ユキのいたパン屋
雪の匂いというものがあるのを、光子はその夜はじめて知った。
十二月の終わり、閉店作業を終えて店の灯りを落とそうとしたとき、裏口のドアの隙間から、白い息を吐く小さな影が滑り込んできた。生まれてまだ数ヶ月といったところの、痩せた雑種の子犬だった。段ボールの切れ端でも齧っていたのか、口の端が汚れている。光子は驚いて声をあげかけたが、子犬はただじっと彼女を見上げるだけで、震えながらも逃げようとはしなかった。
「あんた、どこから来たの」
答えるはずもない問いを、光子はつぶやいた。夫を亡くしてから七年、この小さなパン屋「こむぎ」を一人で切り盛りしてきた。子どもはいない。誰かに「ただいま」と言われることも、誰かに「おかえり」と言うことも、もう長いことなかった。
その夜、光子は売れ残った食パンの耳を牛乳でふやかして子犬に与えた。子犬は夢中で食べ、食べ終わると光子の足に体をすり寄せて眠ってしまった。窓の外では雪が降り続いていた。光子はその犬に「ユキ」と名付けた。
*
ユキが「こむぎ」の看板犬になって二年が過ぎた頃、店先に一人の少年が現れるようになった。隼人という名の、中学一年生だった。制服のまま、下校の途中で店先のベンチに座り込み、ぼんやりと道を眺めている姿を、光子は何度も見かけていた。
ある日、光子が焼きたてのメロンパンを試食用に切り分けて店先に出していると、隼人がそれをじっと見ていることに気づいた。
「食べる?」
隼人は驚いたように顔を上げ、それから小さく首を振った。だが視線はメロンパンから離れなかった。光子が黙って一切れを差し出すと、少年はしばらく迷ってから、それを受け取った。
そこへ、店の奥からユキが顔を出した。丸々と太った二歳の雑種犬は、隼人のにおいを嗅ぐと、遠慮なく彼の膝に頭を乗せた。隼人の体がびくりと強張った。
「触っても、いいですか」
蚊の鳴くような声で少年が尋ねた。光子がうなずくと、隼人はおそるおそる手を伸ばし、ユキの頭を撫でた。それが、隼人が「こむぎ」に通うようになったきっかけだった。
光子はやがて、近所の人づてに事情を知った。隼人の父親は一年前、工事現場の事故で亡くなっていた。母親は昼も夜も働きに出ていて、家に隼人の帰りを待つ者はいない。同級生たちとも、うまくやれていないらしかった。誰も彼を責めているわけではないのに、隼人自身が、自分の居場所などどこにもないと思い込んでいるようだった。
光子は何も聞かなかった。ただ、隼人が店に来るたびに、焼きたてのパンの切れ端を出し、ユキと遊ばせた。時には、パン生地をこねる手伝いをさせた。
「こうやって、ゆっくり押して、それから折りたたむの。急いじゃだめ。生地は、待ってあげないと膨らまないから」
隼人は不器用な手つきで生地をこね、その隣でユキが尻尾を振りながら粉まみれの床を舐めていた。
*
隼人が中学二年になった春、彼は初めて光子に自分から話しかけた。
「おばあちゃん、どうして犬、飼おうと思ったの」
光子は生地に打ち粉をしながら、少し笑った。
「飼おうと思ったんじゃないよ。ある雪の夜に、向こうから来たの。誰も待ってない店に、勝手に入ってきて、勝手に居座って」
「迷惑じゃなかったの」
「迷惑だったよ、最初は。でもね」
光子は手を止め、床でうたた寝しているユキを見た。
「誰かがそばにいてくれるっていうのは、思ってたよりずっと、ありがたいことだった」
隼人は何も言わなかったが、その日から、学校帰りにまっすぐ「こむぎ」に来るのが習慣になった。宿題をベンチで広げ、ユキを膝に乗せたまま、ぽつりぽつりと学校のこと、父親のことを話すようになった。
「お父さんがいなくなってから、お母さん、ずっと疲れた顔してる。おれが何か言うと、余計に疲れさせる気がして、何も言えなくなる」
光子はオーブンからパンを取り出しながら、静かに答えた。
「お母さんも、隼人くんと同じくらい、寂しいんだと思うよ。二人とも我慢してるから、余計につらいんじゃないかね」
隼人はしばらく黙っていたが、その日の帰り際、ユキの頭を撫でながらつぶやいた。
「ユキがいると、なんか、しゃべれる気がする」
光子はそれを聞いて、目頭が熱くなるのを感じた。ユキは、ただそこにいるだけで、人と人との間にあった固い氷を、少しずつ溶かしていく力を持っているようだった。
*
季節は巡り、隼人は高校生になった。相変わらず「こむぎ」に顔を出し、今では光子に代わってパンを焼く手伝いもできるようになっていた。ユキは七歳になり、若い頃の跳ねるような元気さは薄れたものの、隼人が店に入ってくると、必ず尻尾を振って迎えた。
隼人の母親が初めて「こむぎ」を訪れたのは、隼人が高校二年の冬だった。
「息子がいつもお世話になっております」
深々と頭を下げる母親に、光子は首を振った。
「お世話になってるのは、こちらの方ですよ。隼人くんがいなかったら、私もユキも、ずいぶん寂しい思いをしてたと思います」
母親は店内を見回し、パン生地をこねる隼人の姿と、その足元で眠るユキを見つめた。それから、堪えきれなくなったように涙をこぼした。
「あの子が家であんな顔で笑うのを、久しぶりに見た気がします」
光子はその肩にそっと手を置いた。それ以来、母親も時折店に顔を出すようになり、隼人と母親の間にあったぎこちなさは、少しずつ和らいでいった。
*
隼人が高校三年になった年、ユキは十歳を迎えた。犬としては決して若くない年齢だった。歩く速度は遅くなり、以前は光子や隼人が店に入ってくるとすぐに駆け寄っていたのに、今では体を起こすのにも一呼吸置くようになっていた。それでも目だけは、二人を見るたびに輝いた。
その年の秋、光子は体調を崩し、数日店を閉めることになった。心配した隼人が見舞いに訪れると、光子はベッドの上で申し訳なさそうに笑った。
「歳には勝てないねえ。お店、しばらく休んでるけど、大丈夫かい」
「おれが手伝うから、心配しないで」
隼人はそう言って、光子が復帰するまでの間、放課後は必ず店を開けてパンを焼いた。生地をこねる手つきは、もうすっかり光子のそれに似ていた。ユキは店の隅で、粉の匂いに包まれながら、隼人が働く姿をじっと見守っていた。
光子が店に戻ってきた日、彼女は焼き上がったパンの棚を見て、しばらく言葉を失った。どのパンも、丁寧に、心を込めて焼かれていた。
「隼人くん。あんた、うちで働く気はないかい」
隼人は少し驚いたように光子を見て、それからゆっくりとうなずいた。
「大学、行くつもりだったけど……製パンの専門学校とか、調べてみようかな」
「無理にとは言わないよ」
「無理なんかじゃない」
隼人はきっぱりと言った。
「おれ、ここで学んだこと、忘れたくないんだ。おばあちゃんとユキが教えてくれたこと」
光子は静かに微笑んだ。目の端に涙が滲んでいたが、隼人には気づかれないよう、パン生地に向き直った。
*
隼人が製パンの専門学校を卒業し、「こむぎ」で正式に働き始めた年、ユキは十三歳になっていた。もう長い距離を歩くことはできず、店の隅に置かれた古い座布団の上で、一日の大半を眠って過ごすようになっていた。目もかすみ始めているようで、隼人が近づくと、においで気づいて尻尾をゆっくりと振った。
「ユキ、おれだよ。わかる?」
隼人がしゃがみ込んで頭を撫でると、ユキは目を細め、隼人の手のひらに鼻先を押し付けた。その仕草は昔と変わらなかった。
ある夜、閉店後の店で、光子と隼人はユキを間に挟んで座っていた。
「ユキがうちに来た日のこと、覚えてる」
光子がぽつりと言った。
「あの子が来なかったら、私、隼人くんに会えてなかったかもしれない。あの雪の夜、扉を開けたのは私だけど、扉の向こうから歩いてきてくれたのは、ユキの方だった」
隼人はユキの背中を撫でながら、静かに頷いた。
「おれも、ユキがいなかったら、ここに来る勇気なんてなかったと思う。誰かにそばにいてほしいって、言葉にできなかったから」
その晩、ユキは二人の間で、いつもより長く目を開けていた。まるで、この時間を覚えておこうとするかのように。
*
その冬、ユキは急に食が細くなった。動物病院に連れて行くと、獣医は老衰による内臓の衰弱だと告げた。
「もう、若い頃のようには戻れません。あとどれくらい一緒にいられるかは、正直、私にもわかりません。ただ、痛みが少ないように、できることはしましょう」
光子と隼人は、店の奥の暖かい場所にユキのための寝床を作った。交代で夜も付き添い、水を飲ませ、体をさすった。隼人は仕事の合間に何度もユキの様子を見に行き、母親も夜な夜な様子を見に来るようになった。かつて隼人を「こむぎ」に導いた小さな命は、今度は多くの人に見守られていた。
一月のある朝、隼人が店に着くと、光子がユキのそばに座り込んでいた。ユキの呼吸は、驚くほど穏やかだった。
「今夜が、峠かもしれないって、先生が」
隼人は黙ってユキの隣に腰を下ろした。ユキはゆっくりと目を開け、隼人の方に顔を向けた。もう体を起こす力もないはずなのに、尻尾の先がかすかに揺れた。
「ユキ」
隼人の声が震えた。
「ありがとう。おれを、ここに連れてきてくれて」
ユキは隼人の手に、最後の力で鼻先を寄せた。その夜、店に光子と隼人、そして隼人の母親が集まった。誰も多くを語らなかった。ただ、ユキの体温を確かめるように、代わる代わる手を添えていた。
夜が明ける前、ユキは静かに息を引き取った。まるで、長い長い散歩から帰ってきて、そのまま眠りについたかのような、穏やかな最期だった。
*
ユキを店の裏庭、桜の木の下に埋めた日は、よく晴れていた。光子と隼人、隼人の母親、そして近所の常連客たちが集まり、それぞれにユキとの思い出を語った。
「あの犬、私が失恋したときも、ずっと膝に乗ってくれたのよ」
「うちの孫が怖がっても、いつも大人しく座ってくれてね」
十三年という歳月の中で、ユキは光子と隼人だけでなく、この町の多くの人の心に、小さな灯りをともしていたのだと、そのとき初めて隼人は知った。
それから半年後、「こむぎ」の店先に、新しい看板が掲げられた。木彫りの犬の絵が添えられた、小さな看板だった。
「ユキのいたパン屋」
隼人が彫ったものだった。
「ユキがいなくなっても、この店にはユキがいた証を残しておきたくて」
光子はその看板を見上げ、静かに目を潤ませた。
「隼人くん。あんた、この店を継いでくれるかい」
「継ぐよ。おれ、もう決めてる」
隼人は迷いなく答えた。
「おばあちゃんとユキがくれたものを、今度はおれが誰かに渡す番だから」
その年の冬、初雪の降る夜、隼人は店の裏口を少しだけ開けておいた。誰かが、あるいは何かが、迷い込んでくるかもしれないと思ったからだ。ユキがそうしてくれたように、いつかまた、誰かの人生に、小さな光が差し込むかもしれない。
粉の匂いに包まれた小さな店は、今日も静かに灯りをともし続けている。




