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王様の鷹の話  作者: 立田
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侍女と真珠の話



 私は、牡蠣を食べると、必ず真珠を見つける。


 物心ついたころからそうだった。最初はたしか、父へのお歳暮か何かで届いた箱一杯の岩牡蠣を相手にてこずっていた母を手伝ったときだ。私が手に取った途端、無骨かつ堅固な殻は、ナイフをこじ入れるまでもなく、もっと正確にいえば、刃で軽く触れただけで降伏し、ぱっくりと開くと内に守っていた柔い身を晒した。

 そして、その身にまた守られるように、一粒の真珠が。

 母は喜んだ。私の小指の先ほどのそれを摘んでは、ためつすがめつ見て、あまり価値はないだろうけれど記念に指輪にでもしようか、と言って、小皿にティッシュを敷いた上に乗せた。そうしてから、私たちは二個目の牡蠣へ、それぞれのゴム手袋に覆われた手を伸ばした。同じことの繰り返しだった。母は殻をこじあけることができず、私の掌の上にはまるで継ぎ目がバターで出来ているかのように容易く開いた殻、そしてその中の一粒の真珠。

「もしかして真珠用に養殖された牡蠣が紛れ込んじゃったのかな?」

 気を取り直した母はそう言って、残りの牡蠣を私に任せた。真珠の有無にかかわらず、どう贔屓目に見ても私の方が殻を開けるのが巧みだったからだ。


 結果、小皿の上には、形も色もさまざまな真珠が十三個並ぶことになった。


 通常であれば、牡蠣という海の珍味を食するということ自体が、その日の食卓を席巻する話題となったことだろう。もしくは、いかにその殻を開けることが重労働であったかについて作業従事者たる母と私が語り、それ以外の家族のメンバーがそれを拝聴するということであったかもしれない。

 けれど、その日、家族が夕食を囲んだ際に話されたことといえば、真珠のこと。そしてそれに付随して、ほんのわずかに、私の牡蠣の殻開けの技巧が持ち出された。

 母は戸惑いを隠そうとして、ことさら陽気に喋った。これだけの半端な数の真珠で何をしようとか、牡蠣の送り主に返したほうがいいんじゃないかとか、業者が真珠養殖用のものを間違えて送ったのではないかとか、それにしてもこんなに異なる色の真珠が同じ場所で作られるなんて有り得ないんじゃないかとか、そういった内容のことを。

 食卓の中央、小皿に載せられたまま、十三個の真珠はにじむような光を弾いていた。

 どうして十三個か、というのもまた不思議だった。送られてきた牡蠣の数は一ダースだったのだが、最後に開けた一番大きなものに、双子の真珠が入っていたのだ。その数は、私に何か不吉なものを感じさせた。


 その予感が決定付けられたのは、喉が乾いて夜中に起き出したときだった。階段の踊り場まで降りてゆくと、まだ起きていた母の声が聞こえてきた。

「返したほうがいいのかしらね」

 あの真珠のことだ、と本能的に悟って、私は立ち止まった。父の返事は、ドアに隔てられてくぐもり、はっきりと聞こえなかった。それに引き換え、母の声はよく通る。

「じゃあやめときましょうか。それにしても……なんだか、ちょっと気持ち悪いわね」


 だから、私は次に真珠を嚼んだとき、誰にも言わなかった。


 それは、殻のついたものではなく、剥き身といっても生食用ですらなく、鍋の具材としてよく煮込まれた牡蠣だった。

 私は、火傷しないくらいに冷めたそれを自分の取り皿から口に運び、そして奥歯で何か固い物を思い切り噛みしめる羽目になった。幸い鍋をつついていた誰もが私の異状に気づかなかったので、私は秘密裏にその異物を吐き出し、検分した。

 真珠だった。

 この前の十三個のうちのどれよりも大きく、また真円に近かった。しかしその表面には、私の歯型がくっきりと、まるで刻んだかのように残っていた。私は慌ててそれをポケットにねじこむと、その夜は牡蠣以外の具しか食べなかった。

 それ以来、私は牡蠣をできるだけ食べないようにしている。

 偶に、本当に稀に、誰にも見咎められないときに、運試しのような気持ちで一つだけ挑戦してみる。岩牡蠣をはじめ、牡蠣フライ、牡蠣のマリネ、牡蠣のグラタン、缶詰にされている牡蠣。

 すべて当たりだった。どんな調理方法をされていても、私が食べた牡蠣はその身に真珠をひそませていた。

 こんなのは普通ではない。常識ではありえないのだ。宝くじで一等を引き当てる確率というよりも、サハラ砂漠で一本の針を見つけ出すという蓋然性にずっと近い。宝飾品売り場ではお馴染みの、柔らかな光を抱いたまろやかな球体も、この目には禍々しく映る。

 母は、時々思い出したように、最初の岩牡蠣の思い出をさもおかしそうに語ることがある。母にとっては、あれは原因も分からないままに済まされた、もう過去に属する笑い話なのだ。しかし、私にとってはそうではない。

 どう処理するか決めかねて、ジャムの空き瓶にずっと色も形もさまざまの真珠をためていたが、もうすぐそれも満杯になる。



「そこの娘」

 ハイヒールで靴音を地下鉄の駅から続く階段に響かせながら上り、人通りの少ない道に出た途端に声がした。私はコートの襟をかきよせると、進行方向に広がる暗がりに目を凝らした。海からの風が吹く通りには誰の姿も見えない。

「そこの、灰色の一つボタンのスーツの上にベージュのトレンチコートを羽織り、そのポケットに真珠を隠し持っている娘」

 得体の知れない声はさらに続けて言った。微かな震えが背筋を伝って爪先へと下りた。ただ、本当に奇妙なことに、私はその声に安堵感をおぼえたのだった。形容するならば、ずっと無意識のうちに待ちわびていた何かが、ふいに眼前に姿をあらわしたような。

 かつん、と微かな硬質の音とともに、何歩か先の道路脇に灯りが点けられた。ぼんやりと照らし出されたのは、小さな机と、それを前にして同じくこじんまり座った老婆の姿だった。

「お前に助言をひとつしてやろうよ。お代はその真珠で構わない」

 自分の意に反して足が動き、私の身体をふらふらと老婆の前に進ませた。確かに私は恒例の運試しをして、またしても牡蠣から真珠を取り出したところだった。しかし、今夜食べた牡蠣の数は一つではなかった。

「許婚に連れられていった店で、断りきれずに口にした牡蠣から出てきた薔薇色の粒揃いの真珠が四つ」

 老婆はカードを伏せて並べながらゆったりと告げた。私はぎこちない動作で、机を隔てて彼女の真向かいにある椅子に座った。口の中がからからに乾いていた。顔の近くにあるランプが眩しくて、目を眇めなくてはならなかった。

「お前はそれを許婚から隠したね。あの男は良い人間だ、しかしお前の感情は何かに引っ掛かっている。自分でも突き止められない、思い出せない記憶のせいで躊躇している。最後の一歩が踏み出せないのはそのせいだ」

「ど、うして」

 こちらの様子を窺いもせずに紡がれた言葉に対して、私は必死で下顎にへばりつく舌を動かそうとした。みっともなく掠れた声に老婆はようやっと顔を上げた。凪いだ夜の海のように暗く、深さの測れない眼が私を射抜いた。

 机上のカードはいつの間にか表に返されていた。三枚の図柄は左から順に、魔女、王子、そして。

「どうして知っているのかって? 私はお前のことならもっと知っているよ……盗っ人、裏切り者、そして誓いを守った侍女」





 むかしむかし、あるところに王様がいました。そしてお世継ぎの王子様が。

 この王子様がお生まれになったとき、それと引き換えのようにお后様は命を落とされたのですが、それでも王子様は日々健やかに、美しく、賢く成長なさいました。なにしろ王子様の狩りの腕前ときたら国中のどの猟師よりも優れたものでしたし、見目の麗しさは絵姿に写し取ることを画家が諦めるほど、そしてご幼少のみぎりよりすべての教師を合わせた以上にご聡明でいらっしゃったのです。そんなわけで、王子様はついには魔法まで修め、成人されたあかつきには、王様の片腕として見事に国を統治されるだろうと言われておりました。

 ところで、王様には一人の魔女が仕えておりました。この魔女は、すべての魔女がそうであるように、誰もが顔を反けるほど醜く忌まわしい老婆ではありましたが、誰もが思い出せないほど古くから、城で一番高い塔に住んでいたのです。魔女の力は強大で、その意に反したら恐ろしい咎を受けるとは曰われていたものの、王以外は一人として、その禍々しい力がふるわれるのを眼にしたことはありませんでした。そして魔女は、誰からも己の手の内を隠しておりまして、王子様が魔女に本を一冊所望されたときでさえ、不躾にも断り文句を扉越しに投げつけただけでした。


 ところがある日、既に教師を超えた魔法使いとなっていた王子様が、王様への御誕生日の贈りものとして、魔法の鎧を造っていらっしゃったときのことです。突然、魔女が断りもなく王子様の部屋に現れたかと思うと、目にも眩い黄金の鎧を一瞥すると、軽蔑したように言いました。

「これでは、王は無事に齢を重ねることはできまい」

 そして、指を鳴らすと、鎧を一瞬にして塵へと変えてしまったのです。

 王子様は魔女の無礼な行いに憤られましたが、相手にするのも馬鹿らしいことですから、次に魔法の冠を造られることにしました。黄金に宝石を散りばめたそれが、ほぼ完成間近になったとき、またしても魔女が現れました。

「またしても、王は無事に齢を重ねることはできまい」

 呟くなり、魔女はまた指を鳴らしました。そして冠は塵となってしまったのです。

 王子様はいっそ魔女を切り殺してやろうかと思いましたが、あくまでも魔女は王様の配下であることから、耐え忍ばれました。そして次に、魔法の剣を造られることにしたのです。きらびやかなそれが、あとは祝賀の席において王様に献上されるだけとなったとき、魔女があらわれ呟きました。

「どうやっても、王は無事に齢を重ねることはできまい」

 言葉とともに魔女は指を鳴らし、魔法の剣は、その前の二つと同じように、一握りの塵となりました。

 王子様は、ついに魔女を排する決意を固められました。これまでの無礼な行いは勿論、恐れ多くも王様の余命の短さを三度にわたって仄めかしているのです。このまま魔女をのさばらせておけば、王様の命が絶たれてしまうことは明らかなことでした。

 城の中では、王様でさえも塔の天辺にある魔女の部屋に足を踏み入れたことはなかったのですが、ほんの一人だけ、年若い侍女が魔女の側仕えとしてその部屋に入ることを許されておりました。侍女の兄は王子の小姓、侍女の母は王子様の乳母でした。つまり侍女と王子様とは乳兄妹だったのです。

 そこで王子様は侍女を呼び出すと、沈黙を誓わせたうえで、魔女の恐ろしい企てについて侍女に言い含めました。そして、王様をお助けするために、魔女の本を一冊盗ませることを約束させたのです。


 翌日は、王様の御誕生日でした。祝賀の晩餐会には、王子様をはじめ、六人の大臣、十二人の副大臣、数多くの貴族達、そして魔女が列席していました。王様は、招かれた客が一人、また一人と、祝辞を述べるのに耳を傾けられ、それぞれの贈りものを受け取られました。ついに、王様のご健康を祝って、皆が乾杯することになったときです。末席についていた魔女が目をぎらぎらと輝かせて立ち上がりました。

「お待ちください、我が君」

「どうしたのだね?」と王様がお尋ねになりました。

「ほんの少しお時間を頂けませんか」と魔女は繰り返しました。

「勿論のこと、魔女よ、貴方から与えられるものははすべて謹んで受け取る心積もりでいる」

 王様が鷹揚に頷かれると、魔女は側に控えていた侍女に向かって小声で問い質しました。

「あの本をどこにやった?」

「持っておりません」

 侍女は震える声で答えました。それは本当のことでした。魔女の部屋から持ち出し、侍女が自分の枕の中に隠しておいた本は、いつの間にか失くなっていたのです。

「王子だね」

 魔女は曲がった指を侍女に突きつけました。侍女は沈黙を守り、ただ首をかすかに振りました。何が起こっているのかわからない出席者たちがざわめき始める中、魔女は侍女を束の間じっと見つめたまま、苛立たしげに吐き捨てました。

「お前は私を裏切った。口を閉ざし、貝になりたいというならそうしてやろう」

 魔女の呪詛に、侍女は何かを言おうとして口を開きました。

 ところが、侍女の口から零れて出てきたのは、言葉ではなく、一粒の真珠だったのです。侍女は慌てて、両手で口元を押さえました。けれども、侍女が何か意味の通る言葉を発しようと試みるたびに、その唇からは声の代わりに真珠が溢れ出たのです。

 侍女は絶望した眼で晩餐の席を眺め渡すと、くるりと踵を返して大広間から逃げ出していきました。侍女が走った後には、幾つもの真珠が転がっておりました。

 幸い、遠く離れた王座に掛けておられた王様のお耳には、この騒ぎはしかとは届きませんでした。ですから、魔女がこんな提案をしたとき、王様は即座に頷かれたのです。

「我が君、その盃を頂けませんか。その返礼として、私の心よりの贈りものを捧げましょう」

 魔女の言葉を聞いて、王子様は王様を止めようとなさいました。しかし、王子様が手を伸ばされるより早く、王様の盃は宙を飛び、魔女の元にまでやってきました。

 魔女は一礼すると、目の前に浮かぶクリスタルの盃を掲げ、老婆とは思えないほど朗々とした声で述べました。

「王様にご健康を! そして、今一度の誓約を」

盃は一瞬にして砕け散りました。白いテーブルクロスに、赤いワインが血のように染みました。


 そして、王様の御誕生日の祝賀は、それから三日三晩の間続きました。

 その間に、侍女は塔から身を投げました。





「それで、お前は何を願ったんだね?」

 老婆の小さい体躯は、語り終えたるとさらに縮んだように見えた。けれど鋭い眼力は変わらないまま、私の表情から考えを探ろうとしている。私は顔を背けると空を見上げた。満月にわずかに足りない月が、雲に隠れたかと思うと、また現れた。

「あの王子は、何かを叶えると言った筈だ」

「お分かりになりませんか」

 予想以上に平静な声で、私は受け答えをすることができた。風向きが変わったのだろう、潮騒が間近に聞こえてきた。風が強くなってきたというのに、机上のカードが煽られて動く様子はなかった。

「見当はつく。後で聞こうと思っていた。しかしお前は自害した、浅はかにも」

 ええ、と私は吐息だけで肯定した。当然のように、奇妙なお伽噺を自分のものとして甘受することに何の躊躇いも感じなかった。私は侍女で、老婆は魔女だった。そして私は一時の激情に身を任せて、老婆を裏切ったのだった。

「最初から叶うことのない恋だった。お前だってそれは知っていたろう。水面の月を掬おうとするような、空高く飛ぶ鳥を地に繋ごうとするような。そんな不相応の願いに身を焦がすほど、お前は馬鹿な娘ではなかった」

「そんな馬鹿な娘だったのかもしれません」

「いいや、そんなはずはない」

 老婆は強く否定すると、深淵のような眼で私を覗き込んだ。

「お前を選んだのは私だ。見ていたよ。物静かで礼儀を弁えた、落ち着いた物腰の侍女。その年頃にしては稀な、自分の世界を己の殻に無理なく閉じ込めた若い娘。甘い言葉や、外面だけのまやかしにお前が騙されたわけがない」

「貴方は、いえ、きっと誰もが、私を軽蔑するでしょう」

 私は唇を弓なりにした。たとえ歪んだものでも、笑顔を作ろうと意識した。

「告げるくらいなら、私は貝になりたかった」

「真珠は、貝がその身を守るために作るものだよ」

 もう吐き出してしまうがいい、と魔女は言うのを聞いて、私は気づいた。地下通路の出口で立ち尽くしていたときに感じたあの衝動、待ち焦がれていた何かとは、この機会なのだと。私は唾を飲み込むと、広げられたカードの図柄を見つめた。高慢な王子と愚鈍な侍女。

「……あのひとが私に叶えてくれるといったことと、私の願いは違うんです」

 唇の端が引き攣れた。

「あのひとは、幸せにしてくれると言った」

 そして私は、とやっとのことで絞りだした。


「私がもしも死んだら、一度だけ、私のために泣いて欲しかった」

 どうか、その涙を一粒だけでも、私のために零してください。

「それで充分でした」


 瞼が熱を持って、眦が濡れるのがわかった。何て乙女趣味の愚かな願いだろう、と自嘲しながら瞬くと、溢れた液体が頬を滑り、顎の先から滴り落ちた。ところが膝の上に落ちてきたものは、またもや真珠だったので、私は泣きながら笑ってしまった。

「その願いは叶わないよ」

「知っています」

 ぼろぼろと真珠を落としながら、私は言った。

「私は、僅かな間でしたが、本当に光栄なことに、貴方の弟子でした。王子が王を弑そうとしていることも、貴方が王を護ろうとしていたことも、王子が私が何をしたからといって心を動かすこともないことも知っていた。それなのに」

「なんだい、お前はあれ以来泣いてなかったのかい」

 魔女は呆れたように眉を顰めた。それだけで、私は頷くだけで精一杯になってしまい、次の語句を口にするまで、さらに数粒の真珠を零す羽目になった。

「助言をひとつしてくださると、仰いましたね」

「言ったとも」

 私の世界は奇麗に閉ざされていた。誰のせいでもない、私のせいで。しかし、ひとりで居られるということと、孤独を好むということはけしてイコールではない。

「助けて、いただけませんか」

 私は――盗っ人で、裏切り者で、誓いを守った愚かな侍女は、顔を上げて、魔女に頼んだ。

「あのひとに、さようならと告げるのを」

 あんなに無残な願いをしてしまった理由は、恋でも愛でもなかったのかもしれない、ただ寂しかっただけかもしれない。でもそれだけを一生懸命抱えていた。忘れてしまっても、傷が癒えないようにしていた。私は諦められなかった。

 返答を待つまでもなく、私は眼を瞑ると、これが最後、と自分に言い聞かせて、閉ざしていた記憶を開放した。振り返るのは、もうこれっきり。これ以上は心を痛めることもなく、傷ついた理由を思い出しもせず、痕が薄れてゆくに任せる、と。

「……ローズマリーが香っている庭園で、あのひとは緑の服を着ていて」

 呼び出された私が近づいてくるのに気が付くと、振り返った。覚えのある匂いが鼻腔をくすぐった。蜂が羽音を立てて、花から花へと飛び回っていた。

「あのひとは青い目をしていた」

 眺められた相手がいたたまれなくなるほど奇麗な色だった。それはきっと何も映していなかったからだ。あんなに空虚な人を私は見たことがなかった。碧眼の中にはぞっとするほど何も無くて、それでいて、何かを怖ろしいほどの吸引力でひたすらに求めていた。あの渦に、私は知らぬ間に巻き込まれてしまっていたのだ。

 記憶によって蘇った、香草の生い茂る庭で私はその眼を見なかった。景色を締め出すように目を閉じると、自分だけがしがみついていた言葉を発するために口を開いた。また、真珠が溢れるかと思っていたのだが、予想に反して、私の耳は、自分自身の声が別れを告げるのを聞いた。


 「もうそろそろいいだろう。とんだ茶番に付き合わされたよ」

 はっとして眼を見開くと、老婆が皺だらけの手でカードを揃えているところだった。夜も更けて、身を切るような風が通りを吹きすぎていく。月は分厚い雲の中に姿を消していた。その代わり、先程まで点いていなかった街灯の明かりが、道の両側に等間隔で並んでいた。人工の光に照らされると、老婆はただの路上の占い師としか見えなかった。

「しかし、どんなに愚かでも、弟子は弟子だ。幸せになるといい」

 けれど、そうやって私を見やって、にやりと笑った様は魔女でしか有り得ないのだった。私は立ち上がると、老婆に深くお辞儀をした。それだけでは足りず、魔女を抱きしめたいような気がした。躊躇っているうちに、魔女は、最初と同じく、かつり、という音を立てて、ランプを消した。途端に、彼女の立っていた一角に闇が落ちる。そして、こんな言葉が聞こえてきた。


「涙は真珠に、真珠は言葉に

 言葉は世界に、世界は卵に」


 闇がぶわりと膨らみ、力強く羽ばたいた。

 雲の切れ間から瞬く星へと向かい、真直ぐにその何かが飛び去って行く。見えない存在を追いかけて、私はしばらく夜空を見上げたが、首が痛くなってきたので頭を元の位置に戻した。いつもと変わらない、通勤路が目の前に広がっている。

 ふと思い立って、コートのポケットを探ると、夕食の際に確かに入れた薔薇色の真珠が四粒ともなくなっていた。それ以外にも、周囲を見回してみても、先刻ぼろぼろと零したはずの涙の代用品の姿も形も見えない。

 昔から、魔女が言葉を違えたことはなかった。

 思い出して、笑おうとしたのに眦が熱くなって、私は自分が失敗したことを悟った。両眼から流れ出て、頬を伝い、顎の先で合流して、重力に負けて落ちる。涙がその先の掌を濡らすにあたって、私は自分が侍女としての記憶を失いゆくことを知った。まるで墓碑銘が雨風に洗われて薄れるように、まるで目覚めた後に夢を思い出せないように。

 それが私には必要だった。遠い昔の記憶から解放され、わだかまりなく幸せな花嫁になるためには。

 それが魔女からの贈りものだった。遠い昔に己を裏切り、その代償に呪いに囚れた弟子に対しての。

 私はぼろぼろと涙を零しつつ、せめて帰ったら、瓶の中に真珠がまだあるか確かめようと思った。そして、家路を辿りつつ、年経た優しい魔女について願った。なるべく困難に立ち向かわずに済むように、もう裏切られることがないように、少しでも彼女の物語が幸せであるように。それだけしか、できることはなかった。

 もう、私は、牡蠣の中に真珠を見つけることもないだろう。


 侍女の物語は、終わったのだ。





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