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第四章 止まる手

 山に入る前日。


 研究棟は、夜でも明るかった。


 動木あかねは、搬入口で立ち止まる。

 中から、物音がした。


 ——まだ、帰ってない。


 ドアをノックする。


「失礼します」


 返事はない。


 中に入ると、九条さとしが一人でいた。

 机の前。

 書類の山。


 手が、止まっている。


「先生」


 九条は、顔を上げる。


「ああ……動木さん」


 声が、少し遅れて届いた。


 あかねは、近づかない。

 距離を保つ。


「準備、終わりました?」


「……ええ」


 言葉と、手元が合っていない。


 九条の指は、紙の端を掴んだまま、動かない。


 ——今だ。


 そう思った。


「先生」


「はい」


「今日は、もう触らないほうがいいです」


 九条は、眉を寄せる。


「理由は?」


「止まってるから」


 九条は、自分の手を見る。


 しばらくして、ゆっくり離した。


「……気づきませんでした」


「疲れてます」


「そうですね」


 否定しなかった。


 あかねは、机の端に立てかけてあった杖を見る。

 使われていない。


 ——無理してる。


 車いすのブレーキが、きしんだ。


 九条は、視線を落とす。


「現場に出ると、足が気になる」


 ぽつりと漏れた言葉。


「遅れる。

 判断が遅れる」


 あかねは、首を振った。


「遅いのは、悪くないです」


「……研究では、致命的です」


「壊れるより、いいです」


 即答だった。


 九条は、何も言わなかった。


 ただ、書類を閉じる。


 あかねは、それを確認してから言う。


「先生」


「はい」


「私、先生が止まったら、止めます」


 九条は、少し驚いた顔をした。


「逆では?」


「同じです」


 あかねは、淡々と言う。


「順番ですから」


 九条は、深く息を吐いた。


「……頼もしいですね」


「仕事です」


 研究棟を出る。


 夜風が、少し冷たい。


 歩きながら、あかねは思う。


 九条さとしは、弱くない。

 でも、止まれない人だ。


 だから、止める役が必要だ。


 それを、引き受けた。


 恋ではない。

 尊敬でもない。


 ——役割だ。


 それで、十分だった。

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