第7話② 宇和島鯛めし——ずっと食べたかったやつ
食堂は、小さかった。
暖簾が短くて、潜るというよりかき分ける感じ。中は四つテーブルで、壁に品書きが手書きで貼ってある。インクが少し滲んでいる。柱に、古い魚の写真が一枚だけ貼ってあった。
寧々が迷わず席に着いた。
「鯛めし、二つお願いします」
店の人が「はい」と返す。
俺は品書きを見る。刺身定食、煮付け定食、他にもある。でも寧々はメニューを見なかった。最初から決まっていた。
「念願の宇和島鯛めし」
寧々が言う。独り言みたいな声だ。俺に向けてるけど、どこか遠い。でも、いつもより少しだけ弾んでいる。
「宇和島の鯛めしって、もともと漁師めしやねん。宇和海って鯛が多い。一本釣りでも網でも、とにかくよく上がる。船の上って火が使えんから、その場で三枚におろして身を切る。小さい椀に醤油を入れて、そこに鯛の切り身を落とす。それをご飯にのせて食べる。もともとはそれだけ。」
「それだけで、うまいんか」
「うまい。鯛がええから」
「で、あとから卵が入るようになった。港に戻ると家に鶏がおる。」
寧々が手元の小皿を引き寄せる。指で卵を割るふりをするみたいに、少し手が動く。
「卵を落として、醤油と混ぜる。そこに鯛の身を浸けて、熱いご飯にかける。これが、今の宇和島鯛めし。」
「卵が入ったら、どう変わるん」
「丸くなる。タレだけやと鯛が前に出すぎる。卵が間に入ると、全部がまとまる」
少し間があって、寧々が続ける。
「火がなかったから、生まれた料理や。宇和島のはかけ飯」
店の奥から、包丁の音がする。出汁の匂いが、薄く漂ってくる。
俺は箸を二膳、並べた。
しばらくして、盆が来た。
寧々の手が、止まった。
白い飯から、細い湯気が立っている。炊きたてだ。その上に、薄く引いた鯛の身が並んでいる。透明に近い白で、朝の光みたいな色だ。その上に卵黄が橙の丸になって、静かに座っている。小皿にタレ。醤油とみりんの色。
寧々がじっと見ている。箸を持たない。まず、見る。
ずっと食べたかったものが、目の前にある。その顔だ。
少しだけ間があって、タレの小皿を引き寄せる。手が、いつもより少しだけゆっくり動く。
鯛の身をタレに漬ける。透明だった身の端が醤油の色を吸いはじめて、琥珀色が端から内側へじわっと広がっていく。漬けすぎない。色が変わりきる前に、引き上げる。
飯の上に戻して、卵黄を崩す。橙が広がってタレと混ざり、とろみが出る。鯛の身の周りに、薄い膜ができた。
寧々がもう一度だけ、椀を見る。色が落ち着くまで、待つ。
箸を持つ。
一口。
時間が、少しだけ止まった。
寧々が目を閉じる。ほんの一瞬だけ。それから、ゆっくり開ける。
「どう?」
俺が聞く。
「最高」
それだけ言って、また箸を動かす。でも、さっきより少しだけ速い。
「透明やろ、最初。それがタレに触れた瞬間に色が変わる。でも味は、まだ鯛のまま」
もう一口食べながら、続ける。箸が止まらない。話しながら食べている。珍しい。
「卵が絡んだら、とろみが出る。タレだけやと鯛が前に出すぎるけど、卵が間に入ることで丸くなる。火を入れてない。でも、生のままでもない。タレと卵で、変わってる」
俺も食べる。透明だった身が口の中でほどけて、タレの甘さが先に来て、卵のとろみが後から包む。鯛の味が、その奥から静かに出てくる。
喉が、勝手に鳴る。
寧々は頷かない。もう次の一口を食べている。声は出てないけど、その手が全部言っている。
飯が減っていく。底が見えてきた頃、店の人が小さな急須を持ってきた。
「出汁、どうぞ」
寧々が顔を上げる。
残った飯と鯛の上に、出汁をかける。湯気が立つ。さっきまでの琥珀色が、出汁に触れてゆっくり薄まっていく。タレと卵のとろみが出汁に溶けて広がり、色がまた変わる。
一口すする。
さっきまでの甘さが、出汁で薄まって軽くなる。鯛の味だけが、澄んで残る。口の中が、一回静かになる感じだ。
寧々が椀を持ったまま、少し考える顔をする。
「二段になってる」
「え?」
「最初は鯛とタレと卵。出汁をかけたら、全部が一回溶けて、鯛だけ残る。しらすのとき、満足のほうを上げるって言ったやろ。あれと同じ構造や。ここの人も、同じこと考えてたんかな」
それから、椀を両手で持ったまま、もう一口すする。急がない。名残惜しむみたいに、ゆっくり飲み込む。その顔が、やわらかかった。




