第8話④ ツガニ汁――こごりが浮く
おばあさんからツガニを六匹買った。
トレーに移して、台所号の中に運ぶ。脚がトレーの縁を引っかく音がする。生きている音だ。
石臼はおばあさんが貸してくれた。
「返しに来なくていい。使い終わったら、市の入口に置いといてくれたら誰か拾う」
そう言って、軽トラの荷台から下ろしてくれた。思ったより重い。両手で抱えて、台所号の作業台に置く。
「まず甲羅とふんどしを外す」
寧々が言う。
トレーのツガニを一匹取り上げる。甲羅の後ろから持つ。脚がばたばた動く。ハサミが空を切る。
寧々が手際よく甲羅を外す。ふんどしを外す。中身が見える。ミソが詰まっている。
「次、石臼に入れる」
俺がツガニを受け取る。石臼の中に入れる。脚がまだ動いている。ハサミが石臼の縁に当たって、かつ、と鳴る。
杵を持つ。
少し、間があった。
「いくで」
自分に言い聞かせるみたいに言って、打ち下ろす。
ごつ。
甲羅が割れる音がした。脚の動きが止まる。もう一度。
ごつ。
身が崩れる。もう一度、もう一度。杵を打つたびに、石臼の中で形が変わっていく。最初はカニの形をしていたものが、だんだんぐずぐずになっていく。殻の破片と、ミソと、身が混ざっていく。
「もっと細かく」
寧々が言う。
「まだか」
「殻が大きいと濾せない」
もう一度打つ。また打つ。杵が重い。腕に力が入る。額に汗が出てくる。
「……きつい」
「もう少し」
「もう少しが長い」
「もう少し」
また打つ。打つたびに石臼の底から匂いが上がってくる。川の匂いと、生のカニの匂いが混ざった、嗅いだことのない匂いだ。
「ええ」
寧々が言う。
俺は杵を置いて、腕を伸ばす。石臼の中を見る。さっきまでカニだったものが、もう原形をとどめていない。
「水を足す」
寧々が水をカップで測って、石臼に注ぐ。殻と身が水に混ざって、濁った液体になる。色は灰色に近い茶色だ。
「次の一匹」
また繰り返す。六匹、全部つぶし終わる頃には、腕が鈍く痛んでいた。
「ざるで濾す」
大きなざるをボウルの上に乗せる。石臼の中身を少しずつ移す。殻が残る。身と汁が落ちていく。寧々がへらで押して、残った旨みを絞り出す。
ざるに残った殻を、二人でしばらく見た。
「……いただきますって言葉、ちゃんと意味あるんやな」
俺が言う。
「命もらってるから」
しばらく、黙った。
寧々が鍋を火にかける。中火。鍋の縁に手をかざして、温度を確かめる。
しばらく待つ。
鍋の底から細かい泡が上がり始める。汁が動き始める。
汁の色がまだ濁っている。灰色がかった茶色で、とても食べ物の色には見えない。
「……うまい汁になるんかな、これ」
「見てたらわかる」
そのとき、表面に白いものが現れた。
最初は小さな点だった。それが少しずつ大きくなる。白いふわふわが、鍋の表面に集まってくる。一つ、二つ、三つ。気づいたら鍋一面に広がっていた。
汁の色が変わっている。
さっきまで濁っていた灰色が、少しずつ澄んでくる。白いこごりが旨みを引き受けて、汁が透明に近づいていく。
「……これか」
俺が言う。
寧々は答えない。鍋を見ている。動かない。
こごりが鍋の表面で静かに揺れている。白くて、ふわふわで、触ったら崩れそうだ。
「食べてもいいんか、これ」
「食べる。これが一番うまい」
寧々がおたまでこごりをすくう。崩れないように、ゆっくり。椀に移す。白いふわふわが、澄んだ汁の上に浮いている。
豆腐を大きめに切って入れる。ネギを刻んで散らす。醤油を少し垂らして、一回だけかき混ぜて火を止める。
一口すする。
熱い。でも止まらない。
こごりが口の中で崩れる。ふわっと広がって、すぐ消える。でも消えた後に、カニの出汁が舌の奥にどっと広がる。甘くて、川の匂いがする。海のカニとは全然違う。もっと野性的で、もっと深い。醤油の香ばしさが後から追いかけてきて、全体が締まる。
豆腐をすくう。出汁を吸い込んでいて、噛んだ瞬間に中からカニの汁が出てくる。豆腐なのに、カニの味がする。
「……濃い。食堂のより、ずっと」
喉が鳴る。もう一口。また一口。椀が軽くなるのが惜しい。
寧々もおたまで一口すする。目が細くなる。もう一口。また一口。黙ったまま、止まらない。
二人とも、鍋の前から離れない。
汁は澄んでいる。こごりが表面で静かに揺れている。
俺はもう一口、椀を傾けた。




