第7話④ 宇和島鯛めし——試行錯誤
翌朝。
台所号を停めた場所は、港の近くだった。潮の匂いと、エンジンオイルの匂いが混ざっている。朝の港は静かで、遠くでエンジンの音がするだけだ。
俺は外に出た。港の管理事務所に話を通す必要がある。
「行ってくる」
「うん」
寧々はもう台所号の中にいた。
事務所は港の端にあった。引き戸を開けると、年配の男が書類を見ていた。
「すみません。キッチンカーで出店したいんですが」
男が顔を上げる。
「ここで?」
「はい。しばらくの間です」
男は少し考えて、立ち上がった。
「場所、見てみよか」
港を歩く。漁船が並んでいる。エンジンの音がする。男が足を止めた場所は、漁船の列から少し離れた端だった。
「ここやったら邪魔にならんな」
「ありがとうございます。いつからできますか?」
「来週あたりやったら、漁も落ち着いとるな」
「では、来週からお願いできますか?」
「まあ、ええよ」
俺は頭を下げた。
---
台所号の中では、寧々が動いていた。
まず、鯛を引く。
柳刃を入れる。薄く、薄く。透明に近い白がまな板の上に並ぶ。
端を一切れ、そのまま口に入れる。
臭みがない。弾力がある。噛んだ瞬間、脂がすっとほどける。甘い。後味が消えない。
もう一切れ。
さっきより厚めに引いてみる。噛んだ瞬間に跳ね返ってくる。それからほどける。脂の甘さが、口の奥からじわっと広がる。
もう一切れ。
今度は薄く。舌の上に乗せると、溶けるみたいにほどける。脂だけが残る。甘い。きれいな甘さだ。
宇和海の鯛は、こういう鯛だ。
これをどう生かすか。
タレから始める。醤油、みりん、酒。小皿に合わせて、鯛を一切れ漬ける。端から琥珀色が滲む。色が変わりきる前に引き上げる。卵黄を崩す。とろみが出る。
飯によそって、一口食べる。
タレが浮いている。鯛と卵とタレが、それぞれ別々にいる感じだ。まとまらない。
醤油を減らす。もう一回。
今度はタレが薄すぎた。鯛だけになった。
みりんを足す。もう一回。
近づいた。でも、まだ浮いている。
椀を置く。窓の外を見る。港の空が、白い。
その日は、そこで止めた。
---
夕方、台所号に戻る。
扉を開けると、醤油の匂いが飛んできた。まな板の上に、鯛の端切れが残っている。椀が並んでいる。
「どうだった?」
寧々が振り返らずに言う。
「鯛がうまい」
俺は少し間を置く。
「……タレは?」
「……これから」
「食うてただけかい」
寧々は答えない。
「来週から、ここで出せることになった。四日ある」
寧々の手が、一瞬だけ止まる。
「分かった」
それだけ言って、また動き出す。
俺は扉を閉めた。明日から備品の仕入れに回る。容器、割り箸、袋。足りないものを確認しながら、台所号を離れる時間が増える。
---
二日目。
寧々が台所号の中で動いている間、俺は近くの業務店を回っていた。
容器のサイズを確認して、蓋の種類を選ぶ。袋は二種類。小さいほうを多めに取る。
昼前に一度、台所号に戻る。
「どう?」
「まだ浮く」
寧々がタレの小皿を見ている。
「昨日と同じ問題?」
「醤油が合ってない気がする」
俺は棚を見る。さっき業務店で見た地元の出汁醤油が頭に残っていた。
「出汁醤油、試してみたら?地元のやつ港の近くに売ってたで」
寧々が少し考えて、顔を上げる。
「買ってきて」
---
午後、出汁醤油を持って戻る。
寧々が受け取って、すぐ小皿に垂らす。色が違う。さっきより赤みがある。粘度も少し高い。
鯛を一切れ漬けて、引き上げる。卵黄を崩す。
一口食べた瞬間、寧々の手が止まった。もう一口。椀を持ったまま、動かない。
「……これ」
小さく言って、またタレに向かう。みりんの量を少し調整して、もう一回。一口。
椀を置く。
「決まった」
---
三日目。
朝から台所号の中で、寧々が動いていた。
昨日のタレを作る。醤油、みりん、酒。配合は昨日で決まっている。迷いなく合わせる。鯛を引いて、タレに漬けて、卵黄を崩す。一口食べる。
昨日と同じ味だ。でも、これで出すにはまだ足りない。
手を動かす。
何かを削る。削った瞬間、青い香りが跳ねた。甘い。鋭い。鼻の奥が一瞬だけ覚める。
タレに少し混ぜて、一口。強すぎた。鯛が後ろに引っ込んで、香りだけが口に残る。
量を減らす。一口。今度は消えた。鯛とタレと卵だけが戻ってくる。
刻んでみる。チ、チ、チ。粒が細かくなるたびに香りが跳ねる。飯の上に均一に散らして、一口。鼻の奥を、何かが抜けた。でも薄い。鯛の後ろに、かすかにいる。もう少しだけ前に出てほしい。
漬ける時間を変える。鯛の厚さも変える。散らす量と散らすタイミングも変える。一口食べるたびに、何かが少しずつ近づく。でも、まだ届かない。
何度も引く。何度も漬ける。何度も食べる。
椀が増えていく。
---
昼過ぎ、台所号に戻る。
扉を開けた瞬間、今までと違う香りがした。醤油の甘さの奥に、青い何かが混ざっている。でも喧嘩していない。どちらかが主張しすぎていない。
寧々が椀を持ったまま、窓の外を見ていた。動いていない。
「……決まった?」
寧々が振り返る。
「食べて」
椀を差し出す。受け取って、箸を持つ。
「何から食べる?」
「鯛から。黄身を崩してから」
卵黄を崩す。橙が広がって、タレと混ざってとろみが出る。白い飯の上に、薄い膜ができる。
箸で鯛を一切れ持ち上げる。光を通しそうなくらい薄い。透明に近い白だ。
口に入れる。
まず、タレの甘さが来る。出汁醤油の丸い甘さだ。それを卵のとろみが包んで、少しだけ重くなる。その奥から、鯛の味がじわっと出てくる。身が舌の上でほどける。噛むほど脂が出てくる。甘い。きれいな甘さで、どこにも引っかからない。するっと喉まで落ちる。
喉が、勝手に鳴る。
箸が次を探している。もう一口、鯛。また身がほどける。また脂が出る。また甘い。飲み込む前に米を挟む。鯛の脂が米粒に絡んで、甘さが一回り大きくなる。噛むたびに、脂と米の甘さが重なって、口の中がどんどん豊かになる。
もう一口、鯛。
そこへ——鼻の奥を、何かが抜けた。
甘い。青い。鯛の甘さとは違う種類の甘さだ。鯛より後ろにいて、主張しない。でも、確かにいる。鯛の余韻が消えかけたところに、すっと現れる。鼻の奥にしばらく残って、また一口食べたくなる。
箸が止まらない。鯛、米、鯛、米。口が勝手に回る。
気づいたら、椀の底が見えていた。
「……みかん……?」
寧々が、小さく笑った。
「正解」




