第8話③ ツガニ汁――川のカニ
翌朝、寧々は早めに起きていた。
台所号の小さなテーブルに座って、水を飲んでいる。声をかけても返事が短い。不機嫌ではない。でも、どこか遠い。昨日の炎がまだ頭の中にある顔だ。
「飯、食いに行くか」
「……うん」
「どこがいい」
「どこでもいい」
どこでもいい、は寧々にしては珍しい。いつもなら何か言う。
俺は地図を開いた。日曜市が近い。高知の日曜市は、追手筋で毎週日曜日に開かれる。江戸時代から続く市で、野菜、果物、漬物、土産物、なんでもある。朝飯を食いながら歩くにはちょうどいい。
「市、行ってみるか。日曜市」
寧々が少しだけ顔を上げる。
「市?」
「食いもんも並んでるはずや」
少し間があって、寧々が立ち上がった。
──────────
追手筋は、朝から人が出ていた。
道の両側に露店が並んでいて、野菜の箱、果物の籠、干物の袋、漬物の瓶。色がごちゃごちゃに混ざっている。人の声と、値段を読み上げる声と、袋をたたく音が重なっている。
寧々が少しずつ前を向いてきた。市の匂いが、どこか鼻を動かしているみたいだ。
しばらく歩いたところで、寧々が足を止めた。
露店の台の上に、カニがいる。
小ぶりだ。甲羅が丸くて、脚が細い。全体に毛が生えていて、色は黒っぽい茶色。海のカニとは全然違う見た目だ。水を少し張ったトレーの中で、のそのそと動いている。
「……なんやこれ」
寧々が小声で言う。
「カニ、やんな」
「カニやけど」
二人でしばらく見ている。カニが脚を動かして、トレーの端まで歩いて、また戻ってくる。
「聞いてみるか」
露店のおばあさんに声をかけようとしたら、向こうから来た。小柄で、日に焼けた顔をしている。エプロンの紐が後ろでしっかり結んである。
「ツガニ、珍しいやろ。どこから来たん?」
「神戸です」
「神戸! 遠いなあ。ツガニ、知ってる?」
「知らないです」
「そうやろそうやろ。これな、川のカニや。仁淀川で捕れる。今が旬やで」
おばあさんがトレーを少し前に出す。
「触ってみ。ほら、毛があるやろ」
寧々が少し身を引く。
「ハサミ、痛いですか」
「痛い痛い」
おばあさんが笑う。
「でもコツがある。甲羅の後ろから持ったらハサミが届かん。ほら、こうやって」
おばあさんがツガニを一匹つまみ上げる。脚が宙でばたばた動いているのに、おばあさんは平然としている。
「食べたことある?」
「ないです」
「ほな食べてきたらええ。汁にするんよ。丸ごとつぶして煮る。白いふわふわが浮いてきてな、それがうまいんや」
「白いふわふわ?」
「カニの旨みが固まったやつや。こごりって言う。あっちの食堂、今の時期は出してるから」
おばあさんが市の奥を指さす。
寧々が俺を見る。
「行こか」
──────────
食堂は小さかった。
引き戸を開けると、出汁の匂いが来た。煮干しと、もう一つ。甘くて、少し野性的な匂いが混ざっている。
「ツガニ汁、二つください」
しばらくして、椀が来た。
汁は白く濁っている。表面に白いふわふわが浮いていて、それがこごりだと分かった。豆腐が沈んでいて、ネギが散っている。
寧々が椀を持ち上げて、匂いを嗅ぐ。
一口すする。
動かなくなった。
椀を持ったまま、もう一口。目が少し細くなる。また一口。
俺も食べる。
出汁が来る。カニの出汁だ。でも海のカニとは違う。もっと野性的で、川の匂いがする。磯の塩気ではなく、川底の石みたいな匂いだ。そこにこごりのふわふわが溶けて、口の中でじわっと広がる。最初は薄い。でも飲み込む直前に、カニの甘みが後から出てくる。豆腐が出汁を吸っていて、噛むと中から汁が出る。
「……なんやこれ」
さっきと同じ言葉が出た。でも今度は違う意味だ。
寧々が椀を置いて、こごりをじっと見る。
「初めて見た」
それだけ言って、また椀を持ち上げた。
──────────
食堂を出て、二人でまたおばあさんの露店に戻った。
おばあさんが俺たちを見て、すぐ顔をほころばせる。
「どうやった」
「おいしかったです」
寧々が言う。いつもより少し早い返事だ。
「やろやろ。あのこごりがええんよ。初めて見た人はみんなびっくりする」
「作り方、教えてもらえますか」
おばあさんがまた身を乗り出す。今度は本気の顔だ。
「ええよ。まず甲羅とふんどしを外す。ここ、こうやって――」
おばあさんがツガニを一匹取り上げて、手際よく甲羅を外して見せる。
「それから石臼でつく。生きたままやから暴れる。力がいるし、ハサミも怖いけど、押さえながらつくんよ。ここが一番コツがいる」
「それ、俺が手伝います」
おばあさんが俺を見て、ふっと笑う。
「頼りになるやん。つぶれたら水を足して、ざるで濾す。殻を全部取り除いたら、残った汁を鍋で煮る。そしたらこごりが浮いてくる。火は必ず通さんといかん。川のカニやから」
寧々が頷く。
「豆腐とネギを入れて、醤油で味を決めたら終わり。難しくはないけど、つぶすところだけ慣れがいる」
おばあさんがツガニを一匹ずつ持ち上げて、寧々に見せる。
「オスとメス、分かるか。ふんどしの形が違う。細いのがオス、丸いのがメス。メスのほうが味が濃いよ。ミソが入ってるから」
寧々がじっと見る。
「このくらいの大きさやと、何匹要りますか」
「四人前なら六匹は欲しいな。たくさん入れるほどええ出汁が出る」
「オスとメス、半々くらいがいいですか」
「そうそう。よう分かるやん」
おばあさんが少し嬉しそうな顔をしている。質問が具体的になるたびに、顔が明るくなる。
「あんた、料理人か」
「はい」
「どおりで。目が違う」
寧々がトレーの中のツガニに手を伸ばす。脚が動いている。ハサミが当たりそうになって、一瞬手を引く。
「甲羅の後ろから持つんやで、さっき言うたやろ」
おばあさんが横から手を添えて、持ち方を教える。寧々がもう一度手を伸ばす。今度は引かない。
甲羅の後ろを指で押さえる。脚がまだ動いている。それでも、寧々の手は止まらない。
おばあさんが笑う。
「そうそう。慣れたら怖くない」
寧々がじっとツガニを見ている。
その目は、もう昨日とは違う場所にいた。




