第7話⑤ 宇和島鯛めし——香りを足す
営業日になった。
港の空は、朝から青かった。風が冷たい。でも、昨日より穏やかだ。
台所号の横腹を開ける。外の作業台を出す。折り畳みの脚を広げて、地面に当てる。風よけの板を立てる。
小さな作業台の上に、炊飯器と包丁とまな板。タレの小皿。卵。みかん。それだけ。
黒板に書く。
——宇和島鯛めし
下に、小さく。
——本日分なくなり次第終了
チョークの粉がまだ新しい。
寧々がタレを合わせる。醤油、みりん、酒。三日間で決めた配合だ。迷いがない。
鯛を引く。薄く、薄く。透明に近い白がまな板の上に並ぶ。三日間で一番薄い。光を通しそうなくらいだ。
みかんを手に取る。皮を削る。白い部分には入らない。橙の表面だけ、薄く。刻む。
チ、チ、チ。
香りが跳ねる。甘い。青い。
準備が整う。
最初のお客さんは、作業着の年配の女性だった。黒板を読んで、足を止める。
「鯛めし。かけ飯やんね?」
「はい」
「どこの鯛?」
「今朝のです。港で仕入れました」
女性が「ほう」と言って、少し考える。
「じゃあ、それで」
寧々が動く。
鯛をタレに漬ける。端から琥珀色が滲む。色が変わりきる前に引き上げる。飯をよそう。湯気が顔に当たる。鯛の身を並べる。卵黄を落とす。橙の丸が、静かに座る。最後に、刻んだみかんの皮を散らす。橙の粒が、白い飯の上に落ちる。
女性が受け取る。卵黄を崩す。一口。
「……うん、鯛がちゃんとしてる」
もう一口。
「みかん、入れてるね」
「はい。皮を刻んで」
「ほう」
それだけ言って、また黙って食べる。
次のお客さんが前に出る。観光らしい若い二人連れだ。
「鯛めしって、炊き込みじゃないんですか」
「宇和島は生です。タレと卵に絡めてご飯にのせます」
「へえ、知らなかった。じゃあ二つ」
受け取って、卵黄を崩す。一口。
「鯛、とろける」
「卵が絡んで、丸くなる感じ」
もう一口。
「……あれ、みかん?」
「はい」
「なんで分かったん」
「香りがした」
その声を聞いた後ろのお客さんが、前に出る。
作業着の若い男だ。港で見た顔だ。無言で黒板を読む。
「一つ」
受け取って、その場で食べる。卵黄を崩して、一口。二口。三口。顔は変わらない。でも、速い。
底が見える頃、短く言う。
「また来る」
声がばらばらに飛んでくる。寧々は何も言わない。手だけが動いている。
鯛を引く。漬ける。引き上げる。よそう。落とす。散らす。渡す。
その繰り返し。
みかんの香りが、台所号の外まで出ていく。それに引き寄せられるように、人が来る。港の端の小さな台所号に、少しずつ人が集まる。
昼を過ぎた頃、寧々が小声で言う。
「鯛、あと少し」
「分かった」
俺は黒板を書き直す。
——本日分、残りわずかです。
それでも人が来る。
最後の一杯を渡したのは、夕方前だった。
俺は黒板をもう一度書き直す。
——本日の営業は終了しました。
二人だけになる。
寧々が残りの飯をよそう。鯛を並べる。卵黄を落とす。みかんの皮を散らす。
俺に渡す。自分の分も作る。
一口食べる。タレの甘さが先に来て、卵のとろみが包む。鯛の味が奥から出てくる。そこへ、みかんの香りが鼻を抜ける。
「うまいな」
俺が言う。
寧々が小さく頷く。
「食堂と、どっちがうまい」
寧々が少し考えて、言う。
「違う味」
「どっちがうまいかは聞いてる」
「どっちも、うまい」
それだけ言って、また箸を動かす。
俺は椀を持ったまま、もう一口食べた。みかんの香りが、また鼻を抜ける。
窓の外に、みかん畑はない。港の空が、夕方の色になっている。
でも、口の中に橙がある。
しばらくして、寧々が言った。
「……藁焼き、見たい」
「藁焼き?」
「高知のカツオ。あれ、一回見たい」
俺は少し考えて、言う。
「このまま四国、全部回ってしまおうか」
寧々は答えない。
「……カツオ……」
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【PHOTO】宇和島鯛めし
透明な鯛がタレで色づく。卵が絡んで、みかんの香りが鼻を抜ける。
本日の営業、終了。
——次は高知へ。カツオ、食べたい。
#旅する台所号 #今日の一皿 #宇和島
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