第四話 「正中線」
ガルドたちは、街の喧騒から隔絶された古い地下遺構へと足を踏み入れていた。
湿り気を帯びた冷気が肌を刺す。差し込むわずかな外光は、入り口から数メートルで力尽き、そこからは松明の頼りない橙色の光が、凹凸の激しい石壁に長い影を落としていた。
レオンは歩きながら、脳内に刻まれた教本の一節を思い出していた。
戦闘において最も重要な概念のひとつが『正中線』です。
正中線とは、身体の中央を上下に貫く仮想の線を指します。人間および多くの人型種族において、急所(頭部・喉部・心臓・腹部中枢)はこの線上に集中しています。
したがって、攻撃を行う際は以下を基本としてください。
・相手の正中線を捉えることを最優先とする
・特に頭部および胸部中央を主目標とする
「……意外と普通だね」
沈黙に耐えかねたように、ミナが小声で漏らした。
コツ、コツ、と彼女のブーツが岩を叩く音が、狭い通路に反響する。もっとおぞましい叫びや、血の匂いが充満している場所だと思っていたのだろう。
「最初はな。ここはまだ、ダンジョンの入口に過ぎん」
ガルドは前を見据えたまま、地を這うような低い声で答えた。その手はすでに剣の柄にかけられ、いつでも引き抜けるよう準備されている。
レオンは、松明の光が届かない闇の奥を凝視しながら歩く。
壁は冷たい石造り。天井は低く、肩をすくめたくなるような圧迫感がある。
「……正中線か」
自分の恐怖を紛らわすように、レオンはマニュアルの言葉を口に出した。
「ほう、正中線を意識してるのか、レオン?」
ガルドの問いに、レオンは短く「はい」と答える。
「いい心がけだ。だが、意識するだけじゃ足りない。死にたくなければ、それを本能に叩き込め。思考が動く前に体が動くレベルまでだ」
「はいはい、わかってるって」
ミナが緊張を解きほぐすように軽く笑う。
「要するに、相手の真ん中を真っ直ぐ狙えばいいんでしょ?」
「……それで当たれば問題はない。だが、相手も殺されたくはないからな。こちらが狙ってもまず避けられる」
ガルドの言葉が途切れた、その瞬間だった。
通路の先、松明の光が届くか届かないかの境界線上で、何かがうごめいた。
「来るぞ、構えろ」
ガルドの空気が一変した。殺気が膨らみ、空気の密度が上がる。
現れたのは、一体のゴブリンだった。
緑がかった濁った皮膚、異様に長い腕。手には、錆びて刃こぼれした、不潔なナイフが握られている。
「一体だけか」
ミナの声に、余裕と緊張が混じる。
「いけるいける。レオン、初手は任せていい?」
「ミナ、油断は禁物だ。気を引き締めろ」
ガルドが剣を抜き、わずかに身を引いた。
「レオン、やってみろ。今のお前なら勝てるはずだ」
「……はい」
喉が焼けるように乾く。心臓の鼓動が、耳のすぐ傍で太鼓のように打ち鳴らされる。
だが、恐怖で足がすくむことはなかった。むしろ、脳のどこかが異常に冴え渡り、周囲の音が遠のいていく。
(正中線。真ん中。胸か、首……。そこを突けば、終わる)
レオンは剣を構え、ゴブリンを見据えた。
目の前のバケモノが、喉の奥で「ギギッ」と濁った声を出す。
次の瞬間、ゴブリンが地面を蹴った。
速い。
獣のような瞬発力で、一気に距離を詰めてくる。
レオンは反射的に剣を振り抜こうとした。
狙いは正確だ。ゴブリンの胸の中心。教本通り、寸分狂わぬ軌道。
(──いける!)
勝利を確信し、剣に力を込めたその刹那。
『──遅い』
脳を直接揺さぶるような、あの声が響いた。
「っ!」
意識がその声に引かれ、体がわずかに硬直した。ほんの一瞬、瞬きをするほどの空白。
その隙を、ゴブリンは見逃さなかった。
低い姿勢のまま、化け物はレオンの刺突を紙一重で回避し、下からナイフを跳ね上げた。
「避けろ!」
ガルドの怒号が響く。
レオンは夢中で体をひねった。
真一文字に振るわれたナイフの先が、レオンの肩の革鎧を裂き、肉をかすめる。
熱い。
遅れて、焼けるような痛みが走った。
「くっ!」
よろめくレオンの目の前で、鈍い銀光が閃いた。
ガルドが踏み込み、一撃でゴブリンの首をはね飛ばしたのだ。
静寂が戻る。
レオンは肩を押さえ、荒い息を吐きながらその場に立ち尽くしていた。
「大丈夫か?」
ガルドが血の付いた剣を無造作に振り払いながら振り返る。
「……はい。かすっただけです」
声が惨めに震えている。
ミナが駆け寄り、心配そうに傷口を覗き込んだ。
「うわ、結構深く切れてるじゃない。血が出てるよ」
「平気だよ、これくらいの傷……」
レオンは震える指先を見つめた。
実戦は、マニュアルの中の内容とは全く違っていた。
「最初はそんなもんだ。だが……」
ガルドは鞘に剣を収めると、レオンの目を厳しく射抜いた。
「レオン、マニュアル通りに動こうとするな」
「……え?」
「頭の中で内容を追っている間に、自分の命が消える。あのマニュアルはあくまで一例に過ぎん。まして、生死のやり取りの最中にその内容を思い出すようでは、ダンジョンで生き残ることはできんぞ」
「……」
レオンは何も言い返せなかった。
だが、彼が本当に困惑していたのは、自分のミスに対してではない。
さっきの声だ。
頭の中にこびりついて離れない、あの冷ややかな響き。
『──遅い』
ガルドと同じ言葉を、声は、ガルドよりも早く告げていた。
(マニュアル。ガルドさん。そして、あの声……。どれを信じればいい?)
レオンは震える手でポーチを探り、あのマニュアルを取り出した。
狂ったように、さっきのページを開く。
『第6章 戦闘の基本』。
そこには、何も書き足されていない。
整った、無機質な活字が並んでいるだけだ。
だが、その紙面を見つめた瞬間。
活字の間から、黒いインクが滴り落ちるように、新たな言葉が意識に流れ込んできた。
『──見るな』
「……は?」
思わず、独り言が漏れた。
「どうした?」
ガルドが足を止める。
「……あ、いえ。なんでもないです。ちょっと、頭が混乱してて」
レオンは慌ててマニュアルを閉じた。
鼓動がさらに速まる。
さっきまでの声とは、明らかに質が違う。
(遅い、じゃない。……『見るな』? 何を?)
その答えは、すぐに突きつけられた。
奥の暗闇で、カサリ、と硬い爪が岩を叩くような音がした。
ガルドの表情が険しくなる。
「構えろ。二体、いや、それ以上いるぞ」
レオンも再び剣を抜く。
しかし、混乱したレオンはガルドの忠告を無視して、再び教本の内容を思い出そうとしてしまう。
(正中線を意識して……真ん中を……)
だが、その教えをなぞろうとする意識が、逆に枷になる。思考が動きを縛る。その時──。
『 正面に立つな!』
「……!」
またも響いた声。
思考よりも先に、体が反応した。
レオンは自分の意思とは関係なく、右足を強く蹴り、一歩真横にずれた。
直後、暗闇から弾丸のように飛び出してきた影が、レオンが『さっきまでいた場所』を猛スピードで通り過ぎた。
もう一体のゴブリン。
その手には、レオンの喉を貫くはずだった鋭利な刃物が握られていた。
「……えっ!?」
ミナが驚愕の声を上げる。あまりにも早すぎる、予知したような回避だったからだ。
「いいぞ、レオン!」
ガルドの叫びが聞こえる。
レオンは勢いを止めず、体勢を崩したゴブリンの脇腹へ、真横から剣を叩き込んだ。
──鈍い手応え。
肉を断ち、骨を砕く感触が腕に伝わる。
ゴブリンは悲鳴を上げる暇もなく、そのまま地面に転がり、動かなくなる。その光景を目の当たりにした他のゴブリンたちは、一斉に逃げ出していった。
「……すごいじゃん。今の、完璧だったよ」
ミナが興奮気味に笑い、レオンの肩を叩く。
ガルドも、意外なものを見るような目でレオンを見つめていた。
だが、レオンは自分の勝利を喜ぶ気になれなかった。
(今の動きは、俺の意志じゃない。マニュアルでも、ガルドさんの指示でもない……)
それは、あの『声』に従った結果だった。
(あの声が、俺を助けた?)
レオンは、ゆっくりと顔を上げた。
松明の火が揺れ、闇と光が激しく入れ替わる。
奥の暗闇。
そこには、何もいないはずだ。
だが、レオンには見えた気がした。
闇の奥に、誰かが立っている。
何世代も前の、ボロボロになった『指針』を抱えた誰かが、自分をじっと見つめているような──。
冷たい汗が、レオンの頬を伝い、床に落ちた。




