は今日までの間に、生徒手帳をあらかた読破していた。
手帳に書いてあったことによれば、この学校には同好会を立ち上げていいという規則もなければ、立ち上げてはいけないという規則もない。
であるのなら、治が言った顧問の先生の存在が事実だとすると、この会は特別な「許し」を得て活動しているということになる。
治の言うことは、確かめずとも的を射た答えだと俺は思う。職員室の前の通りにあるパソコンルームの側で目立たずにあるこの部屋に、映美や俺たちがいられるのは間違いなく顧問の先生がいて、わざわざ校内の一室を借り”芸術で逆襲する”なんてことをやらせてもらえる「許し」を得ているからだろう。
俺以外の三名が、喜んでブラックジェノサイド、なかんずく大和光司に対する”逆襲”を主な活動内容にしているのはつい先日知ったばかりだ。顧問がいるのなら、そのような私的理由で他人に嫌がらせをするような活動内容が、結果、大和たちとのケンカの火種になる可能性があり、それを許しているという現状が理解に苦しむ。
それでも俺はこいつらに加担し、大和への武器としてシャドウバスターズへの歌詞を作ることにいくらか辟易しつつも、半ば前途洋々たる気持ちだった。
顧問がいるということ、そしてそれにより俺たちが自由にここを使い、出入りし、会話や活動ができるということ。それらは他の先生も認めているからこそ出来ることだということに他ならないだろう。
だとしたら、それはそれで安心度の高い環境にいるって事だ。この会がいつ発足したのかは知らないが、俺が入会する前からあったとして、少なくとも四月から三ヶ月は経過している。その間に、わずかな人数のパソコン部の連中だって目の前のパソコンルームに出入りしているはずだし、パソコンルームに何気なく遊びに来る、パソコン部じゃない奴らだっているはずだ。そんな奴らの中にも大和と顔見知りくらいの奴がいてもおかしくないわけだし、密告されたりする場合だっておおいに有り得る。
ああいうやっかみを自分たちの快楽のために行う連中からすれば、いるのかわからない顧問がこの部屋にいないというだけで、活動の妨害をしてくる理由には十分だろう。
約三ヶ月、もしくはそれ以上の時間が経っていながら、逆襲同好会が大和たちの被害を食らっていないのは、戸の第二サーバールームという表示と、暑いのに随時閉めきっているその戸と、職員室に近い場所であり、顧問がいるという四点と考えていいだろう。
大和にいじめを受けたであろうこの被害者の集まりが、その恨みつらみを晴らそうと芸術に命を賭けるいう妙な団体、逆襲同好会。その団体の顧問につく物好きな先生とは一体どんな人なのだろう?
その時だった。
戸をノックする音が聞こえ俺は大方、映美が来たんだろうと予測した。
俺は戸の前に行こうとした治を止め、代わりに戸の前に立った。そしてその閉まっている戸と戸の傍らにある壁の間くらいに頭を寄り掛からせた。
戸の向こうの人物は再度ノックするが、俺も治も反応せずにいた。治には指示を出していなかったが、俺が頭を寄り掛からせているのを見て、合点がいったんだろう。
「誰もいないの?」戸の向こうの人物が言った。やはり映美のようだ。戸の南京錠が外れているのなら、彼女は不思議に思ったはずだ。誰も応対しないので、逆襲ルームが留守だと思ったらしく、映美は戸を開けた。
頭を逆襲ルームの戸に預けていた俺は、戸を開けた瞬間、突如として俺の顔が現れたことで映美が仰天するのを意図していた。
しかし、映美がゆっくり戸を開けたため、隙間から俺の顔を確認することができてしまった。映美はすかさずゆっくりと戸を開けていき、俺の顔だけ戸から出る形となった。そして映美は勝ち誇った顔しながら、戸を閉めたので、俺の首が戸に挟まってしまった。
映美は勝ち誇った顔から、狂気に満ちた顔に豹変し、俺の首を挟む戸を力強く閉めようとした。
「う……、く、苦しい」
「うふふふ。苦しい? この世に生まれ落ちて、苦しいというのなら、早急にあの世へ送ってあげるわ」
映美、お前それ何のキャラだよ。性格豹変してんじゃねーか。こいつ実はSなのかな?
俺は冗談めかして、というか、この場に相応しい台詞を吐いたつもりだった。だがこの映美の変わりようときたらノリノリじゃねーか。台詞を聞いた感じ、まさしく先ほど治と話したような悪の女首領みたいな役柄だ。
映美は力を緩める気配もなく、両手を戸にひっかけたまま、ぐいぐいと閉めようとしていた。俺はいつぞやのギロチンがここでも?! と思いつつ、次第に喉の苦しさが本格的になってきて、救急車を呼んだ方が無難な感覚に陥りかけていた。
「どう? 京太郎くん。私と手を組まない? 私と共に、燦然と輝く光の世界を襲う、黒き鎧を纏ったよこしまなる者たちを倒しましょう?」
と、映美は何だかわからない役のまま言った。黒き鎧を纏ったよこしまなる者たちって大和やブラックジェノサイドのことか? なんだよ、主人公を追い詰める敵か味方かわからない謎の登場人物みたいなこのシチュエーション。
俺はもたつきながら話した。この口の動作は浜辺に打ち上げられて口をパクパクしてる魚を彷彿とさせる。
「わ、わかった。わかったからいい加減その手を……」
「ホントにわかった? もう二度と幽霊部員なんて真似しないって誓う?」
映美が普段通りの口調に戻り、眼鏡越しに大きな眼で、俺を見つめながら言った。
「誓います、誓います。どうかお慈悲を……!」
「わかったわ」
ようやく許しを得た俺は、戸を開けている映美を首の痛さから来る涙目で見ながら、激しくむせた。
「あー、苦しかった」
「我に自由を―」と映美は感情のない喋り方で言った。
「なんだそれ?」
「ある勇者の死に際の叫びよ」
俺と映美は、おバカな寸劇を終え逆襲ルームへと入室した。部屋の中では事の顛末を見ていた治が、若干青ざめた顔で俺たちに言った。
「生きてますか、京太郎先輩? 僕、映美先輩が本当に京太郎先輩を殺すんじゃないかと思って見てましたよ」
「なんとか大丈夫だ。俺も一瞬だが、あの世を垣間見た気がした。貴重な経験だったよ」
次いで、映美が偉そうに言った。
「そうでしょう? 感謝してもらいたいものだわ。今後二度と味わえないかもしれない経験をさせてあげたんだから」
何が感謝だ。今のは嘘に決まっているだろう。本当に苦しかったんだぞ。俺もまさかこいつがあんなに力を入れるとは思ってもみなかった。幼稚な事をしようとした俺も俺だが、あれくらいは冗談だってことくらい見極めてほしいぞ。
「ま、でも、これでわたしとあなたの逆襲同好会としての結束は強まったんじゃないかしら?」と映美。
強まったも何も、今後お前の事は俺の頭の中で大和に次ぐ危険人物としてリストアップしておく事にする。
こいつはあそこまでして、俺をこの会にいさせたいのだろうか? 階段際の一件は過失とはいえ猥褻な行為をしたんだぜ? 普通年頃の娘ならもっと警戒しないか? 俺は同い年ながら、彼女のあっけらかんとした態度に女性としての将来性を危惧してしまわずにいられなかった。
俺は映美が片手に持っていたバットに、はたと目が行った。金属製の使い古されたバットだ。
「お前、そのバットどうしたんだ?」
「これ? ソフトボール部に知り合いがいるから、少しの間だけ借りることにしたの」
「なんでまた? まさかお前」
俺は嫌な予感がした。
「これで殴ったりしたらさぞかし痛いでしょうね。今後あなたが、ここ一ヶ月と同じ行動に出たら、これで『修正』してあげることにしたの」
ほう……ってマジでか?! 親父にでさえバットで殴られたことないのに!
「と、いうわけだから、頼むわよ? 京・太・郎・く・ん!」
後半、俺の名前のところをやたらと強調して言う映美だった。
俺の人権無視かい! お前どれだけ偉いんだよ!
映美に脅迫され、終始無言の俺ではあったが、風呂場に生えたしつこい黒カビのような視線を絶え間無く送ってやった。呪ってやるー!
こうして、俺にとって一回目の逆襲同好会会合が始まったわけだ。
やることといっても、俺はしいかのために書かなくてはならない楽曲の歌詞を考えようと、大学ノートと睨めっこ。当然ながら歌詞は全く思いうかばない有様だ。治は本格的に漫画を描いているらしい。インクやペン先の付いた、いかにも漫画家が使っていそうなペンを、原稿用紙を回転させながら手首を機敏に動かし作画に集中している。映美は完全に受験勉強モードで、分厚い参考書とノートを開きその視線は治と同じく、話かける余地のない厳めしいものだった。
他者を一切受け付けない二人のオーラをこれでもかと感じ取った俺は、少々この会を敬遠してしまいたくなった。何とも言えぬ孤独感と一緒に。
やっぱり俺は場違いだ。すごく過ごしにくいぞここ。
しばらくして、俺の話し相手、否、筆談相手の大学ノートちゃんの白い紙の肌には、いびつな円やら四角に、適当に描いた表情を付け足した落書きが散乱していた。治が見たら何て言うだろう? 奴には到底及びもしない画力だ。
そうこうしているうちに下校のチャイムが鳴り、夏の陽射も傾きかけてきて、校庭にオレンジの色彩が放たれた頃。
俺は、過ごしにくさがマックスに達していたのを嫌い、そそくさとバッグを持って逆襲ルームから出ようとしたのだが、
「あ、京太郎先輩一緒に帰りませんか?」
と、治からの申し出。
嫌ではなかった。逆にあの厳かなる空気が充満していた先の部屋とは違う、一緒に帰宅しませんか? という学生らしい和やかなお誘いは、俺を歓喜にいたらしめた。ホッとしたというのももちろんあるし、治なら同好会や映美の事を色々聞けそうだしな。
映美も、ノートと参考書に張り付いた無表情をバッグにしまったと同時に、女子高生らしい溌剌とした顔色に変えて言った。
「さて、今日の活動はこれでおしまい。治くんどう? 進んだ?」
「はい、バッチリです。そろそろ終盤に差し掛かりましたよ」
「よかったじゃない。京太郎くんは?」
「全然だ。申し訳ないが正直、同好会を退会したいんだが……」
「まだ一回目よ?」
と、首を傾げる映美。彼女は続けて言った。
「人の作った芸術作品見て心ない人は暇人だとか言うんだけど、芸術っていうのは生み出して育むことだと思うの。同い年の私が言うとなかなか説得力無いかもしれないけど、今あなたは何かを生み出そうともがいている最中なのよ。何もないところから生み出すのは骨が折れるでしょうけど、大丈夫。ヒントは足元に転がってるようなものよ? しいかちゃんに一度相談してみたら? 彼女、一見とっつきづらそうに見えるけど、会員随一の優しさを持つ人よ。それと、プロのミュージシャンの歌詞を参考にするってのも手ね。色々試してみればいいじゃない?」
「ああ、まあそうなんだが……」
映美の言うことに、事実感心せざるを得ない俺だった。要は一人で悩むなってことだよな? 先程の二人の近寄りがたい雰囲気に圧倒されてちゃだめなんだ。所詮俺は今まで芸術をやった事が無いなんて言ってたって始まらない。
俺の頭のスイッチがやる気の方へ入った気がした。
「やれるだけのことはやらせてもらう。大和に直接的な打撃を与えられないにしても、俺のマインドは核弾頭なみの破壊力でもって、奴をしとめようとしてるんだ」
「そう、その意気よ! 頑張りましょ。京太郎くん」
映美はそう言いながら片目をギュッとつぶり、親指を立てて俺に見せ付けた。
そのあとは、映美が逆襲ルームの鍵を返却しに行くとの事で、彼女から先に行っててと言われ、俺と治は傾く太陽を見つめながら、一緒に帰路についたのだった。
夏の夕刻。小さな山の中腹にできた皆平高校の坂を下り終えると、コンクリートの一本道がある。道の片側は小幅な堤防と小川が流れており、もう片側はたんぼが広がっていた。校舎のある後方の山から蝉の鳴き声が引っ切りなしに聞こえて来る。
蝉の鳴き声は夏の風物詩と言えど、やはり暑さが増す効果があるような気がする。
俺は今、一本のアスファルトの道を、女のような顔をした男と夕日を浴びながら歩いている。
「京太郎先輩は、将来の夢とかあります?」
治が尋ねてきた。
「ないな。だが金は欲しい。そんでもって寝ながら好きな時に飯食って、好きな時に趣味やってたい。夢があるとすればそんなところだな」
「ははは……」と治は微苦笑して、
「たしかに僕もそんな暮らしはしてみたいです」
「治はやっぱり漫画家か?」
「はい。なりたいんですけど……」
「けど、なんだ?」
「こんなことあまり人に言えることじゃないかもしれませんが、僕、母親がいないんです。父とおばあちゃんの三人暮らしで、父はタクシーの運転手なんですが、昔から腰が痛いって言ってるんですよ」
「大変だな。ってことは……」
「はい。漫画家になりたいって話しましたが、そんな状況ですし、オーケーはしてくれたんですが、安心して上京はできないかなと」
ここ皆平市は、地元ローカル線を乗り継いで東京まで行くのに、ざっと二時間くらいの所にあった。
皆平高校最寄の駅から電車で三十分くらいかけて、新幹線などの発着が可能な大きな駅がある。その駅は四島駅と言って、駅を有する四島市全体は映画館やデパートがいくつも点在する大きな町だった。その四島市から皆平高校へ通う学生も多い。皆平市は四島市からすれば片田舎みたいな所で、今歩いている脇にあるようなたんぼや畑が市内にはけっこうあったりする。
「親御さんはオーケーはしてくれたんだよな?」
「はい。そうなんですけど、どうなんでしょうかね? 親がそんな状態で夢なんて追い掛けて……」
治はいわゆる世間体というものを気にしているのだろう。俺はもちろん上京は賛成だ。しかし、こいつの家庭環境も複雑そうだ。親なんて気にせず行けよ、なんて言うにはばかる。しかしこいつとしてはどうしたいんだろうな? 漫画家になりたくて仕方がないんじゃないのか?
「お前個人としてはどうしたいんだよ? 漫画家になりたいのか、なりたくないのか。上京したいのか、したくないのか。どれなんだ?」
治は俯いてしばらく考えていたが、
「……きたいです」
「は?」と今聞き取れなかった治の言葉を更に問い返す。
「東京行きたいです。漫画ももっと描きたいです」
「じゃ、その夢貫き通した方がいいんじゃねえか? 親からも許可もらってて、お前がなおさらやりたいって言うんなら、他人に尋ねるまでもないだろう。上京したら親からの仕送りは一切もらわないよう頑張って、『少年ステップ』に載るようなすげー漫画描けばいいじゃないか」
少年ステップとは、今この世で一番売れてるとされる山賊漫画、「ツーピース」を世に送り出した週間漫画誌である。「ツーピース」はアニメが絶賛放映中で、男女問わず人気がある。
「あはは。僕はステップよりも『マンガジ』の方狙ってんスよ」
「少年マンガジ」はステップより発行部数は落ちるものの、「ミセスコロンボの事件簿」などのヒット作を世に送り出した人気雑誌である。
マンガジか。しかし、楽しみだよな。こいつが本当に漫画家になってその名を世にしらしめるようになれば、同じ学校の人間としても鼻が高い。そう思っても有り余るくらい、治がこの間見せてくれた漫画は凄まじかったのだ。
「もう一回、親と相談してみます。出版社に投稿するのは自宅からでもできますからね」
と治が笑顔で言った。俺は治の頭に軽く手を乗せて言ってやった。
「おう。頑張れよ」
自分が発した今の台詞に、無責任や虚飾さをいくばくか感じてしまう。
進路の決まってない先輩の俺が、カッコつけてそんな台詞を吐く資格があるのか?
だが間違った事を言ったつもりはない。
治が漫画家になるために上京はした方がいいに決まってる。東京に住むのなら、都内にあるというマンガジを出版する豪談社に行くのに利便性に事欠かないだろうし、なによりも俺の切な願いでもある。上京した方が夢を叶えやすいってのもあるし、それが治の夢なら、そう言って励ましてやるのが先輩としての俺の役目だろう。
「お? おかまが男連れて歩いてるぞ」
と、ふいに後ろから声がした。その声の主は俺には顔を見ずとも理解できた。
大和光司だ。
俺は大和が発した今の一言で、渡り廊下の時と同じく恐怖しそうになったが、何とか胸奥に押し込んだ。
「京太郎、なんだお前そっち系だったのか?」
大和は俺の隣に来て、人を小ばかにするような物言いで迫ってきた。
「何がだ?」
「お前知らねえのか? そいつ学年じゃおかまだホモだつって有名なんだぜ?」
「いや、知らないな。しかし、珍しいな大和。お前がこんな時間まで学校にいるなんて」
「うるせえ。進路指導の小林がなかなか帰してくれなかったんだよ」
大和は遠くに昇る夕日を、つまらなそうに眺めながら言った。
治を大和の攻撃から退避させるため、俺はさりげなく話題を変えた。俺の横にいた治は地面を見つめながら黙っている。
こうなりゃやけくそだ。こいつから話かけてくるとは好都合だと、思い切って、大和に攻撃を仕掛けられないかと不安感を抱きつつ、その気持ちを振り切ってこう尋ねた。
「お前は将来なりたいもんとかあるのか?」
どうだろう? 突拍子もないが学生ならありふれた自然な質問に見えなくはないだろうか?
「へっ。俺に気安くそんな質問してんじゃねーよ。あったってお前には教えねえけどな」
と言って大和は嘆息する。
なんだ? 小林先生にこってり搾られた様子だな大和。実のところ、お前もお先真っ暗なんじゃないか? 今の質問がこいつにとってはた迷惑なものなら、俺の短小な質問攻撃は成功したと言える。
「ま、俺は俺なりに生きていくさ。京太郎、今度同じ質問したらぶっ飛ばすからな」
「え、なんで?」
「いいから黙って言うこと聞いてろ」
と、大和は言って俺の頭を軽く叩いた。いてーな畜生。
「ま、せいぜいお前らはどっかのカップルみたいにイチャイチャしてろよ。明日の朝が楽しみだな」
この野郎。明日の朝登校したら、俺と治がホモでラブラブっていうことがすでに広がっていて、教室の黒板には相応な落書きがしてあるっていうのか! 厄介だ。こういう治の顔も厄介だが、大和の幅広い情報伝達のスキルもかなりやっかいだ。
大和は俺たちをそうやって好き放題馬鹿にしたあと、「マジキモい」とか言いながら早歩きで行ってしまった。やっぱり大和は大和だ。他人を虐げるのに生きがいを感じ、そのことに関しては奴の方が常に有利なのだ。いつか見返してやりたいもんだ。こりゃますますしいかのために歌詞を作ることに全力投球しなくちゃな。せっかく逆襲同好会にいるわけだし。
「なんか、とんでもないことになっちまってるぞ、治」
「僕、ホモじゃないんスけどね。こんな顔ですし、かといって女子に積極的にアタックしてるわけじゃないので人によっては誤解を受けちゃってるんでしょうね」
「お前のその面構えじゃ女の一人や二人すぐできちまいそうだがな」
「それがそううまくいかないのが現実なんスよ。女の人は好きですけど、自分の思いや容姿とは裏腹に、相手がなに考えてるのかわからないのが一番難儀なところなんスよ」
「ああ……。ま、確かにな」個人的にもひどく納得のいくお言葉だ。
「だから、そういう恋とか愛とかの難しいことから目を反らして趣味に没頭するんですけど、周りは常に動いてるんで、嫌でも勘違いや偏見が始まるんス。ほんと、不運な顔に生まれてきましたよ」
うーむ。俺には今の治の台詞は遠回しに自画自賛してるように思えてならない。女みたいな顔って事はお前、女装して女子トイレとか女子更衣室とか、裸になってタオル巻けば女湯にだって入れちまう特権を持ってるようなもんなんだぞ? こいつにはその自覚がないようだし、もとい冗談だが、そういう冗談を周囲に言い触らせば、こいつもおかまだなんだって誤解はされんだろうに。真面目なんだろうなあ、きっと。
「ま、そういうわけで明日の朝はちょっと大変かもしれんぞ?」
「まあ、京太郎先輩とだったらいいっスよ。辛抱してれば納まるんじゃないっスかね?」
治はそう言った直後、怪しげな笑みを浮かべてこう続けた。
「ふっふっふっ。大和さんてば、僕らがこういう事してるの知らないでいい気になっちゃって……。BL漫画のネタをさらに際どい物にして、今回の逆襲とさせていただきます!」
こいつ顔がマジだ。くわばらくわばら。
「そういえば映美から皆の携帯番号聞くの忘れちまったんだ。すまないが治、教えてくれないか?」
こうして治から無事、逆襲同好会メンバーの連絡先を教えてもらった。
俺も大和に逆襲同好会らしい、ちゃんとした口実がようやくできたぞ。後でしいかに歌詞を作るポイントを教わろう。
その後、映美が走って俺たちに追いつき、楽しくテレビや芸能人の話題で盛り上がって帰宅した。
その晩。俺は自室でしいかに電話をかけていた。
俺の部屋はクローゼットが左側をぶんどり、あとはベッドと二十型の液晶テレビにゲーム機、細々と買い集めてすぐに飽きた何枚かのCDを収納したCDラック、勉強机と読み飽きた漫画とゲームソフトを納めた本棚がある、いたって普通の高校生らしいといえばらしい部屋だ。
六畳のフローリングにこれらの家具が配置されているため結構手狭に見えるが、友達を呼んだ時は五、六人は入れた。床の灰色の絨毯の上には、読み掛けの雑誌が数冊置かれているが、一見して汚い部屋という印象はない。
なぜなら有難いんだか迷惑なんだか母親が頻繁に掃除し、定期的に雑誌なども部屋の隅に整頓され、一定の時期になると「雑誌どうする?」と母から聞かれ、処分される事に甘んじているからだ。だからエロ本の隠し場所も絶対気づかれないところに隠してある。ちなみに隠し場所については秘密だ。
携帯電話を耳に当て、コール音が数回鳴ったところで、しいかが出て一言。
「何だコラ」
「お、しいかか?」
「誰だてめえ」
「俺だよ俺」
「てめえのお袋間違えてんじゃねーぞ」
「いや、オレオレ詐欺じゃなくて、京太郎だよ」
「どこの京太郎だ。サスペンスでも聞かせてくれようってのか?」
しいかの喧嘩腰の言葉は、言葉だけなら喧嘩腰に聞こえるが、入会の時に見せた近寄りがたい雰囲気と、今の台詞とは違い、しいか自身は非常に女の子らしい高い声をしていた。だから、この女の子らしからぬ暴言の嵐とその声とのギャップが、どことなく可愛らしく思えた。
何と言うのだろう。甘いものとしょっぱいものを同時に食すと美味、みたいな感覚に似ている。ツンデレもそれに近いんじゃないかな?
「いや、西村先生じゃなくて、佐々木だ佐々木」
「なんだお前か。誰にあたしの電話番号聞いた?」
「治だが」
「あの野郎。いつかケツの穴に筆ペンねじ込んでやる」
「すまん。お前にしっかり許可もらうべきだったな」
「いや、今のは本気に近い冗談だ。お前なら歓迎できる。なんだ、京太郎だったのか……よかった」
しいかは胸を撫で下ろした様子だった。こいつもしかして持ち前の恐い雰囲気を盾にして、誰だかわからない人間から電話がかかってきたのを警戒していたんだろうか?
問い詰める事でもないが、一ヶ月経って俺の声色なんて覚えてるはずもないわけだし。
「で、何の用だ?」
と、しいか。俺は言った。
「作詞の事について質問があってさ。一体何を書けばいいのかわからないいんで電話してみた」
「なんだそのことか。京太郎は作詞は初めてか?」
「ああ。一行も書いたことがない」
「手元にある歌の歌詞を読めばわかるが、実は決まりがある。歌詞にはいくつかパターンがあって、AメロBメロサビこれが一番で、また同じようにAからサビまでのメロディが続き二番になる。次いでDメロが入ってサビで締めくくる。字数は極力合わせるようにするか、作曲家と相談しながらやるのもいいんじゃねえかな」
「そうか。形式みたいなものはだいたいわかった。すまないが、俺は形式がわかってもどんな言葉を歌詞として乗せればいいのかがわからないんだ」
「うーん」としいかは寸陰考えてから、
「なんでもいいんじゃねえ?」
「なんでも? ほんとかよ!?」
「その昔、『みけさん』てバンドがいてよ。奴らの作ったある歌詞にサビが『口の周りにイカスミのソースがついてる』っていう感じのがあって」
「なんだそりゃ」
「最後の方は、『便利よりも不便がいい』なんて歌ってて、意味不明なように見えて実は深いような事を言ってる、そんな歌詞だったんだ」
「ほう」
「だから、なんでもいいっちゃなんでもいいわけだ。みけさんがその歌詞書いた真意はわからねえけど、『不便がいいんだ』ってもしかしたら作詞した奴が言いたかったことを、メロディに乗せてしっかり伝えたかったのかもしれねえだろ?」
「まあな」
「作り手の真意はわからねえし、芸術ってのはもしかしたらお客さんには自分の意思とは違って伝わっちまう可能性もあるわけだ。こちらが誠心誠意つくしても間違って伝わっちまうかもしれねえ。ま、伝わる場合もあるかもしれねえが」
「なんか難しいんだな」
「表現の自由ってのが元々あるはずだ。決まりごとなんて気にしないで、まずは自分の伝えたいこと、やりたいこととか、そういうのを作詞すればいいんじゃねえかな?」
「例えば?」
「そうだな。生きてて楽しかったこと。恋してドキドキしたこと。ムカついたこと。友達といる楽しい時間とか。ラブソングなんて言葉があるくらいなんだ。愛の形なんて人それぞれだろ?」
「攻められたいって人もいりゃ攻めたいって人もいるしな」
「あたしはどちらかっていうと、攻められたいんだけどよ」
いきなり自分の性癖を、あまり顔なじみでもない男に言うのもすごいけどな。俺はあまり気にせず脱線しかけた話を戻すためこう言った。
「とにかく、個性があるわけだろ? バンドや一個人アーティストとしての」
「そういうこった。ラブソングなんて相手が好きだっていうのを、それぞれ自分なりの表現で表してる。それこそ、今までラブソングなんて沢山の人が書いてきてるわけだし。だから安心して、まずは気ままに書いてみてくれ。一発でいい歌詞を書いてくれだなんてこっちだって思っちゃいねえ。それと楽しむことだ。人生楽しんでなんぼだってテレビドラマかなんかで言ってた」
「わかった」
この俺の理解は果たして早合点かもしれないが、とにかく好きに書いてしまおう。そうだな。大和に対しての仕返しと、小一から続く積年の恨みみたいなものをうまく掛け合わせたような歌詞にしてみたいな。
俺はしいかなら大丈夫だと思い、渾身のギャグを言って電話を切ることにした。
「しいか、今から言うことを不快に思ったらごめん。先に謝っておくよ」
「なんだよ。まさかほんとにサスペンス語るつもりか?」
俺は鼻息を荒げる演技をして、
「いっ今、どんな格好してるの?」
「は? ああ、今実は風呂から出たばっかで裸なんだ」
「ええ?!」と驚くほかないだろこの状況。
「もし風邪引いたら京太郎のせいにしてやる」
「ええ?!」ともう一回俺は言った。
「さっきも言ったが、表現の自由ってのがあって、今までラブソングなんてものは山ほど書かれてきてる。その他応援とか友情の類のものもな。パクリはヤバいけど、まずは難しく考えず気楽に、思うがまま書いてみてくれや」
「ええ?!」
「もういいだろ、驚きは! 驚きすぎだろ馬鹿タレ。じゃあな。健闘を祈る」
と言って、しいかは電話を切った。
色々あったが何とかアトバイスを貰えたぞ。
俺は机に向かい、大学ノートと顔を向き合わせた。
表現の自由か。
大和に逆襲するための会。そこで活躍してるバンドの作詞、か。確かに簡単ではないな。この前も治が露骨に漫画で表現しているのを、これは同好会内の発表のみにした方がいいって映美も言っていたし、ストレートに「大和は糞だ」なんて書くわけにはいかないだろう。
様々考えに考え抜き、その日は今まで必ずと言っていいほど夜通しゲームや漫画を堪能して、朝方床につくという生活をしていた俺だったのに、朝までクーラーの効いた部屋で作詞に没頭していた。
次の日。
気付くと机の上で突っ伏して寝ていた俺は、すでに起きなくてはならない時間帯になっていた事に仰天し、詞を書こうとしたノートをバッグにしまい、朝飯のパンを頬張って学校へと急いだ。
学校に大急ぎで向かい遅刻しそうになったが、先生に見つからず事なきを得た俺は、汗をかき今の今までプールで泳いでいたかのようなびしょ濡れの顔で着席した。み、水をくれ。
七月も約半月が過ぎ、この週も終わろうとしている。明日は休日だが、これといって予定はない。今年はあの一ヶ月以上もあるいけ好かない長期休みも、芸術と大和への復讐っていう二つのテイストで、美味な味付けになりそうだ。
今日の放課後も楽しみだ。本格的に同好会の活動に乗り出したんだから、今後この放課後をうまく利用してしいかと歌詞をしっかり作り込みたいな。
しいかとの青春ランデブーに思考が偏りかけていた時、隣の席に座っていた女子が、前の席の女子と何やら小声で話しているのが耳に入り込んだ。
「ねえ。聞いた? 一年のあの女男くんがさあ」
「ホモ漫画書いて、大和くんにばれたって奴でしょ?」
なに?
聞き捨てならない。女男くんて治のことか?
「そうそう。で、ホモ漫画の主人公が大和くんらしくて」
「えー?! うそお! それやばいじゃん!」
「そうなの。で、女男くん大和くんの子分に殴られたらしいよ」
「それ本当か?」
と、俺が二人の女子の会話に割って入る。二人の女子は突然の割り込みに驚愕し、二人で顔を見合わせた後一人が、
「本当だよ」とだけ言った。
俺はいてもたってもいられなくなったが、ちょうど担任の先生が入ってきたので、休み時間まで堪える事にした。
一限目が終わり十分の休み時間。俺は隣のクラスへ行き、教室の出入口で映美を呼んで、廊下の隅でこそこそと話した。映美のクラスは移動教室らしく、大半の生徒はすでに移動を始めていた。俺は先程二人の女子が話していた内容をあらかた映美に告げた。映美は言った。
「わたしのクラスでも話題になっていたわ。今日大和くんは来てるの?」
大和は俺と同じクラスだった。今日はまだ顔を見ていない。俺は言った。
「いや、一時限目はいなかったぞ」
「そう。わたしの聞いた話では、治くんは顔を殴られたらしいの。治くんの漫画に出てた、坊主頭の子分にね」
ああ、漫画の中で大和を犯してた奴だな。
「とにかく治が心配だな」俺は言った。
「そうね。保健室にいるみたい。今から行ってみましょう」
「お前、このあとの授業受けるんだろ? 大学行くんじゃむやみにサボれないんじゃないか?」
俺は昨日、逆襲ルームで映美が真剣な眼差しで勉強に取り組んでいたのを見て、大学受けるのではと予想した。どうやら予想は的中したようで、映美は笑顔で言った。
「あら、わたしが大学受けるなんてよく知ってたわね。お気遣いなく。会員が大変なときに単位がどうとか言ってられないわ」
俺たちは保健室へと向かった。
保健室。
入ると真正面に白いカーテンがベッドとベッドを仕切り、出入口にいただけでは、誰がベッドに寝ているかわからない。
この学校の保健室にはベッドが二つあった。左奥には先生用の机と椅子や、絆創膏や消毒液など薬品が入った棚がある。
椅子に座る保健の先生に治の事を尋ねると「奥のベッドで寝てるよ」と言ったので、俺たちは奥のカーテンを開けた。
保健室はベッドの方の明かりは消されていて若干薄暗かった。だが窓から日差しが漏れ、眼前のベッドと程よい明るさに少しだけ眠気を誘われる。このままベッドに横たわりたい。朝方近くまで歌詞考えていたし。
治はベッドに座って、下半身に布団を被せたまま俺たちに気づいた。
「大丈夫か、治」と隣にも寝ている人がいるようなので、ボリュームを小さくして話す俺。
治は片方の口元に絆創膏を張り、目の辺りを赤く腫れさせながら言った。
「あ、はい、なんとか。初めてグーで殴られたっスよ。奴らからの避難て意味で、保健の先生がここでじっとしてなって」
「そうか……」俺は少しばかり安堵した。
先生たちにも無論、大和たちブラックジェノサイドの悪行は知れ渡っている。治が言っていたのは保健の先生個人の判断で、これ以上の被害を受けるのを案じた上での避難だろう。映美は声色を霞めて言った。
「漫画、ブラジェノの子分にバレたって聞いたけど」
ブラジェノとは、大和率いるブラックジェノサイドの略だ。略語を使ったからといって、奴らから制裁を喰らうことはないが、大和が目の前にいなくとも俺や一部の同級生以外の人間は、さん付けやくん付けで呼んでいる。後輩たちはもちろんの事だが、それなりに気を使わなければ、奴らから目を付けられる理由を与えてしまいかねない。
「はい……。すみません会長。大失態です。お詫びに僕今回限りで、同好会を辞め……」
「ダメよ」
映美は治のパスをダイレクトでシュートした、なでしこサッカー選手のような口ぶりで否定した。
「確かに失態は失態よね。でも、これで治くんはより一層同好会の活動に身が入るはずよ、どうかしら?」
治は俯き加減で頬を薄ピンクに染め、目に涙を浮かべながら声を震わせて言った。
「ありがとうございます。ほんとにごめんなさい……」
「気にしなくていいのよ。また明日から活動頑張りましょう」
「治、一体教室で何があったんだ?」
俺は治に質問した。
治は涙を制服の袖で拭うとこう言った。
「はい。今朝、クラスの女子に漫画描いてるところを見られて……。それは例のバトル系の漫画だったんスけど、その女子が見せてって言ったんス。見せてもいいかな、と思って他の原稿もバッグから取り出そうとしたんス。そしたら、BL漫画も一緒に出てきて、床に散乱しちゃったんス。うちのクラスにも大和さんの子分がいて、BL漫画にも出てた坊主頭の藤堂くんって言うんですけど」
治の作品で大和を犯してた奴だ。
「そいつにも見つかっちゃって……。確かに嫌じゃないですか、あんな漫画を他人に描かれていたら僕だって嫌ですよ。それで殴られたんス」
坊主頭の藤堂って奴がやらかした暴力は、恐らく人としては当然の反応だったろう。暴力をやっていい理由なんてものは皆無だろうが、藤堂が治に抱いた感情は嫌悪や憎悪だったに違いない。そういう感情が、こういった類の漫画に自分らしきキャラクターが登場し、かつ事に及んでいるという特殊な場面で芽生えるのは、治が言うように俺にだって起こり得る話だろう。
治は続けて話した。
「で、藤堂くんは僕の描いた漫画を全部破いちゃったんです。バトル系漫画も一緒に」
「投稿する予定だった作品よね?」と映美。
「はい。藤堂くんはそのあとこう言ったんス。『大和さんに言ってお前を学校に来れなくしてやる』って」
そういう事だったのか。俺は納得がいった。今回の一件は、不運としか言いようがない。治だってその女子にいいところを見せたかったはずなのだから、治を一方的に咎めるのは、奴の不注意とはいえ男として同情しつつ控えたい。
”大和さんに言ってお前を学校に来れなくしてやる”
さて、どうしたものか。
逆襲同好会が頭に”逆襲”と銘打って活動している理由は、大和に対しての逆襲を成し遂げたいからだと俺は入会当初から勝手に思い込んでいる。その思い込みが、個人的な思い込みでしかなく、勘違いや、確かなものだったとしても、俺たちが今置かれている、薄幸な環境だからこそ出来ることだし、やりがいもあることだが、一方で危険な行為でもある。今回のように作品が大和に対して作られたもので、それが本人に見つかってしまえば、学生としての日常が壊される危険性をはらんでいるからだ。だからこそ、今までもこれからも厳重に注意していかなければならないのだ。
意気消沈の治を、当たり障りのない言葉で元気づけたが、当たり障りなかったのが災いして、元気を出してもらえるような雰囲気ではなくなってしまった。
治も俺たちに気を使っているようで、無理矢理笑顔を作っているふうなそぶりで「大丈夫っス」としか言わなかった。
こうして心残りではあったものの俺たちは保健室を後にした。
廊下を映美と二人で歩いた。
「治くんが今後どうなるかが心配だわ」
映美が指先で眼鏡を整えながら言った。
「そうだよな。治が来週登校したら、絶対ヤバいことになるよな」
誹謗が生きる糧、腕っ節にものを言わせる大和他、雑多な不良どもから、執拗ないじめを受けるのは絶対と言い切れる。
大和光司という名前や顔、今まで受けてきた奴の手酷い悪態が、俺の脳裏にゲル状になって張り付く。鼻水が衣服に付着し、少し拭いた位じゃ取れない汚れみたいに、頭蓋骨の裏側にこびりついているようだ。
俺たち普通とか優秀とか言われる生徒はこういう世間一般からならずものとされている連中に、一体どこまで苦しめられればいいのだろう。
大和に紳士的な態度で和睦や改心を求めても、返事は拳や悪口雑言しか返ってきやしないだろう。
所詮、俺たちはそんな脆弱な存在なのだ。もし本当に大和に進路の悩みがあったとしても、俺たちに芸術で勝負する土俵や技があったとしても、あいつは欲望の赴くまま肉を突いて貪り食うピラニアのように、俺たちをいかにいじめという手段で平らげることしか考えていない人間なのだ。
俺には大和が、農民を重税と権力で苦しめる王侯貴族みたいなものに思えて来た。
俺は今発した一言二言の言葉を映美と交わし、それからはお互い何も喋らなかった。俺は彼女に何となく付いていくだけだったが、行き着く先が逆襲ルームであることにはたと気付いた。すでに逆襲ルームに近い、職員室前の通りまで来ている。
「あ、そうだ、部屋の鍵忘れてたわ。京太郎くん、悪いけどちょっとここにいて」
映美はそう言ってどこかへ行ってしまった。
俺は逆襲ルームの前の廊下を隔てた窓に、目前に広がるグラウンドを望見しながら寄り掛かった。
窓を開け、目を閉じ、夏の微かな風に晒されてみる。
こんな何気ない動作をしていても、ブラックジェノサイドの連中が眼底で悪人面をしながら、怪しい笑みをよだれのように垂らしている。そして眼球の中がそのよだれで満たされてしまうのだ。
目を開け、広々としたグラウンドを眺めた。他の生徒が体育の授業におけるサッカーや野球などの競技で競い合っているのを眺めたかったのだが、夏の今時分、体育はプールの授業だった。プールはここから全く死角の場所にある。女子のスクール水着、見たかったなあ……。と、男の欲求不満が何故ここで出てきやがる!
それにしても治が何だってあんな目に会わなきゃならない? 人並み以上にただ顔立ちがいい、他人より一際漫画が上手いだけなのに。大和やそのしもべたちが粗野だからといって、治が傷付けられる理由になんてなりはしない。そりゃ描いている内容は非常識かもしれないが、奴らとはおあいこみたいなものさ。
突然視界が見えなくなった。誰かが両手を被せ視界を遮ったのだ。
「誰だ?」
「こんな窓際で黄昏れた顔して、何か悲しい事でも考えてるのかな、京太郎くん?」
声の主は一発でわかった。今年の春、この学校に赴任した新米教師で音楽担任の山吹碧先生だ。
「ち、違いますよ。この手、どかしてもらえませんか?」
俺がそう言うと山吹先生は手を離した。俺は振り返り先生の顔を凝視する。先生は怪訝な面持ちで言った。
「怖い顔しないで。妖怪になっちゃう」
「そんなわけありません」
先生は漆黒の肩まで伸びた髪に、ビシッとしたグレイのスーツを着ていた。
襟の隙間から細い首筋が覗いていて、学校の中なのに妙に色気を感じてしまう。
「相変わらずそっけないなあ。でも、そういうところが京太郎くんらしくて先生は好きよ」
あっけらかんと”好き”という言葉を発する新人女教師、山吹。うーむ、この危うさは臭いぞ。不道徳の匂いがする。いやしかし、先生からは花のような香りがした。その香りは俺の鼻毛を撫でて通り、内側から脳天直撃だ。
「先生、こんなところで何を?」
と俺が言う傍ら、先生はポケットから鍵を取り出して、逆襲ルームの引き戸と相対した。先生は南京錠を開けながら俺に言う。
「ちょっとね、この部屋に探し物があって。映美ちゃんから話は聞いてるよ。逆襲同好会に入ったんだって?」
「先生まさか……」
と、俺の体は小刻みに震えていた。その震えは目の前にいる美人教師がまさか、逆襲同好会の顧問かという嬉しさから来るものだ。
「ふふふ」と先生は微かな笑みをこぼす。
「よかったら、少し話していかない? 君がまだ知らないこと教えてあげる」
先生はそう言って逆襲同好会の秘密基地の扉を開けた。
第二話 完