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第五章 前夜

 荷物は、最小限だった。


 あかねは、バックパックを床に置き、口を閉める。

 入れたものは、数えられる。


 手袋。

 ロープ。

 簡易食。

 それから——


 何も書いていないノート。


 持っていく理由は、ない。

 置いていく理由も、ない。


 夜の部屋は、静かだ。


 窓の外で、車の音が遠ざかる。


 ——明日、山に入る。


 それだけのことなのに、

体の奥が、少し重い。


 怖い、とは違う。


 あかねは、床に座ったまま、目を閉じる。


 夜間警備。

 落ちかけた天井。

 止まった一歩。


 ——止まれる。


 その感覚が、確かにある。


 一方、九条さとしは研究室にいた。


 最後の確認。

 計測機器。

 書類。


 やることは、まだある。

 だが、手は早く動かない。


 窓に映る自分の姿を見る。


 若い。

 だが、時間が足りない。


 ——焦るな。


 言い聞かせる。


 だが、焦りは言葉で消えない。


 机の端に、封筒がある。


 大学からの、事務連絡。

 成果報告の期限。


 九条は、裏返した。


 今は、見ない。


 スマートフォンが震える。


明日、いつも通りでいいです。


 あかねからだった。


 余計な言葉は、ない。


了解しました。


 九条は、それだけ返す。


 研究室を出る前、

彼はルーン文字の写しを見る。


 紙の上では、ただの形だ。


 だが、知っている。


 ——触る順番。


 車いすのブレーキをかける。


 深く、息を吸う。


 逃げない。

 急がない。


 それが、決意だった。


 夜は、静かに更けていく。


 それぞれの場所で、

二人は同じことを考えていた。


 ——壊さない。


 それだけを、持って。

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