第六話 「印」
ダンジョンの空気が停滞していく。
松明の火がときおりはぜる音以外、自分たちの足音と衣擦れの音しか聞こえない。石壁は湿り気を帯びて光を鈍く反射し、まるで出口の無い迷宮を進んでいるような錯覚を抱かせる。
レオンは歩きながら、頭の中で行動指針の記述を思い出していた。
7-3 目印とマーキング
探索範囲を拡張する際は、目印となる情報を必ず記録してください。
・階段
・扉
・特徴的な構造物
・分岐点
これらは地図上に明確に描き込みます。
また、特徴の乏しい場所については、壁や床に直接印を付けることで識別を行います。
「ここ、さっきも通らなかった?」
ミナが不安げに周囲を見回しながら口を開いた。彼女の声はいつもより高く、狭い通路で異様に反響した。
どこまで行っても、同じような質感の石壁。同じようにひび割れた床。
変化のない景色が、少しずつ感覚を麻痺させていく。
「そんなはずはない」
ガルドは足を止めずに即答した。その背中は岩のように堅実で、迷いなど一切感じさせない。
「これまで一度も分岐はなかった。道は一本だ。一度来た場所に戻るわけがないだろう」
「でもさ、なんか……既視感っていうか。景色が同じすぎて、ずっと同じ場所を足踏みしてるみたいじゃない?」
「そう見えるだけだ。初心者が陥りやすい錯覚だな」
ガルドは取り合わないが、レオンもミナと同じ不安を感じていた。
壁を見ても、特徴的な亀裂一つない。方向感覚が削り取られていくような、不快な浮遊感。
「ガルドさん、念のため、印をつけましょう。自分たちがループしていない確証が欲しい」
「いいだろう。このランクのダンジョンに無限回廊など、聞いたことがないがな」
レオンは腰のポーチから予備の白チョークを取り出し、それを壁に押し当て、大きな円を描いた。
暗い通路に浮かび上がる、くっきりとした白い円。
「お、ちゃんとしてるじゃん。マニュアル通りだね」
ミナがひょいと覗き込み、少しだけ表情を和らげる。
「他の冒険者の印と混同したら大変だから。行動指針にもそう書いてある」
「確かに、その通りですね……」
セイルが足を止め、羊皮紙の地図を広げた。羽ペンを走らせ、今歩いてきた通路と、レオンが印をつけたポイントを書き込んでいく。
「現在の通路と印の位置を地図に書き込みました。これで僕たちがループしているかどうかがはっきりするはずです」
「よし、これで心置きなく進めるね。さあ行こう、ガルド」
ミナの言葉に、ガルドはフンと鼻を鳴らしただけで、再び歩き出した。
数分後。
また、同じような直線。同じような石壁。
松明に照らされた景色の先を、レオンは凝視する。
「……ねえ」
ミナが、引きつったような声を出す。
「これさ……」
「それ以上、言うな」
ガルドが鋭くさえぎった。その声には、先ほどまでの余裕が消えていた。
レオンの心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打つ。
彼らの視線の先。
そこには、先ほど自分が描いたはずの『白い円』があった。
「……あれ」
レオンは吸い寄せられるように壁に歩み寄った。
自分が描いた印。線の太さ、歪み、位置。自分の筆跡に間違いはない。
しかし──。
「この印……薄くなってないか?」
「え?」
ミナが寄ってくる。
「どこが? 普通に見えるけど」
「いや、違う。さっきはもっと、粉が盛り上がるくらい濃く描いたんだ。なのに今は……まるで、だいぶ昔に描かれたみたいに……」
レオンは指先でその円をなぞってみた。
指に付いた粉はごくわずか。壁に定着しているというより、壁の石材そのものに吸い込まれて消えかかっているような。
「別に普通じゃん。チョークだし、壁の湿気で馴染んだだけじゃないの?」
ミナは首を傾げるが、レオンの感覚がそれを否定する。
そんな短時間で、これほど変質するものか。
『──消える』
「……!」
レオンは弾かれたように振り返った。
通路の奥、闇の向こうから聞こえた気がした。
「どうした、レオン」
ガルドの厳しい声。
「……いや。今、誰かに……」
違う。
今のは、頭の中に響く『声』とは違った。
もっと生々しく、鼓膜を震わせるような、至近距離からのささやき。
レオンは恐怖を振り払うように、もう一度壁に向き合った。
円は、見ている間にも輪郭をぼやかしていくように感じられる。
「すいません。……もう一回、描き直します」
チョークを握り直す。嫌な汗でチョークが滑る。
上から力任せになぞり、今度は二重の太い線を刻みつけた。
「これでいい。これなら消えるはずがない」
「そうだよ、二重だもん。安心しなよ、レオン」
ミナが励ますように笑う。
一行は再び歩き出した。
──だが。
また同じような通路が現れ──。
数分後。
「おいおい……」
今度はガルドが足を止めた。
松明を壁にかざす。
「勘弁してくれよ……」
そこにあるべきはずの『二重に描き直した印』が、ほとんど見えなくなるくらいまで消えかけていた。
「……は?」
ミナの声が、絶望に震える。
「いや……さっき、ここ通ったよね? 二重に描くの、私も見てたよ!?」
セイルが震える手で地図を広げた。
「……通っています。間違いなく。距離も、歩数も、方位も狂っていません。なのに、印が消えかけている。こんなの、物理的にありえない……」
「わざわざ二重に書いたのに、なんで消えるのよ!」
沈黙が重くのしかかる。
松明の火が小さくなったように感じられ、通路の闇が迫ってくる。
レオンの喉が、極度の緊張で乾ききっていた。
『だから消えると言った』
「……」
「レオン、大丈夫ですか?」
セイルが彼の異変に気づき、顔を覗き込む。
「……消えるって、さっきあいつが言ってたんだ」
思わず口から漏れた言葉に、ガルドの視線が鋭く突き刺さる。
「あいつ? 誰のことだ。この中に俺たち以外の誰かがいるのか?」
「あっ……いえ。なんでもないです」
言えない。マニュアルの中から『声』がするなんて、正気を疑われるだけだ。
「何故か、そんな声が聞こえた気がして……気のせいかもしれません」
「しっかりしろ、レオン。……しかし、あんなにくっきり描いた二重の印が消えるなんて、そんなことがありうるのか?」
ガルドが壁に手を当て、力強く擦った。壁には何の粉も付着していない。まるで最初から何も描かれていなかったかのように。
「……仕方ない、先に進むぞ。ここにいても袋のネズミだ。俺たちは進むしかない」
その一言で、強制的に歩みが再開された。
だが、もう誰も喋らない。
レオンは何度も後ろを振り返る。
同じ景色。
自分が残してきたはずの、生存への道標。
それが、一歩進むたびに後ろから闇に溶けて消えていく感覚。
「印が消えるなんておかしい。……何かがおかしいんだ」
セイルがうわごとのように繰り返す。
「最初からなかったって可能性は……? 実はループしてなかったとか」
ミナが弱々しく希望を口にするが、レオンは確信していた。
自分は確かにここに描いた。指に伝わったあの感触は本物だった。
『──証明できない』
「……!」
まただ。追い打ちをかけるような『声』。
レオンの手が、無意識にポーチのマニュアルへと伸びて、震える指でページをめくる。
『第7章 ダンジョン探索の基本』。
整った文字。ギルドが発行した、信頼のおける「正しい」指針。
しかし、その文字を追うよりも早く、ページの隙間から『文字』が溢れ出した。
『印に頼るな』
「……」
「どうした、またそれを見て。何が書いてある」
ガルドが不審げに問いかける。
「……いいえ、何も」
レオンは壁を見つめた。
チョークも、セイルの地図も、マニュアルの知識も。
すべては『正しい』はずだ。何世代にもわたって冒険者が積み上げてきた真理のはずだ。
なのに、今、この場所ではすべてが『ずれて』いる。
自分たちが拠り所にしている理そのものが、この迷宮に拒絶されている。
『──戻れない』
頭の中に、あの『声』が響いてくる。
次の瞬間。
通路の奥から、無数の不気味な音が響いてきた。
カサカサと壁を這うような、粘り気のある足音。
それも、一つや二つではない。
「……来るぞ。構えろ!」
ガルドが大剣を引き抜き、吼える。
ミナが短剣を構え、セイルが詠唱を始める。
だが、レオンの意識は目前の敵ではなく、足元の『現実』に吸い込まれていた。
今、自分たちが立っているこの場所。
さっき描いたはずの印が消えた、この場所。
本当に、さっき通った場所なのだろうか。
──それとも。
『初めてだと思ってるだけ』
レオンの脳内で、何かが崩壊する音がした。
自分たちが『進んでいる』という実感さえ、このダンジョンに与えられた偽の記憶だとしたら?
彼の視界が歪み、世界が左右に揺れる。
正面から迫りくる魔物の影が、何十にも重なって見えた。




