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王様の鷹の話  作者: 立田
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魔女と豆を食べる王様の話

すべてのはじまりとなった出会いの話。


2011/10/30発行のアンソロジー「もしそば」参加作品です。

http://indigo.opal.ne.jp/anthology/index.html

 俺は、数年前から、爪が伸びていない。


 異変はもう少し前から起こっていたのかもしれないが、当時付き合っていた女に背中にひどい爪痕を残された、その翌朝まで俺はそれを認識していなかった。しきりに申し訳ながった彼女に爪切りを貸してくれるように頼まれて、そのときやっと俺は自分の家に爪切りがないのは、俺が一人暮らしをはじめてから爪をまったく切っていないからだと気づいたのだ。

 実は伸びていないのは爪だけではない。髪も髭もその後伸びるのをやめた。普通は死んだ後でも少しは伸びるものだというが、鏡の中から見返す俺の顔はいつも同じ髪型だ。ついには髭剃りを旅行の際に持っていくのもやめた。

 荷物も手間も減ったのは楽だ。ただ、この状態が異常だということを忘れたことはない。いや、なかった。

 ある日突然魔女が現われて呪いを解くまでは。

 これから俺が話すのは、そのときのこと。魔女に豆を食べさせられた顛末だ。



 のっけから尾籠(びろう)な話で恐縮だが、俺はそのとき盛大な下痢に悩まされていた。

 異国で食あたりをしたことのある人なら納得してくれるだろうが、まるで腹の中で怪獣大戦争が起きているような七転八倒の苦しみだった。常備していた正露丸もまったく役に立たず、俺は悪寒に震えながら夜じゅうホテルのベッドとトイレを往復する羽目に陥った。

 少し足腰が立つようになると、俺はタクシー代を奮発し中華街へと向かった。

 外国で体調を崩すと、俺は漢方に頼ることが多い。その国の言葉が喋れない場合、現地の医者にパントマイムをするより漢字を書く方が症状が伝わるし、さすが中国四千年の歴史と言うべきか漢方薬はどの国で処方されても一定の効き目があるという経験則からだ。東洋医学ということで、東洋人の俺には体質的に合っているのかもしれない。

 そんなわけで俺は腹を押さえながら、瓦屋根の四隅がぴんとはねた赤い門をよろよろとくぐった。家鴨(あひる)の丸焼きが幾つも刺さった串やら肉饅頭を蒸す湯気の横を通り抜け、少し静かな脇道に逸れる。すると、ホルマリン漬けの標本がごとく高麗人参を浮かべた大小さまざまのガラス器が陳列された店の扉に、なんと日本語で「只今の時間、医者『います』」と書いてある看板が掛けてあるのが目に飛び込んできた。

 俺は信じられない幸運に腹の痛みも忘れて看板をまじまじと眺めてしまった。間違いなく懐かしい母国語ではあったが、どことなくつたない文章や、ひらがなが妙にカクカクしているところを見ると、生粋の日本人が書いたわけではないようだ。それでも日本語というだけで素晴らしい。『います』の部分だけ看板にくりぬかれた穴を通して読むようになっていて、医者が不在のときは、裏から札をひっくり返すか、別の札に差し替えたりするのだろうと思った。

 医者がいないのに看板がそのままになっていたなんてことがないことを心底祈りつつ、俺は脂汗で濡れた手で店の扉を開けた。扉に付けられた鈴が、――リィン、と鳴った。

 薄暗い店内には海産物やら(きのこ)やらの得体の知れない匂いが充満していたが、それを商う者は誰もいなかった。俺はところせましと並べられた段ボール箱の間をのろのろと縫って、光の射してくる方へと向かった。間口の割にやけに奥行きがある。あと少しでも歩くならどれだけ床が汚かろうが一回顔面から倒れ込むぜ、と本能が理性に宣言したそのとき、俺の体は白衣に包まれた腕に支えられた。


 表の店とはうってかわって白く清潔な診察室に通され、スツールに座らされながら、俺は阿呆なことを考えていた。看護婦が白衣の天使なら、女医は白衣の女神とでも呼べばいいのかとかそういうことだ。天使であれば若くなきゃいけない気がするが、女神の年齢に上限はない気がするし。まあつまり、俺の救いの女神は、太古の神というか、幅広い年齢層の中でも極めて上限に近いところにいる人だったのだ。

 彼女は俺の症状を聞きだすと、口の中を覗きこんだり脇の下に挟ませていた体温計の目盛りを読んだりしてから尋ねた。

「マメ食べナカッタ?」

 そういえば、昨日出された料理に豆の煮込みがあった気がする。俺がそう伝えると、女医は(うなず)いた。

「ココの人はよく食べるケド、ガイジンであなたみたいな症状の人オオイです。ダイジョブ、すぐ治ります」

 さらさらとペンが紙の上を滑る音が狭い部屋に満ちた。

 どうやら日本人ではないという俺の考えは当たっていたらしく、女医の日本語には耳慣れないアクセントがあった。それでも充分に安心感を与えてくれたところがさすがプロフェッショナルのゆえんだろう。

 異国での心細さもあったし、異国だからこその油断もあった。俺はそこでつい口にしてしまったのだ。

「私は数年間爪が伸びていないのですが、これって病気ですか」

「爪だけではない、髪もでしょう」

 カルテから顔を上げずに女医が言った。

「そして髭も。何回切っても、いくら剃っても、翌朝にはもう元通りになっている」

 俺は言葉を失って、白髪をすっきりとまとめあげた横顔を見つめた。

「なんで」

「知っているのか? 私が貴方のその呪いの元凶だからですよ、王様」

 年老いた女医は俺に流し目を送り、妙な呼び名を口にした。いつのまにか訛りがなくなっていた。俺は目の前の怪しい老婆を見返した。俺の腹痛も一本向こうの通りの喧騒もきれいさっぱり消え失せていた。

「そう警戒せずとも、とって食いやしませんよ。まず私の話を聞いて、貴方が思い出すかみてみましょう。すべてはそれからです」

 俺は数回深呼吸する間、落ち着いた微笑を浮かべる老婆を観察した。結果、握りこんでいた拳から力を抜いたのだが、実のところはただ唖然としただけかもしれなかった。

「どういうことだ?」

「私は貴方を(くびき)から解放しに来たのです」

 老婆の目は静かで、直ちに俺に危害を加える様子はなかった。冗談や嘘を言っている気配もない。精神の均衡を崩しているのかとも思ったが、そうではないと俺の直感が告げていた。その方が厄介なのかそうでないのかは分からなかったが、間違いないのは、老婆の話が俺の興味を惹いたということだった。

「聞かせてもらおうか」 

 俺は目を細めると、座り心地の悪いスツールに座り直した。




 むかしむかし、あるところに王様がいました。

 王様というからには国を治めていたのですが、残念なことに王様の国は小さな国でした。王様がまだ幼かったころ、ある人相見が王様の顔を見るなり「欲しいものはすべて手に入れるだろう」と告げたのですが、すこやかに成長され、なにごとも人の何倍も上手にやりこなせるようになった王様がどんなに頭と体を働かせても王様の国は小さいままでした。それほどに弱く貧しい王国だったのです。

 そんなわけで王様は色々なことをすべて自分でやらなくてはなりませんでした。

 ある日、王様は数人の家来を連れて森を通りかかりました。鬱蒼(うっそう)とした森は王様の小さい国のほとんどを占めるほど深く、旅人だけではなく近隣の住民もひとたび迷えば戻ってこられないのでした。ただし、国境である険しい山脈と、そこに広がるこの森のおかげで、王様の国はかろうじて守られてきたのです。

 隣国での用事が手間取ったせいもあり、王様が帰途についたころには日が暮れてしまっていました。それでも、いつもであれば道をよく知る馬に導かれて、王様は無事に城へと帰りついたことでしょう。しかしその夜は、王様の馬の足元に、茂みの中から黒い蛇が急に滑り寄ってきたのです。馬は驚いて棒立ちになり、森の中をめくらめっぽうに走り出してしまいました。

 王様の馬はしばらく駆けてからやっと落ち着きを取り戻しましたが、そのときにはもう、王様は家来と引き離されてしまっていました。あたりを見回しても、明かりはおろか、方角を教えてくれるものは何も見えません。王様がきびすを返しかけたとき、とても遠く、とてもかすかに光が見えました。光はどんどん王様に向かって近づいてきて、数回まばたきする間に王様の前に転がり出てきました。赤い光の正体は古ぼけた糸巻だったのです。

 深い森の中で、糸巻の糸だけが熾火(おきび)か鳩の血のように赤く、きらきらと輝いていました。

 王様は、この森から人が帰らないのは森の奥に住む魔女のせいだとも言われていることを思い出しましたが、誘うように転がる糸巻についていくことにしました。これ以上状況が悪くなることはあるまいと思ったからです。

 しばらく進むと、大きな木のそばであかあかと燃える火が見えてきました。糸巻はまるで飼い主を見つけた犬のように、ぽんと弾むと、焚き火の傍らに座った人影の手に飛び込みました。

 王様は、馬から下りると丁重に挨拶しました。夜の森に一人でいる女など魔女でしかありえなかったからです。

「ごきげんよう、森の魔女。一晩泊めてもらえないだろうか」

「ごきげんよう、迷子の王様。泊まるも去るもご自由に」

 フードを目深にかぶった人影の声を聞いてはじめて、王様は、魔女がまだ若い女だということに気づきました。しかし、魔女は王に話しかける機会を与えず、王様が馬をつないでいる間に姿を消してしまっていました。

 王様は火にかかったままだった鍋に入っていた豆のスープを食べ、焚き火の横の地面に横たわりました。そして、地面に落ちていた糸巻を枕にして、あっという間に眠りに落ちました。

 次の日になってわかったことは、魔女が木の上の巣に住んでいるということでした。朝早いうちに、魔女は素早い身のこなしで木から下りてくると、まだぐっすり眠っていた王様を起こしました。

「おはようございます、迷子の王様。貴方は早く立ち去らなければ」

 王様は挨拶もそこそこに馬に乗ると、森の外を目指しました。しかし、いくら馬を走らせても、太陽が西に傾くころには、王様は大きな木の元に戻ってきてしまいました。

 魔女は木の根元で糸巻に糸を巻き取っていました。王様は馬から下りると、また挨拶しました。

「ごきげんよう、森の魔女。一晩泊めてもらえないだろうか」

「……ごきげんよう、迷子の王様。明日、私のために仕事をしてくださるのなら」

 そこで、王様は魔女の言うとおりにすると約束し、また豆のスープを食べて固い地面で眠りにつきました。

 あくる日、魔女はまだ暗いうちに置きだすと、しばらく招かれざる客の顔を眺めました。そして朝日が昇ると同時に王様を起こし、ひとつかみの豆を手渡しました。

「おはようございます、迷子の王様。馬で鷹についていき、これを()いてきてください」

 王様は鷹に導かれ、森の奥へと踏み入って行きました。どんどん進むうちに王様の目の前が急に開けました。空き地に無数の大きな石が無造作に転がっているさまは古代の遺跡かと思われました。それまで低く飛んでいた鷹が王様の肩に止まり、魔女の声で喋りました。

「もう少し先にきれいな小川があります。そこで馬に水を飲ませ、貴方も水を飲んでから、この土地を耕してください」

 王様は言われた通りにしました。たった一人で大きな石を動かし、木の根の間を剣で掘りました。黒い土が掘り耕されるころには、王様の剣はすっかり刃こぼれしてしまっていました。王様は魔女の豆を作ったばかりの(うね)()くと、さきほどの小川から水を両手で(すく)って何往復もしました。そしてついに仕事を終えると、ばったりと倒れるようにして眠ってしまいました。

 とはいえ、王様が眠っていた時間はほんのわずかでした。王様が目を覚ましたとき、あたりは依然として明るかったのです。ただ、柔らかな緑が王様と太陽の間を遮っていました。王様が植えた豆がすっかり生長し、赤い(つる)をそこらじゅうに絡ませていたのです。

 王様は体を起こすと、腕や足に(から)んでいた(つる)を外しました。一面の緑の波の中に、七色の豆の花が浮かんでいます。それもすべて王様が見ている間に次々と咲いては(しぼ)んでいくのでした。そして、その間を魔女が不思議な音程の歌を歌いながら歩きまわっていました。

「森の魔女よ、鷹の娘よ」

 王様が呼びかけると、魔女は歌うのをやめて振り返りました。魔女のまわりでは豆がすでに実りの時期を迎えており、王様が歩むと、揺れた(さや)からリィンリィンと鈴のような音が響きました。また、(さや)を透かして、中の豆がぴかぴかと金色の光を発しているのが見えました。まったく不思議な豆だったのです。

 王様は身をかがめると、会って以来ずっと魔女が(かぶ)っていたフードを背中に落としました。そして、魔女の小さな耳の上に白い豆の花を()しながら言いました。

「夢を見たよ、森の魔女。そなたが俺と共に来る夢だ」

「……逆夢(さかゆめ)でしょう、迷子の王様」

 魔女は手をあげて飾られた花を確かめると、静かにかぶりを振りました。そして、小さな麻袋を王様に手渡しました。

「これに詰められるだけの豆を採り、一刻も早く森を出て、貴方の国にお戻りください。貴方は貴方の国の民を幸せにする努めがあるのですから」

 そこで王様は、涼やかな音をたてる金色の豆を袋に詰められるだけ収穫しました。袋はすぐにいっぱいになり、王様はふたたび魔女に向き直りました。

「魔女よ、そなたはこれからどうするのだ?」

「王である貴方が国のものであるように、魔女である私は森のもの。残りの豆を収穫し、鷹と共にこの森を守っていきます。もうお目にかかることはないでしょう。魔女である私と王である貴方の道は本来交わるべきではないのですから」

 それを聞いて、魔女を森から連れ出せば、魔女にとっても王様にとってもよくない結果が生じると、王様にはわかりました。

 しかし、王様はためらいませんでした。懐に隠していた魔女の糸巻を取り出すと、その糸で素早く魔女を縛り上げました。魔女は魔法によってしか捕らえられないからです。そして魔女を抱え上げて鞍の前に乗せると、森の出口を目指して一目散に馬を走らせました。

 捕らえられた魔女は抵抗しませんでしたが、いつまで経っても森が尽きる様子はありません。ついに王様は自分が同じ木のまわりを堂々巡りしていることに気がつきました。魔女が邪魔をしていたのです。

「迷子の王様、取引をしましょう」

 ずっと無言だった魔女は、やっと顔を上げて王様に話しかけました。

「森を抜け、無事に城に行きつく道を教えてあげましょう。その代わり、この馬が城門を(くぐ)った際に一番に出迎えたものを私に下さるとお約束ください」

 王様はしばらく考えました。しかし、魔女の取引を呑まねば、この森から一生出られないことも明らかでした。そうなれば王様は飢え死にしてしまうでしょう。王様は、魔女のように豆ばかり食べて暮らしていくわけにはいかないからです。正直なところ、王様はもう豆にはあきあきしていました。

 そこで王様は「いいだろう」と頷きました。

 その途端、立ち(ふさ)がっていた森の木々が二手に分かれ、王様の前にまっすぐな道が開けました。王様の馬は疲れを知らないように駆けました。木々の間からは不思議な声が何度も響き、奇妙な顔がいくつも覗いているような気がしましたが、王様は目を閉じて懐で鳴る豆の涼やかな音だけを聞くようにしました。

 そして王様の馬が歩調をゆるめたとき、王様はすでに城の前に着いていたのです。城は魔法にかけられたかのように、静かで人気がなく、なぜか門の上からは黒い喪章が垂れ下がっていました。いつもいるはずの門番の姿も見えません。王様は突然馬を止めると、すらりと守り刀を抜き放ちました。

「いけません」

 魔女は鋭い制止の声をあげましたが、遅すぎました。王様が力の限り投げつけた守り刀は、狙いあやまたず、こちらに滑り寄ってきていた一匹の小さな黒い蛇の尻尾に刺さって、蛇を生きたまま地面に縫い付けたのです。

 王様は、ひらりと馬から飛び降りました。そして、一人ですたすたと歩いて城門を(くぐ)ると、振り向きざま指笛を高らかに吹き鳴らしました。こうして王様は、従順な馬が呼ばれて城門を(くぐ)った際に、一番に馬と魔女とを出迎える者となったのです。

「ほら、魔女よ、これで俺はそなたのものだ。そして俺の国の民も。そなたが森を守っていたように、こちらのこともよろしく頼む」

 王様はからからと笑いました。

 魔女は悟りました。罠にかけたつもりで、かけられたのは自分だったことを。取引をした瞬間から、自分が王様の手の上にいたことを。

「王様、分かっておいででしょう、貴方も貴方の国の民も私の手には余ります。私が欲しいのはそちらの蛇。それさえ頂ければさっさと退散いたします」

「それでも契約は契約だ。そなたが手に入れたものは代えられぬ」

 魔女がどんなに説いても、王様はにこやかに答えるだけでした。そして、魔女を拘束している赤い糸をつんと引っ張り、うやうやしく口づけました。

「さきほどの契約を変更したいというなら、新たな取引をし、それなりの対価を支払って貰わねばなるまい、魔女よ」

 王様の言うとおりでした。魔女が人知を超えた力を使えるのと引き換えに、嘘をつけないばかりか、魔女自身の言葉に縛られることは誰もが知っていることです。魔女は王様の手から糸を奪い返し、王様をきっと睨みつけました。

「何を望むのです、王よ」

「森の魔女、そなたが俺と共にあり、俺に仕えてくれることを」

「貴方が私の手を取った途端、私は老いて、誰からも目を背けられるほど醜くなるでしょう」

「だからどうしたというのだ。俺はそなたの外見に惹かれたわけではない」

「魔女たる私は人の理から外れた存在、それを手に入れることは貴方にとって呪いとなりましょう。私を傍に置いたなら、いくら貴方が手を伸ばし爪を食い込ませたとしても、もはや望むものは手に入らない。私の時と引き換えに、貴方の時の流れは澱む。貴方はきっと後悔する。貴方の美しい妃は哀しみ、貴方の優れた息子は貴方を憎むようになるのだから」

 魔女は次々に警告しました。魔女は人とは異なる存在。伸ばされた手に応じても、王様と魔女にはお伽噺のような幸せな結末はおろか、周りの人まで巻き込む悲劇しか訪れないのです。

「それでも、この国にはそなたが必要なのだ。未来を見通す魔女よ」

 王は魔女の拒絶などなかったかのように、ふたたび手を伸ばしました。

「そなたは、先がわかっているからと目を閉ざし、耳を塞ぎ、自らの心から逃げるほどの臆病者なのか?」

 魔女は助けを求めるように視線を逃しました。上空では鷹が羽を広げ、森へと滑空していました。魔女は唇を噛んで、鷹の姿が見えなくなるまで追いました。それから、ゆっくりとかぶりを振ったのです。

「おいで」

 王様は微笑んで糸を引き、魔女の体を引き寄せると、まだ豆の花が載ったままの耳へと囁きました。

「そなたの負けだよ、俺の魔女。俺は欲張りだし、これまで欲しかったものを手に入れられなかったことはない。呪いでも祝福でも、そなたが与えるものであれば、俺は喜んで受け取ろう」

 王様の言葉は蔓のように魔女を(から)めとりました。

 そんなわけで、糸を解かれた魔女は王様の手をとって馬から降りました。魔女が王様の手に触れた瞬間、なめらかだった魔女の顔には蜘蛛の巣のような皺が寄り、腰は鉤のように曲がりました。

 醜い老婆となった魔女は、王様の前で深く腰をかがめました。

「誓約しましょう、王様。貴方が私に、その黒蛇と森で収穫した豆を下さるなら、豆の数と同じだけの年を貴方に捧げると」

 王様が豆の入った袋を渡すと、魔女は年老いた姿に似合わない素早さで、自らの尻尾を裂いて逃げようとしていた小さな黒い蛇を捕らえ、袋の中に閉じ込めました。

 こうして、王様と魔女は契約を交わしたのです。

 王様が差し出した腕を魔女はためらわずに取りました。そして、不似合いな二人は腕を組み、城へと入っていったのです。

 王様が森で亡くなってしまったと思い、喪に服していた城の人々は、元気な王様の姿を見て大喜びしました。王様の無事を祝う宴が終わると、王様は城の中に塔を作らせました。国中のどの建物より高く、国境近くの森まで見渡すことができる塔を。魔女はそのてっぺんに住み、王様に仕えました。

 こうして王様は、魔女の力を借りて、強く豊かになった王国を若々しいまま賢く立派に治められ、国民の誰もが幸せに楽しく暮らしたのでした。



「どうして戻ってきたんだ、俺の魔女」

 俺は、懐かしい面影を宿す皺だらけの頬に手を伸ばした。そなたは、と言いかけたが、現代人の俺にはあまりにも使いにくい二人称だったので勝手に切り替えた。

「君が言ったことはひとつだけ間違っていたなあ。俺は君と契約したことを後悔したことはなかったよ」

「他のすべてが正しかったというのに?」

 魔女は落ちくぼんだ眼を細め、咎めるような顔つきで質問を返した。俺は至近距離から意外とつぶらな魔女の眼を覗きこんだ。つるりとした黒曜石の表面に、泣き濡れた瞳で俺に縋る王妃や俺を敵のように睨みつける王子の影が去来する。それから、苦虫を噛み潰したような顔で俺に祝辞を述べる魔女。その姿を見て、俺は前と同じように微笑んだ。

「他のすべてが正しかったとしても、悔いることなどあるわけがない。俺の欲しかったのはただひとつ。それはきちんと手に入れた」

 添えた掌の下で、肌に深く刻まれていた皺が消え、いたるところに浮き出ていた斑点も徐々に薄くなっていく。

 いつのまにか深い森の気配が部屋に満ちていた。なめらかになった顔の輪郭に沿って親指を這わせると、無意識なのだろう、魔女は目を閉じて猫のように顔をすりつけた。

「俺の城に住み、俺の国を守った俺の魔女。俺は他の民に対すると同じように君をも幸せにする努めがある。俺は君に何ができる?」

「幸せも不幸も他人の(はかり)では量れませんよ、私の王様」

 魔女は出逢った頃と同じ姿で手を俺の手に添えた。

「呪いも祝福もすべて享受したのは私も同様。私は貴方に何かをしてもらうためではなく、契約が終わったにもかかわらず、いまだ(くびき)につながれている貴方を解放するために来たのです」

 そういえばそんなことを言っていた、と俺は眉根を寄せた。魔女がさりげなく俺と距離を取って、白衣のポケットから小さな麻袋を取り出す。手渡されたときに魔女と俺の手が触れあって、――リィンという音が響いた。

 それだけで俺にはもう中身がわかってしまった。

 逆さにした袋の口から零れ出たのは、やはりというかなんというべきか、豆だった。自然界のものとは思えないような鮮やかな金色をした、ひらべったい円形の大ぶりの豆。魔女の不思議な豆。

「全部呑んでください」

 端的すぎる指示に、俺は嘆息した。さきほどまでの腹痛の原因とは違う豆だとは思うし、今となれば昨夜の豆料理が元凶というのも真偽不明なのだが、こんないかにも怪しい豆を誰が口に入れたいものか。

 魔女は俺の様子にはまったく頓着(とんちゃく)せず、ペットボトルまで用意周到に押し付けてきた。外国産のファンシーなやつではなく、この国の道端でよく売られている水だったが、封が破られていないのを確認して俺は受け取った。魔女は真剣な顔で俺を見つめている。話したいことがたくさんあったが、俺がさきほどの指示に従うまで頑として口をきかないのは明らかだった。俺は覚悟を決めた。得体の知れない漢方薬を飲むのと、何がそんなに違うというのか。

 豆をざらざらと口の中に流し込み、ペットボトルの水を一気にあおる。豆がぶつかりあいながら俺の喉を通過したとき、異変が起こった。

 ()けている炭を呑みこんだような、すさまじい痛みと熱。手足が急速に冷えて、首の後ろから背筋にかけて悪寒が走った。体中の穴がぶわっと一斉に開き、何らかの液体が(にじ)み出てくる。がたがたと(みじ)めに震えながら、魔女と森の気配が去って行くのを俺は感じた。痛みに縮こまる瞼を必死にこじ開け、視界に映った後ろ姿に向かって手を伸ばしたのが、意識がもぎ取られる直前の出来事だった。


 椅子から落ちる感覚に襲われて、俺は冷や汗をかきつつ目を覚ました。

 不安定な姿勢で居眠りをしていたので体が強張っている。開けたままの窓から差し込む西日が白い壁を真っ赤に染めていた。部屋の中はがらんとしていて、家具といえば俺の座っているスツールだけ。診察道具の影も形もなかった。急いで鞄を改めたが、何も盗られたものはない。

 部屋を出て、建物内を歩きまわってみたが人っ子一人おらず、あれだけあった漢方薬の原料もなくなっている。俺がやって来たときに見た看板も姿を消し、ショーウィンドーには人を小馬鹿にした顔の金色の招き猫が一匹座っているだけだった。まるで白昼夢に迷い込んでいたようだ。

 ホテルへ帰る途中、俺は目に入った床屋に入った。散髪と髭剃りをしてもらって、直後に近くの薬局で爪切りを買った。髪、髭、そして爪がこれまでの数年分を取り戻すかのように、みるみるうちに伸び始めていたからだ。



 俺を(くびき)から解放しに来た、とひさしぶりに逢った魔女は言った。魔女は嘘をつかない。いや、つけない。そして魔女の言葉通り、俺の呪いは解けた。散髪に行き、髭を剃り、爪を切るのがその証拠だ。

 しかし、魔女は、俺が爪を切る手を休めて、または髭を剃りながら、または髪を切ってもらう途中に、つまりは頻繁に、俺が何を考えるようになるか予測していたのだろうか。

 俺は魔女が言っていたことを考える。それからわずかな時間だけ対面した魔女の外見を可能な限り反芻し、記憶にとどめようとしている。


 君は俺の魔女で、俺は君の王様だった。会った瞬間に糸に(から)め取られ、その上から言葉遊びのような契約をこじつけて、互いが互いの(そば)にいる理由を作っていた。

 そして、再会した瞬間、糸はまた(から)まってしまったのだ。

 そう、俺が爪を食い込ませるほど欲しかったのは君だけだ。

 叡智を持つ魔女である君が知らなかったなどいうことがあるのだろうか。このことに、そして、俺が君をまた探し始めるということに。

 俺は君を探し出す。どこかの国のどこかの街角で。俺はすれ違いざまに手を伸ばし、君の手を捕え、引き寄せた体に爪痕をつける。そして、君は今度も逃れられない。

 なにしろ俺は、欲しいものはすべて手に入れるのだから。



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