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平安もののけ奇譚〜嵯峨殿、知恵を貸してくれ〜

開けてはならぬ箱~平安もののけ奇譚~

作者: 緑山ひびき
掲載日:2026/01/29

 近衛(このえ)少将の父、東三条の右大臣。都の実力者だ。

 その政敵と言えるのは、粟田(あわた)の左大臣。


 その粟田の左大臣の邸、奥の部屋に「開けてはならぬ箱」があった。


 奥の部屋のさらに奥、天竺渡来の螺鈿(らでん)の文箱が、暗がりで淡く光っていた。


「開けてはならぬ」


 理由は言われていない。

 先ごろ主である左大臣がどこからか手に入れた、開けてはならぬ美しい文箱。家人は、言いつけを守って開けずにいればそれでよい。


 下働きの男が部屋の点検を終え、ふとその螺鈿の光に目を奪われた。

 貝が放つ淡い輝きに、視線が吸い寄せられる。


 灯の皿が揺れた。

 光が走る。箱の蓋の縁が、一瞬だけ浮き上がって見えた。


「開けてはならぬ」


 その言葉が脳裏をよぎる。

 だが、指が動いた。


 何が入っているのか。

 自分でも止められない。今まで、言われたことを破ったことはない。確かめるため――そう自分に言い聞かせる。


 蓋に、指先がかかった。


「少しだけ……」


 開けた。


 中には何もない。

 美しい内張が貼ってあるだけ。


 男が首をかしげる。


「……なにもない」


 失望と安堵が混ざって声が漏れる。


 また灯が揺れた。

 男ははっと振り返る。

 何もなかった。


 ほっとする。

 同時に、誰かが来る前に蓋を閉めなければと思い返す。

 文箱に向き直る。


 男の背に、灯りが揺れている。


 次の瞬間――動きが止まった。


 男の喉が鳴る。


 男は、その場に崩れ落ちた。

 膝から。音もなく。

 倒れるというより、糸を切られた人形のように力が抜けた。


 蓋が、床に落ちる。


 男は床に伏したまま、眼を開けている。

 焦点がない。


 文箱は、何もなかったようにそこにある。

 螺鈿の光だけが、静かに残った。


 箱の蓋は、いつのまにか閉まっていた。


 ⸻


 同じ夜、少し刻が進んだころ。


 倒れた男は発見され、奥へ運ばれた。

 気を失ったまま目を覚まさない。何が起きたかは、わからない。


 家司(けいじ)のひとりが倒れた部屋を調べたが、何も見つからず眉を寄せる。


「病いだったか」


 下働きの者に部屋の浄めを命じ、その場を離れる。


 命じられた下働きが、香の準備をしていて、ふと螺鈿の文箱に目を奪われた。

 開けてはならぬ箱。もしやこれが何か……。


 男は吸い寄せられるように近づく。


「開けねば、分からぬ」


 己に言い聞かせるように言い切った。


 指を伸ばす。

 蓋が浮いた。


 男は中を覗いた。


 ――何も見えない。


「なんだ……(から)か」


 息を吐いた。

 だが、吐いた息が白く見える気がして、男は眉を寄せた。

 夏の終わりだ。白くなるはずがない。


 そこへ先ほどの家司が戻ってきた。

 香の指示を出し忘れていたことに気づき、急ぎ足でやってくる。


 男は慌てて蓋を閉めようとした。


 ――手が、止まった。


 目が、箱に釘付けになる。


 喉が震えた。

 声にならない。


「――ひ」


 部屋に入った家司も見た。


 男の恐怖に歪んだ顔。

 螺鈿の文箱から立ちのぼる、黒く長い髪と白い背中。


 首だけが長く伸び、下働きの男に近寄っていく。


 次の瞬間、男は倒れた。

 肩が床を打つ。


 箱からせり上がる背中は、人の形をしている。

 けれど、足がない。

 衣の裾もない。

 首だけが、長い。

 ほどけた紐のように伸びている。


 家司の喉から、叫びが漏れた。


「――っ!」


 音が出たのか出ていないのか分からない。


 家司は腰を抜かした。

 立てない。

 必死に畳を掻いて向きを変えた。袖が擦れ、膝が痛む。


 這って逃げた。


 振り向けない。

 ただ這い続ける。


 やがて声が出た。


「だ、誰か……誰か――!」


 人が集まる。

 家司の様子に、ただ事ではないと誰もが感じる。


 部屋には倒れた男がいる。

 汗が冷たい。眼が開いたまま動かない。


 家司が震えながら言う。


「箱……開けてはならぬ箱……」


 螺鈿の文箱の蓋は、開いたままだった。


 下人が呼ばれて、蓋を閉じた。

 開かないよう飾り紐が結われ、さらに布で包まれた。


 ⸻


 翌日。


 粟田の左大臣の部屋。

 ゆうべの家司が、まだ震える声で語り始める。口の端が乾いている。


「……例の『開けてはならぬ』螺鈿の箱にて。夜、人が倒れました」


 家司は続ける。


「ひとりは意識が戻らず。ひとりは……生死が判じませぬ」


 左大臣は扇を開いたまま、動かさない。

 扇の骨の影だけが、ゆっくり揺れる。


「誰が見た」


 左大臣が問う。声は淡い。


「私が……。ただし、顔は見ておりませぬ。後ろ姿だけ」


 家司は思い出したくないが、なんとかそのときの様子を語った。


 すべて聞いた左大臣は、扇の陰で口元だけを動かした。


「……面白い」


 家司の背筋が粟立つ。


 左大臣は思い浮かべた。

 螺鈿の光。開けるなという言葉。倒れた者。

 そして――都の構図。


 東三条の右大臣。

 あの男は、いつも正しい顔をしている。正しい顔をして、都の中央にいる。

 娘は帝に入内している。いつ御子を生すかわからぬ。

 息子、近衛少将――若いくせに、御前で余計なことをする。余計なことをして、褒められる。


 左大臣の扇が、ぱた、と閉じた。


「六条の宮様へ参る」


 左大臣が言う。

 六条の宮は皇太弟、帝の弟君だ。左大臣の娘が入内している。


「箱の話をする。――ただし」


 左大臣は家司を見た。


「昨夜のことは、我が邸のことではない」


 家司は息を呑んだ。

 理解した。理解してしまった。


「……宮様の邸で、起きたことに」


 家司が言いかける。


「そうだ」


 左大臣は淡々と言った。


「六条の宮様の邸で、人が倒れた。開けてはならぬ箱のせいで、な」


 左大臣の扇が、かすかに揺れる。


「箱は宮様から預かったものだ。――我が邸では、何も起きておらぬ。宮様が帝へ献上なさるおつもりだったが、危ういと聞き及んだ。ならば東三条の右大臣に見せるがよい、と進言する」


 家司の顔が青ざめる。


 左大臣は続けた。


「箱は、開けてはならぬ。だが、だからこそ、帝は"見たい"と仰る。――都はそういうものだ」



 午後の遅い時刻。

 六条の宮の屋敷は、笑い声が多い。

 笑う者が多いというより、笑って見せる者が多い。笑いが武器になる場所だ。


 東三条の右大臣は呼び出され、座に着いた。

 向かいに皇太弟(こうたいてい)六条の宮がいる。粟田の左大臣は少し後ろに控えている。

 控えている顔をしているが、この場を作ったのは粟田殿だろうと右大臣は考える。


 六条の宮の前に、布で包まれた箱が置かれていた。

 螺鈿の光が、布越しにも淡く滲む。


「右大臣」


 六条の宮が言った。

 声には甘さがある。甘さは刃だ。


「天竺より渡った逸品だ。たいそう美しい。――だが開けてはならぬとだけ言われておる」


 右大臣の眉が、ほんのわずか動く。

 驚きではない。嫌な匂いを嗅いだ動きだ。


「開けてはならぬものを、なぜこちらへ」


 右大臣が問う。

 声音は平らだ。平らにしなければならぬ場所だ。


 六条の宮は笑った。


「主上がな」


 宮は軽く言った。


「中が見たいと仰る。――ああ、これは命令ではないぞ。主上の"興味"だ」


 右大臣の目が、僅かに細くなる。

 興味は命令だ。興味は人を殺す。


 六条の宮は続けた。


「この箱、どうも怪しげでな。高僧にも陰陽師にも見せたが、皆、開けるなと言うばかりだ」


 宮は扇を弄びながら、さらりと言った。


「だが、そなたの家には、先日御前で活躍した近衛少将がおるではないか。勇の心のある若者だ。――そなたの縁戚に、腕の立つ陰陽師もいたな。嵯峨野に籠っているとか」


 右大臣は左大臣を見なかった。

 ここで視線をやれば「疑っている」「争っている」と都が噂にする。


「……仰せのままに」


 右大臣は言った。

 それが返事になることを、六条の宮は知っている。


「明朝だ」


 宮は薄く笑った。


「御前へ。そなたが持て。――そなたの名で持てば、主上も安心なさる」


 安心などない。

 右大臣の心には、もう一つの言葉が刺さっている。


 「開けるな」と言われたものでも、御前に出れば話が変わる。

 主上の「見たい」は、断れない。


 右大臣は考える。


 箱を開けたら、おそらく何かが起こるのであろう。

 開けて御前で何ごとかが起きれば、それは右大臣の責任となる。

 開けなければ、帝の思し召しに背くことになる。


 粟田の左大臣の策略に違いない。


 右大臣は座を辞し、屋敷へ戻るとすぐに使いを走らせた。


 ――少将を呼べ。


 ⸻


 夜。

 近衛少将は、父の邸へ呼ばれて来た。


 東三条。

 右大臣と呼ばれる家の重さが、そのまま庭にある。


 父は座にいた。

 目は疲れていない。疲れを見せぬ目だ。


実弥(さねみ)


 父が、少将の(いみな)を呼んだ。

 いつもは呼ばない。呼ぶときは、深刻な話と決まっている。


 少将は背筋を伸ばした。


「はい」


 父は箱を示した。

 布に包まれた箱だ。文箱のようだ。


「螺鈿の文箱だ。六条の宮様から預かった。――"開けてはならぬ箱"だそうだ」


 父は続ける。


「明朝、御前へ持つ。時間がない」


 父の声が低くなる。


「六条の宮様の無茶だ。――断れぬ」


 少将は布越しの光を見て、息を置いた。

 これは、厄介だ。

 そう思うのに、手は伸びそうになる。


「開けてはならぬと」


 少将が言う。


「主上は、開けずともよい、とは仰る。だが"見たい"と」


 父は淡く言った。


「お前が、御前で為したこと。あれは立派なことであった。――だがそれが、次を呼ぶ」


 少将は唇を噛んだ。

 父の言い方は責めではない。都の仕組みを教える言い方だ。

 だからこそ、背が冷える。


 父はこれまでに調べたことも含め、少将に語って聞かせた。

 聞き終わって、少将は頷く。


「嵯峨野へ行きます」


 少将は言った。言い切った。


「嵯峨殿に見てもらう」


 父の目が少将を捉えた。


「粟田殿は、嵯峨殿も巻き込もうとしている」


 父が言う。


 少将は、短く頷いた。


「はい」


 父は頷かない。

 だが、許したと分かる目だった。


「口の堅い者を付けろ」


 父が言った。


「そして……踏み込みすぎるな」


 少将は息を吐いた。

 父の言葉が、嵯峨殿の言葉とどこか似ている。


「……はい」


 ⸻


 満月だった。


 牛車は都の音を背にして走った。

 車輪が砂利を噛む。夜の匂いが濃い。


 少将は布に包んだ箱を膝に置き、指先で結び目を確かめた。

 ほどけない。


 竹丸が向かいにいる。

 顔が青い。


「少将様……その箱は」


 竹丸が言いかけて、言葉を飲み込む。


「言うな」


 少将は短く言った。


「口に出すな。――口に出すと、都が拾う」


 竹丸が頷いた。

 少年の頷きは素直だ。素直なほど、折れにくい。


 嵯峨野の山影が近づく。

 山荘の門は閉じていた。


 名を告げる前に、内側で戸が擦れた。

 家人が無言で開け、脇へ退く。


 座に通される。

 沈香の匂いと墨の匂い。いつもの匂いだ。

 それだけで、少将の胸の奥が少し緩むのが分かった。


 嵯峨殿は座にいた。

 長い黒髪を後ろで束ねただけの痩身。切れ長の目。姿勢が崩れない。


「よく来た」


 嵯峨殿はそれだけ言った。


 少将は布包みを座の端に置いた。


「嵯峨殿。知恵を貸してくれ」


「話せ」


 嵯峨殿は短く言う。


 少将は説明した。

 六条の宮の無茶。明朝の御前。開けてはならぬと言われる箱。左大臣の影。

 そして――昨夜、左大臣邸で倒れた者が出たらしいこと。目撃者が這って逃げたこと。


 嵯峨殿は途中で眉ひとつ動かさない。

 話し終えたあと、布包みへ視線を落とした。


「開けるなと言われたのか」


「ああ」


 少将は頷いた。


「だが御前だ。開けずに済むと思うか」


 嵯峨殿は頷かない。

 ただ、淡い声で言った。


「その箱は大丈夫だ」


 少将は息を止めた。

 止めた息が、やっと落ちる。


「……なぜ分かる」


「気配が薄い」


 嵯峨殿は言った。


「薄すぎる。――空だ」


「空、とは」


 嵯峨殿は少将を見た。

 今度は肩の奥ではない。顔を、真正面から。


「抜けた後の、空だ」


 嵯峨殿は言った。


「……では、御前で開けても」


「問題ない」


 嵯峨殿は言い切った。


 少将は唇を噛んだ。

 ここで安心してしまう自分が怖い。


 嵯峨殿は、少将の袖口へ手を伸ばした。

 乱れた結び目を一度だけ直す。いつもと同じだ。動作は短い。指先が冷たい。


「安心はするな」


 嵯峨殿が言った。


「大丈夫でも、安心はするな」


 少将は眉を寄せた。


「矛盾だ」


「矛盾ではない」


 嵯峨殿は淡い声で返した。


「開けるなと言われた箱ほど、開けさせたがる」


 少将は笑えなかった。

 止めるほど、人は触りたくなる。


 少将は息を吐いた。


「……嵯峨殿。ありがとう」


 嵯峨殿は黙って頷いた。

 

 少将は、ふと思い出した。


「六条の宮が、お前の名も出したそうだ」


 嵯峨殿の目が、わずかに動く。


「……そうか」


「粟田殿は、お前も巻き込もうとしている」


 少将が言うと、嵯峨殿は淡く答えた。


「私は、粟田殿に嫌われているからな」


 少将は眉を寄せた。


「なんでもないように言うな」


 嵯峨殿が少将を見る。


「なんでもない」


「なんでもなくはない」


 少将の声が、珍しく強くなる。


「自分自身のことになると、お前は雑だ」


 嵯峨殿は目を細めた。

 否定しない。否定しないことが、肯定だ。


「……お前が心配するな」


「心配する」


 少将は言い切った。


「心配するに決まっている」


 嵯峨殿は何も言わなかった。

 ただ、視線を硯に落とした。


 少将は、それ以上は言わなかった。

 言っても、嵯峨殿は聞かない。聞かないふりをする。


 だが、嵯峨殿のきついまなじりが、ほんの少しだけ緩んだのを、少将は見た。



 明朝。


 御前へ向かう廊は、人が多い。

 けれど声は低い。声を低くすることで、場の格を作る。


 東三条の右大臣と少将は、その中を進んだ。


 布に包んだ螺鈿の箱は、少将が自ら抱えている。

 父は横を歩く。歩幅が揃う。


 清涼殿。

 御簾の向こうに帝がいる。姿は見えぬ。声だけが場を支配している。


「例の箱か」


 帝の声が落ちた。


「はい」


 右大臣が答える。


「天竺の螺鈿の文箱にございます」


 少将は布を解いた。

 螺鈿の光が、御前の灯を拾う。

 貝の光は夜の月と違う。昼の光に混じり、薄く笑っているように見える。


 帝は一拍置いた。


「見事だ。開けてはならぬものと聞いた。開けずともよい」


 帝が言う。

 その言葉で場が息を吐く。


 だが、続けて帝は言った。


「――だが、見てはみたい」


 言い方が柔らかい。

 柔らかいほど、命令だ。


 少将の指先が冷える。

 嵯峨殿の「大丈夫」が、胸の奥で音になる。


 右大臣が少将へ視線を落とした。

 少将は頷いた。頷くしかない。


 少将は蓋に手をかけた。


 ――開ける。


 自分の手が、自分のものでないように感じる。

 それでも、嵯峨殿の言葉が、背を押す。


 蓋が開いた。


 場が止まる。

 扇が止まる。衣擦れが止まる。


 そして――何も起きない。


 中には、美しい布が張られていた。

 暈繝錦(うんげんにしき)の色の移ろい。


 香はない。血もない。息もない。


「近くに」


 少将はお付きの者に文箱を渡す。

 御簾の向こうで、帝が文箱を見ているらしい。


「よい」


 帝が、おおらかに笑った。

 その一語で、場が戻る。


「六条に、礼を申せ」


 人は現実の手順へ戻る。褒め言葉が交わされる。

 右大臣は面目を保つ。少将は息を吐ける。


 父の声が低く落ちた。


「よく収めた」


 少将は「はい」と答えた。

 安堵と、でもまだどこかに冷えが残っていた。


 ⸻


 夜。


 粟田の左大臣は、自邸に戻っていた。

 薄い顔で濃いことを考える。


 右大臣は、箱を開けて無事だったという。

 帝はたいそうお喜びだったと。


 ――ならば、箱は"ただの箱"だったのか。


 左大臣は扇を閉じた。

 苛立ちは表に出さない。苛立ちを表に出す者は二流だ。


 左大臣は廊を歩き、奥の部屋へ入った。

 そこには幾つか箱が置かれている。折にふれ、集めた品々だ。

 文箱、小箱、香の箱――いずれも雅だ。いずれも、開けてよい箱だ。


 左大臣は、そのうちのひとつへ手を伸ばした。


 派手ではない。

 けれど、手がかかっている箱だ。漆の艶が深い。蒔絵(まきえ)の金が、灯の中で沈む。


 左大臣は、蓋に指をかけた。

 一瞬ためらった。


 (なぜ開けたくなったのだ。だが、開けるなと言われた箱ではない)


 指先に軽く力を入れた。

 蓋が、すっと上がった。


 左大臣は覗いた。


 何もない。

 そう見えた。


 布が敷かれているだけだ。綺麗な内張。

 手入れの行き届いた――香り。


 香ではない。

 湿り気の匂いだ。


 左大臣は眉を寄せた。

 鼻の奥がひくりとした。


 そして――箱の中で、何かが動いた。


 布ではない。

 影だ。

 影が、影の形を変える。


 箱の底から、頭が現れた。


 首が伸びてくる。

 蛇のようにうごめいて伸びる。


 肌は白い。

 髪は黒く長い。


 目がない。

 鼻もない。

 頬の起伏もない。


 ただ――口だけがあった。


 唇は薄い。

 笑っていないのに、笑っている形に見える。


 口が、開いた。


 中が暗い。

 暗いのに、湿っているのが分かる。

 舌が、ゆっくり動く。


 左大臣の喉が鳴った。

 声にならない音が、口の奥で砕ける。


 扇を振ろうとした。

 振れない。

 腕が動かない。

 身の力が抜ける。


 のっぺらの頭が、寄ってくる。


 首が伸びる。

 止まらない。

 距離が縮まる。

 逸らせない。


 口が、左大臣の頬に触れた。


 息がかかる。

 湿った息。生温い。


 そして――


 ぺろり。


 何かが頬に触れた。


 舌だ。

 舌の感触が、皮膚に残る。

 ぬるり、と線が引かれる。


 左大臣の目が見開かれた。

 叫びたかった。

 叫べない。

 声が出ない。


 声が出ないのに、口の中だけが動く。

 助けを呼ぶ形を作る。

 音がない。


 左大臣の膝が折れた。

 貴族らしい折れ方ではない。

 力が抜けて落ちた。


 箱の蓋が――


 ぱちり。


 閉まった。


 閉まる音は小さい。

 小さいのに、邸の空気がそこで切れた。


 ⸻


 翌日から、粟田の左大臣は人前に出なくなった。

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