第5話③ 鰆の幽庵焼き ― 氷の下の鰆
──港についた。
鉄の匂いと、塩の匂い。
氷を掻く音が乾いて、指先が先に冷える。
白い息が、低く流れる。
寧々は歩きながら、箱の列を目で追う。
しゃがむ。近づきすぎない。手は出さない。
氷の下に、魚の背が見える。
濡れた皮に、朝の光が細く走る。
曇ってない。
「……いる」
寧々が小さく言う。
「何が」
「鰆」
「それ、分かるん?」
「背の色と腹の線。触らなくても分かる」
次の瞬間。
「並べてないで」
声が飛ぶ。
振り向くと、漁師が立っていた。
腕が太い。顔が固い。目だけ動く。
「店の分や」
売る気のない言い方。
俺は思わず一歩引く。
寧々は立ち上がって、頭を下げた。
「すみません。見るだけです。邪魔しません」
漁師は返事をしない。
寧々は箱から半歩下がって、視線だけで魚を追う。
俺が小声で聞く。
「見て分かるん?」
寧々は俺のほうを見る。ちゃんと説明する。
「今日は皮がいいか見てる。
鰆って、皮の下の脂がうまい魚やねん」
「皮の下?」
「うん。そこがちゃんと匂い持ってる日がある。
冷たいままやと閉じるけど、焼いたら立つ」
「開く?」
「焼いたら匂いが立つ。刺身より先に鼻に来る」
俺は腹を押さえる。
「刺身にしたらあかんの」
寧々は首を振る。否定しない。
「刺身もええよ。鰆は身が白くて、舌に当たるのがやわらかい。
噛んだら脂がすっとほどける。匂いもきれいに抜ける」
少しだけ間を置いて、続ける。
「だから悪くない。ちゃんとうまい。
でも今日は、焼いて香りを立てたい」
言い切ってから、少しだけ足す。
「皮を先に焼いて、香りを出す。
それに幽庵で、脂が重たならんように抜け道作る」
俺が聞き返す。
「幽庵って何」
寧々は俺に分かる言い方に変える。
「醤油とみりんに、柑橘の皮とか汁を合わせて漬けるやつ。
焼く前に、ちょっと香り入れる」
漁師が、ぶっきらぼうに言う。
「幽庵、やるんか」
寧々は大げさに笑わない。うなずくだけ。
「はい。今日はそれが合うと思います」
漁師が箱の氷を、がさっと払う。
「今日のは、皮がええ」
それだけ。事実だけ。
寧々は礼を押しつけない。
うなずいて受け取る。
少し間が空く。
寧々は一歩引いて言う。
「忙しいのは分かりました。いつなら声かけても大丈夫ですか」
漁師は手を止めない。
「並べる前は触らせん」
寧々はうなずく。
漁師は氷を払って、短く言う。
「卸し終わったらな」
それだけ言って、箱のほうへ戻った。
俺は息を吐く。
「……今は無理ってことやな」
「うん。朝一やからな」
寧々は歩き出す。
「後でもう一回行く」
「買えるかは分からんやろ」
「分からん。でも、確認はできる」
「確認?」
「刺身で一口。身の締まりと、脂の出方だけ」
俺は腹をさする。
「まだ入るんか、それ」
「一口や。確認やから」
寧々は振り返らない。
港の出口へ、歩いている。
迷いがない。
俺はため息をひとつ吐いて、ついていく。




