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第一話 「第7版」

 冒険者ギルドの片隅にある、薄暗い円卓の上にそれはあった。

 

 『新人冒険者行動指針 第7版』。


 新米の冒険者であるレオンは指先でその表紙をなぞった。革の冷たい感触が、これから始まる未知への不安を煽る。


 第1章 序文

 本書は、新規登録冒険者に対し、任務遂行に必要な基本的知識および行動指針を提供するものである。

 冒険者は地域社会の安全維持および資源確保に寄与する重要な役割を担う。

 本書の内容を理解し、適切に行動することで、生存率の向上が期待される。


「……生存率、ね」

 

 レオンの口から、乾いたつぶやきが漏れた。

 開いたページの紙質は、驚くほど白い。まだ新しい紙特有の匂いが鼻についた。


「どうだ、そいつの読み心地は」

 

 向かいの席で、太い腕を組んでどっしりと座っている男性、ガルドが低く野太い声を出した。今回の初任務でリーダーを務める、ベテランの風貌を漂わせる戦士だ。

 

「……思っていたより、ずっと事務的で、ちゃんとしてるなって思いました」

 

 レオンが正直な感想を述べると、ガルドは鼻を鳴らした。

 

「当たり前だろ。そいつはただの本じゃない。俺たちの命を繋ぎ止めるための命綱だ。一文字でも見落とせば、次の日には死体袋の中だぜ」

 

「ちょっと、ガルド! 脅さないでよ」

 

 横から弾んだ声が割り込んできた。軽装の革鎧を纏った少女、ミナが屈託のない笑みを浮かべてレオンの肩を叩く。

 

「でもさー、こういうのってだいたい大げさに書いてあるものでしょ? 『生存率』なんて言葉を使って怖がらせて、ギルドの権威を守りたいだけなんじゃないの?」

 

「……そう思うなら、読まなくてもいい。だが、死ぬのは自己責任だ」

 

 ガルドの即答に、ミナは「相変わらず厳しいんだから」と肩をすくめた。それでも好奇心には勝てないようで、彼女はレオンの隣に座り込み、ページを覗き込んでくる。 

 そのさらに隣。魔道士のローブを深く被ったセイルが、長い指先であごをさすりながら、ぽつりとつぶやいた。

 

「……妙に、具体的ですね」

 

「何が?」

 

 レオンが聞き返すと、セイルは視線をページの一点に固定したまま、微かに声を震わせた。

 

「いやその、内容というか、言い回しですよ。まるでギルドが『こうしなければ確実に死ぬ』という前例を、嫌というほど見てきたような……」

 

 レオンは再び視線を紙面に戻す。

 

 本書の内容は、すべての状況における安全を保証するものではない。


「……」

 

 胃の奥がわずかに冷えるような違和感。だが、それは『冒険者という危険な職業なら当然の注意書』として、すぐに意識の底へ飲み込まれた。

 

「まあ、そりゃそうだよな。絶対安全なんて仕事じゃないんだし」

 

自分に言い聞かせるようにつぶやき、レオンは次のページをめくった。

 

 第2章 冒険者登録と基本義務

 登録された冒険者は、ギルドの管理下において任務を遂行する。

 任務に伴う危険と、それによって生じた損害については、冒険者自身がその責任を負うものとする。


「結局、自己責任ってことか」

 

 レオンの言葉に、ガルドが深くうなずく。

 

「そういうことだ。お前が足を滑らせようが、魔物に喉笛を食い破られようが、ギルドは一滴の涙も流さない。誰も助けちゃくれないのさ」

 

 ミナが不満げに口を尖らせる。

 

「えー、でもさ。ギルドって困った時はサポートしてくれるって説明会で言ってたじゃない。あれは嘘なの?」

 

「する時もある」

 

 ガルドは、感情の読み取れない瞳でミナを見据えた。

 

「……そして、しない時もある」

 

「何それ、どっちなのよ」

 

「状況次第だ。お前に『助ける価値』があるか、あるいは『助ける余裕』が残っているか。それだけだ」

 

「うわぁ、ドライすぎる……」

 

 ミナがおどけて笑う一方で、セイルは沈黙を守っていた。ただ、穴が開くほどにマニュアルを見つめている。

 

 その時だった。

 レオンは、ページの右端に違和感を覚えた。

 活版印刷の整った文字が並ぶ余白。そこに、ほんのわずかな、シミのようなものが見えた。

 

(なんだ、これ……?)

 

 目を凝らす。それはシミではなかった。

 あまりに細く、鋭利な刃物で刻んだような、あるいは、震える手で無理やり書き殴られたような、手書きの文字。

 

『助けない』

 

 心臓がドクリと跳ねた。

 

「……」

 

 レオンは反射的に目を細め、身を乗り出した。

 

「どうした、レオン」

 

 ガルドの声に、レオンは指先でその余白を指し示した。

 

「ここ、見てください。何か書いてありませんか? 誰かの書き置きみたいな……」

 

 三人が一斉に覗き込む。ミナが鼻先がつくほど顔を近づけ、セイルがレンズの厚い眼鏡をかけ直した。

 

「どこ? 真っ白にしか見えないけど……」

 

「え?」

 

「レオン、疲れてる? 何も書いてないわよ」

 

 ミナの不思議そうな顔を見て、レオンはもう一度ページを凝視する。

 そこには、確かに、炭のような黒さで刻まれている。

 

『助けない』

 

「え、あるだろ。この、二行目の横のあたりに」

 

「……ないってば」

 

 ミナが呆れたように笑う。


「きっと緊張してて、頭が疲れてるんだよ、レオン。ね、セイル?」

 

 セイルは、文字があるはずの場所をじっと見つめていた。その瞳が、一瞬だけ異様に大きく見開かれた。

 

「……」

 

「セイル? お前にも見えるのか?」

 

 レオンがすがるように聞くと、セイルは不自然なほど素早く視線をそらした。

 

「……いえ。何も見えません。きっと、紙の汚れを見間違ったんですよ」

 

 そう言って、彼は深くフードを被り直した。

 レオンは狐につままれたような気分で、一度ページを閉じた。そして、深呼吸をしてから再び開く。

 

 ……何もない。

 そこには一点の曇りもない、美しい余白が広がっているだけだった。

 

「……はは、そうだよな。俺の見間違えみたいだ」

 

 自嘲気味に笑うレオンに、ミナがポンと肩を叩いた。

 

「そうそう! 幽霊より魔物を心配しなさいって」

 

「……ああ、そうだよな」

 

 納得しようと努め、レオンはうなずいた。

 しかし、ページを完全に閉じようとしたその刹那。

 視界の端で、白紙の余白に、再びあの不吉な文字が、今度はさらに濃く浮かび上がった気がした。

 

『助けない』

 

 吸い込まれるような黒。

 レオンはそれを振り払うように、強引に別のページを開いた。

 

 第6章 戦闘の基本

  6-1 正中線の理解と運用

 戦闘において最も重要な概念のひとつが「正中線」です。

 正中線とは、身体の中央を上下に貫く仮想の線を指します。人間および多くの人型種族において、急所(頭部・喉部・心臓・腹部中枢)はこの線上に集中しています。

 

「よし」

 

 ガルドが椅子を鳴らして立ち上がった。

 

「読み込むのはそこまでだ。頭でっかちになっても現場じゃ役に立たねえ」

 

「えー、もう行くの? まだ第6章読んでないよ」

 

 ミナが不満げに腰を浮かせる。

 

「続きは現場で覚えろ。それが一番早い」

 

 ガルドは背中の大剣を確かめると、迷いのない足取りでギルドの扉へと向かった。

 

「初任務だ。ランクEの簡単な依頼だが、気を抜くなよ」

 

 レオンはマニュアルを閉じ、少しだけ迷ってから、それを腰のポーチにねじ込んだ。

 立ち上がると、腰に下げた剣の重みがずしりと伝わってくる。その重みが、少しだけ現実感を呼び戻してくれた。

 

 ギルドの外に出ると、冬に近い秋の冷たい空気が頬を刺した。

 空は低く垂れ込め、太陽の光は弱々しい。

 

「正中線ねぇ……」

 

 ミナが影踏みでもするように、軽快にステップを踏みながら腕を振る。

 

「要するに、相手の真ん中を狙えばいいんでしょ? 簡単じゃない」

 

「そう単純な話でもないがな。だが、すべての基本だ」

 

 ガルドの言葉に、セイルが小さく、消え入りそうな声で応じた。

 

「基本。そう、基本が大事なんですね……」

 

 歩みを進めるごとに、街の賑わいが遠のいていく。

 前方に、ぽっかりと大地が口を開けたような、ダンジョンの入口が見えてきた。そこから漏れ出す腐敗した土の匂いが、レオンの鼻を突く。

 

 レオンは無意識に、ポーチの中のマニュアルに触れた。

 革の感触を確かめようとした、その時。

 指先から、脳内に直接響くような、冷徹な声が聞こえた。開いてもいない本の中から、言葉が流れ込んできた。

 

『遅い』

 

 レオンの足が、凍りついたように止まった。

 心臓の鼓動が耳元でうるさく打ち鳴らされる。

 

(……ガルドでも、ミナでも、セイルでもない。それじゃあ、今の声は誰だ?)

 

「……おい、どうしたレオン? 置いていくぞ」

 

 ガルドが数歩先で振り返り、不審そうに目を細める。

 レオンは震える喉を無理やり動かし、ひきつった笑みを浮かべた。

 

「……いや。なんでもありません」

 

「ならいい。行くぞ」

 

 ガルドを先頭に、パーティはゆっくりと暗闇の中へ足を踏み入れていく。

 レオンは最後にもう一度だけ、腰のポーチを見つめる。

 そして、自分たちを飲み込もうとしているダンジョンの入口を見た。

 

「……なんでもないんだ」

 

 自分への呪文のようにそうつぶやき、彼は一歩を踏み出した。

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― 新着の感想 ―
Xを拝見して来ました。レオンにしか見えなかった文字や謎の声の正体など続きが気になりました。
冒険者たちと不穏な行動指針、参考書の存在が、彼らにどんな悲劇をもたらすのか、ドキドキさせられる冒頭でした。声の正体という気になる点もあり、興味を抱かせられる内容でした。
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