第一章 夜のキャンパス
夜の大学は、音が少ない。
遠くで自販機が唸り、風が木の葉を鳴らす。
動木あかねは、懐中電灯を低く構えた。
走らない。
急がない。
夜間警備の仕事で、一番先に覚えたことだ。
古い研究棟の裏手。
立入禁止の札が、風で揺れている。
「……」
あかねは、足を止めた。
理由はない。
ただ、今じゃない。
一歩下がる。
床が、かすかに軋んだ。
——ほら。
次の瞬間、天井の一部が崩れ落ちた。
もし進んでいれば、直撃だった。
「……セーフ」
誰に言うでもなく、呟く。
ペンを取り出す手に、学生証が当たった。
昼は講義、夜は警備——それが、今の生活だった。
記録用紙に、赤で印をつける。
危険箇所。
それだけ。
仕事は、静かだ。
派手さも、評価もない。
でも、壊れない。
警備室に戻る途中、研究棟の一室に明かりが点いているのに気づいた。
——こんな時間に?
ドアは、半開きだった。
「失礼します」
返事はない。
中には、車いすの男がいた。
若い。
思ったより。
机の上には、奇妙な文字が広がっている。
「……ルーン?」
男が、顔を上げた。
「知っているんですか」
「名前だけ」
あかねは、正直に答えた。
「見回りです。ここ、夜間使用の届け、出てません」
男は、少し困ったように笑った。
「すみません。時間を忘れていました」
あかねは、床を見る。
散らばった資料。
重ねられた古文書。
——雑。
でも、乱暴じゃない。
「片づけたら、鍵かけてください」
「はい」
あかねは、ドアを閉めかけて、ふと思った。
「……それ、急がないほうがいいですよ」
男が、眉を上げる。
「なぜ?」
「今、触る順番じゃないです」
説明はできない。
する気もない。
男は、しばらく黙ってから言った。
「……興味深い」
あかねは、軽く会釈して立ち去った。
背後で、男が小さく息を吐く音がした。
夜のキャンパスは、相変わらず静かだった。
だが、何かが動き始めていた。




