第8話② ツガニ汁――いつか
店の中は、煙の匂いが染みついていた。
壁が黒い。天井も黒い。長い年月で煙が積み重なった黒さで、塗ったものじゃない。カウンターに四席、奥にテーブルが二つ。昼前なのに半分埋まっている。
席に着くと、すぐ水が来た。
「カツオのたたき、二つください」
寧々が言う。メニューを見ない。最初から決まっていた。
店の人が頷いて、奥に引っ込む。
しばらくして、軒先でまた炎が上がる音がした。ぼう、という音と、脂が弾ける音。煙の匂いが店の中まで濃くなる。
「さっきのが来るん?」
「そう」
寧々が水を一口飲む。
「諸説あるけど、面白いのは昔の土佐藩主が生食を禁じたって説がある、食中毒を警戒して。でも土佐の人間はカツオを生で食べたい。だから表面だけ炙って、焼き魚のふりをして食べてたっていう」
「禁止されてても食べたかったんか」
「気持ちは分かる」
寧々が水をもう一口飲む。
皿が来た。
カツオが並んでいる。切り口が厚い。皮の面は黒く焦げていて、端から赤い断面が見えている。皿の端に粗塩が盛ってあって、薬味が小皿に分けて添えてある。薄切りのニンニク、白い玉ねぎ。
湯気が出ている。まだ、熱い。
カツオを粗塩にあてて、口に入れた。
外側の焦げた皮が歯に当たった瞬間、藁の香りが来た。煙の香りとは違う。草が燃えた青い匂いが、鼻の奥を一気に抜ける。それと同時に、身の赤い部分がほどける。加熱されていない赤が舌の上で崩れて、カツオの脂が出てくる。重くない。でも濃い。
「……塩で食べるんやな」
思わず言う。
「そのほうがカツオの味が出る」
寧々はもう二口目を食べている。
ニンニクをのせて、もう一口。薬味の辛さが加わった瞬間、カツオの脂がより前に出てくる。さっきより輪郭がはっきりする。藁の香りがまだ鼻に残っていて、飲み込んだ後も煙の余韻が口の奥にある。
玉ねぎをのせて、もう一口。辛みではなく甘みが来る。脂と甘みが絡んで、後味が丸くなる。
箸が止まらない。
皿が半分になった頃、寧々が玉ねぎをのせた一切れを口に入れて、少し目を細めた。
それから、箸を置いた。
まだ皿に残っている。
「どしたん」
「……見とった」
「何を?」
「炎」
少し間があって、寧々が言う。
「やりたい」
「藁焼き?」
「うん」
俺は少し考える。頭の中で台所号の横腹を開けた場面を思い浮かべる。
「……車、燃える」
「…うん」
「煙も周り巻き込む」
「……うん。でもやりたいもんはやりたい」
寧々が言う。俺も、うまいと思ってたから、何も言えなかった。
残りのカツオを食べた。藁の香りがまた来る。塩が締める。うまい。
皿が空になった。
「……他にも見て回ろうか。高知、まだ全然見てないし」
俺が言う。
寧々が少し顔を上げる。
「……うん」
店を出た。軒先でまた炎が上がっていた。ぼう、という音と煙。脂の匂いが通りに広がっている。
寧々がその前を通り過ぎる。立ち止まらない。でも、一瞬だけ炎の方を見た。
その横顔を見て、俺は小声で言った。
「いつか、場所整えてやろう。藁焼きできるくらいの」
寧々が少し黙って、前を向いたまま言う。
「……ほんまに?」
「いつか、やで」
寧々が小さく息を吐く。
でも、さっきより少しだけ顔が前を向いていた。




