第8話⑤ ツガニ汁――こごりの朝
翌朝、台所号の横腹を開けようとしたら、中からいい匂いがした。
寧々がもう火をつけていた。鍋の表面に、白いこごりが浮いている。
「おばあさんのところ、持っていく」
おばあさんの露店は、朝から開いていた。追手筋の端の方で、いつもと同じ場所にいつもと同じエプロン姿で座っている。トレーの中のツガニが、また動いている。
「おばあさん」
声をかける前に、おばあさんが椀に気づいた。
「ほう、持ってきたんか。ほんまに作ったんやな」
おばあさんが身を乗り出す。
「ちょっと見せてみ」
椀を受け取って、覗き込む。こごりが浮いている。豆腐が沈んでいる。湯気が細く立っている。
一口すする。もう一口。こごりをすくって、口に入れる。
「……これ、ちゃんとできてるやん。こごりも出てるし」
「力を借りました」
おばあさんが俺を見て、また寧々を見る。
「二人でやったんか。ええな。うちの母親もよう作ってたけど、石臼が重うてな。一人でつくのがしんどいって言うてたわ」
椀を傾けながら続ける。
「醤油、もう少し控えてもよかったかもな。カニの甘みが隠れる手前くらいが、ちょうどええ」
寧々がすぐ頷く。
「次、そうします」
「でも十分や。初めてにしては上出来やで」
おばあさんが椀を持ったまま、寧々を見る。
「神戸から来たんやろ。よう作れたわ、ほんまに」
「教えてもらったので」
「ほな、また高知来たら寄りや。もっとええツガニ、出してやるから」
寧々が少し間を置いて、頷く。
「来ます」
おばあさんが笑う。
「礼はええ。うまいもん作ったら、それで十分や」
──────────
台所号の横腹を開ける。外の作業台を出す。折り畳みの脚を広げて、地面に当てる。
鍋を火にかける。昨日の仕込みが残っている。温めると、こごりがまた浮いてくる。白いふわふわが、鍋の表面に広がる。
黒板に書く。
――ツガニ汁
下に小さく。
――本日分なくなり次第終了
最初のお客さんは、中年の男の人だった。黒板を見て、足を止める。
「ツガニ汁、ここで食べられるんか」
「はい」
「珍しいな。どこで仕込んだん」
「日曜市のおばあさんに教えてもらいました」
男の人が少し考える顔をする。
「……もしかして、追手筋の端のおばあさんか。小柄な」
「はい」
「あの人のツガニ、毎年買うてる。ほな間違いないな。一つ」
椀を渡す。
男の人が一口すする。少し目を細める。
「……こごり、ちゃんと出てる。あの人に習ったんやったら本物や」
二口、三口。椀を両手で持って、汁を飲む。
「うまい。カニの甘みが出てる」
少し間があって、また言う。
「今年もええツガニやったんやな。毎年あのおばあさんから買うんやけど、今年のは特に肉付きがよかった。そのせいかもしれん。出汁が濃い」
それだけ言って、また椀に戻る。
その声が聞こえたのか、後ろに並んでいた人が前に出る。
「ツガニ汁って、あのおばあさんの?」
「はい、教えてもらいました」
「それは食べんといかんな。一つ」
受け取って、すぐ一口。
「あー、これや。この味や。毎年この時期だけ食べられる味や。去年は忙しくて食べ損ねてな」
椀を傾けながら続ける。
「ここのキッチンカー、また来るんか?」
「高知にいる間は」
「ほなまた来る。嫁に教えてやらんと」
隣の人が覗き込む。
「なんですか、それ」
「川のカニの汁。高知のやつ。知らんの?」
「観光で来てて」
「ほな食べてみ。絶対うまいから」
観光客らしい若い女の人が、少し迷いながら前に出る。
「あの、一つください」
椀を渡す。白いこごりが浮いているのを見て、少し首をかしげる。
「これ、なんですか。白いふわふわ」
「こごり。カニの旨みが固まったやつです」
「食べていいんですか」
「一番うまいところです」
女の人が恐る恐る一口すする。
目が丸くなる。
「……なんか、優しい味」
「川の出汁です」
もう一口。こごりをすくう。口に入れる。
「あ、崩れた。口の中でふわってなった」
寧々が黙って頷く。
女の人がもう一口、また一口。椀が空になる頃、顔がほどけている。
「これ、高知でしか食べられないんですか」
「今の時期だけです」
「来年も来よう。友達にも教えよう」
その声を聞いた後ろのお客さんが、前に出る。
寧々は何も言わない。手だけが動いている。
よそう。渡す。よそう。渡す。
昼前に、鍋が底をついた。
寧々が鍋を覗いて、小さく言う。
「終わり」
俺は黒板を書き直す。
――本日分、終了しました。ありがとうございました。
片付けをしていると、さっきの男の人が通りかかった。
「おいしかったわ。また高知来たときはよろしくな」
「ありがとうございます。また高知に来ます」
男の人が笑って、市の奥に消えていった。
片付けが終わる。台所号の横腹を閉める。
寧々が石臼を抱えて、市の入口まで歩いていく。おばあさんに言われた通りの場所に置く。重い石臼を下ろして、少し手を払う。
振り返ったとき、市の賑わいがまだ続いていた。声と匂いと色が混ざっている。
「高知、よかったな」
俺が言う。
寧々は市の方を見たまま、少し間を置いて言う。
「……うん」
それから、戻った。
エンジンをかける。
商店街の角を曲がるとき、軒先から煙が上がっていた。藁の青い匂いが、一瞬だけ窓から入ってくる。
寧々が、少しだけ顔を向けた。
俺はスマホを開いて、自分の投稿を見る。
鍋の表面に浮かぶ、白いこごり。澄んだ汁の中に、豆腐とネギ。湯気が細く立っている。
────────────────
【PHOTO】ツガニ汁
高知・日曜市のおばあさんに教わった一杯。
川のカニを丸ごとつぶして煮る。白いこごりが、全部うまい。
本日、完売。
#旅する台所号 #今日の一皿 #高知
────────────────




