一炊の風
わたしがその場所にたどり着いたのは、いくつもの偶然が重なった結果に過ぎないと思っていた。青空を背景に山々が並び、手前の砂利だらけの広場に佇む自動販売機。静止画か、不意に撮られた一枚の写真のように空気の流れも感じさせない様子で脳裏に焼きついている。本当にその場面をわたしは見たのだろうか。それとも思い出そうと記憶を掘り起こすたびに、自分の理想を足してしまった結果なのだろうか。
今日もそれは、どこか青い空のもとで降り注ぐ陽光に晒され、訪れる誰かを辛抱強く待ち続けているのだろう。余計な励ましもお節介なアドバイスもせず、救いを必要としている人を出迎えてくれているに違いない。
座った姿勢での睡眠で背中や腰が強張り、わたしはすでに一時間前から目を覚ましていた。周りの人を起こさないよう注意しながら、体をひねったり、伸びをしたり、首を回したりして、どこかに不具合が生じていないかチェックし、血液が滞りなく隅々まで巡るよう手助けをする。
深夜バスはすべての窓にカーテンが引かれていたが、波打つ隙間からは青白い光がこぼれている。夜明けが近いのだろう。裾を捲りこっそりと外の様子を伺ってみる。夜明け前の暗さは、夜の闇とは違い、希望に満ちていて美しく、それゆえに酷く自分が惨めに思えてくる。
なぜ、夜は明けていくのか。なぜ、闇の中に留まることが許されないのか。光を浴びてしまったら、隠していた事実が、頬にできてしまったシミと同様明るみになってしまう。どんなに上からファンデーションで厚塗りしても、そこにあることには変わりがないのだと知らしめられる。
そんなことを考えながら、何度目かにカーテンを捲った時、ちょうど地平線から朝日が顔を出し始めていた。その頃になって、わたしはバスがちっとも進んでいないことに気がついた。小気味よいバスの揺れを体感し、順調に走行しているものだと錯覚していたようだ。どこか先の方で事故でも起こったのだろうか。慎重に進むバスの様子から、ただ事ではない何かが発生しているのだと予想はできたが、救急車やパトカーのサイレンが聞こえてこないのだから、人命に関わるような緊急性はないのだろう。
すでに乗客のほとんどが目を覚まして、もぞもぞと活動を開始し始める。誰からともなくカーテンを開け、生まれたての清々しい朝日を車内に取り込む。到着予定の時刻が過ぎ、運転手からの到着のアナウンスを待っているが、まだ冗談を言い笑い合えるくらいに気持ちに余裕がありそうだった。
渋滞の正体が何なのか原因がわからないままのろのろと揺られ、すっかり脳が目覚めてしまうと、空腹から目を背けるのが難しくなった。天気は申し分なかったが、長時間のドライブの終わりが見えず、明けたばかりの無垢な空より、排気ガスで汚染された灰色の道路の先が気になる。乗客はまばらで席の間隔も開いていたため、様子を伺い知ることはできないが、カーテンの開かれた席に人がいるのだということだけはわかった。乗車した時も座席番号ばかり気にしていたが、どうやらぐずりだすような年齢の子は乗っていなさそうだ。ただ、座席のあちこちから漏れるため息で、バスの中は濃度の高い疲労感で満ちていた。
わたしは食べる予定だった駅前の喫茶店のモーニングセットを思い浮かべながら、仕方なく持ってきていたナッツを一粒ずつ口に放り込んだ。奥歯で嚙み砕かれる音が、骨を伝ってやけに大きく聞こえる。やがてナッツの袋が空になったころ、どうやらトラックの荷台から積んでいたものが散乱したのが渋滞の原因だと判明した。路肩に停められたトラックの横を通り過ぎる時、一瞬だけ運転手らしき男性が光る何かを両手に抱えているのが見えた。彼は一人で回収作業に取り組んでいた。同乗者はいないようだ。気の毒だとは思ったが、わたしに手伝えることはなさそうだった。追い越した時には優越感さえ感じていた。これでやっと一人旅を満喫できる。今からなら遅れを取り戻せるかもしれないと、この時はまだ信じて疑わなかった。すぐにでも歩き出せるようにと、靴を脱いで膝を抱えた格好でふくらはぎを揉み、旅のスタートへと備える。
一人旅に出掛けるのは二度目だった。一度目は半年前、浄水器の会社の営業をしていた時に計画したものだ。もともと初めてのボーナスで離れて暮らす母を温泉に招待する予定だったのだが、急遽一人旅に名目を変更することになる。毎年、母の誕生日には二人でお祝いをしていたので、今年も予定を開けてくれているだろうと、内密に準備を進めていたのがいけなかった。わたしはそこで、大事な話を母に打ち明けるつもりでいた。
慣れない仕事の合間を縫っては、密かに母好みの趣のある宿を(当然、部長や先輩方にばれないように)時間をかけて下調べを重ねた。下調べをしている間だけ仕事のストレスから解放され、生きている心地がしたものだ。もともと希望していた職種ではなく、不向きなのは承知の上だったが、応募した会社はご縁に恵まれず、早く母のもとから巣立って一人で生活する目標を叶えるためにわたしはかなり焦っていた。そうして見つけたのがこの職場で、当時のわたしには最善の選択だったのだ。
宿の雰囲気はもちろん、出てくる料理の品数や調理法、部屋の窓からの眺望、敏感肌の母のためにアメニティーのメーカーに至るまで電話で問い合わせる徹底ぶりで、これ以上ないという条件の宿を予約した。そうしてすべての準備が整ったところで、わたしは母に電話をかけた。旅行の日程は、ちょうど母の五十回目の誕生日、当日出発の一泊二日。これが最初で最後の旅行になるだろうという予感していた。
いつもなら三度目のコールくらいで出る母だが、この日、十回のコールを過ぎても呼び出し音だけが鳴り続けていた。想定外の事態にコールを終えるタイミングが掴めず、わたしは長い事震えるように響く音に耳を澄ましていた。いい加減諦めて電話を切ってみたけれど、すっかり鼓膜に貼りついたコール音がいつまでも頭の中で鳴り続けていた。
具合が悪くて廊下で倒れているのだろうか。それとも買い物に出たときに事故に巻き込まれでもしたのか。つい悪い想像ばかり働く癖は幼い頃から抜けなかった。トイレがお風呂にでも入っているのだろうと、意識して楽観的な思考に切り替える必要があった。気が付けばすぐに折り返してくるに違いないと待ってはみたものの、その日、母からの電話がかかってくることはなかった。ようやく連絡がついたのは、翌日のお昼休憩の時間だった。
その日もノルマを達成できそうにないと諦めムードでベンチに重い腰を下ろし、コンビニで購入してきたおにぎりを手にしていた。あたりには同じように昼食に訪れているOLらしきグループや散歩に訪れた年配のご夫婦、買い物帰りの主婦が幸福で満ちた表情で歩いている。自分だけが切り離された空間で生活しているような、心細さと違和感を抱えている。食欲はなく、それでもこの作業を終わらせるためにと一口齧る。食べるというより詰め込む作業に近かった。次のアポイントまで時間がなく、まともな昼食も摂れない。眠れない日々も続き、ほとんど放心状態のわたしを現実に引き戻す着信音が聞こえた。
「電話出られなくてごめんね」
母の口ぶりから、体調が悪いわけではなさそうだと察しがつき、それだけで安堵した。秘密の計画をやっと伝えられるうれしさに、さっそく話を切り出す。
「あのね、今年の誕生日なんだけど」
わたしは食べかけのおにぎりを持った手で鞄を探り、予約した宿のパンフレットを取り出す。営業先で自社の紹介パンフレットを出す時よりも素早く、スムーズな手つきで広げてみせる。けれど広げた途端風に煽られ、隣のベンチまで飛んでいく。席を立ち、携帯電話とおにぎりを持ったまま走る。わたしに寄りかかっていた鞄が、支えがなくなってひっくり返り、仕事の書類が次々と地面に散らばる。この時点でわたしの心はすっかり打ちのめされていたというのに、さらに追い打ちをかけるような母の言葉が続く。
「実はね、お母さん、大切な人ができてね」
一瞬、何を言われたのか分からず、思考も動作も停止した。ただ、これ以上遠くへ飛んでいかないようにと、パンフレットだけはしっかり靴底で踏みつけていた。
「誕生日にね、一緒に出かけようって誘われたのよ」
母の声は恐る恐るといった慎重さで耳に届いた。きっと、これを話すべきか一晩悩んだのだろう。すぐさま思考を切り替え、短く息を吸う。
「そっか。よかった」
出た言葉は本心だった。父が亡くなってもう十二年も経つ。その間、母に異性の影は一度だって感じなかったのは、わたしに気を遣っていたからではないかと後ろめたく思うことがしばしあった。
母はしばらく相手の人について丁寧に説明してくれた。出会う前の状況から、出会って知り合いの期間があったこと、友人と言える関係になったこと、お互いが意識し始めたこと。
「まあ、大人同士だから、付き合うっていうのとは違うんだけどね。あなたも今更お父さんなんて困るでしょうし」
母は遠慮がちな口調で言った。
「そんなことないよ」
それ以上適切なセリフが思い浮かばなかった。わたしは飲みこんだ計画を消化するために嘘をつくしかなかった。
「でも、ちょうどよかった。今年時間作れそうになくて。寂しい思いさせちゃうかと思って」
「そう。心配してくれてありがとう。あなたも無理しないでね」
二言三言、言葉を交わしてわたしたちは電話を終えた。パンフレットを拾いベンチに戻っても、散らばった資料たちを拾い集める気力は残っていなかった。かろうじて手にしていた砂のついたパンフレットを見つめ、ここまで費やした時間が走馬灯のように思い返される。
もし、わたしが正直に自分の立てた計画のことを話したら、母はどうしただろう。できたばかりの恋人の誘いを断ってわたしを選んでくれただろうか。その際に、わたしは恋人と一緒に過ごすべきだと母を説得できただろうか。そんなくだらないことを考えてから、自分の大事な話を告げるきっかけを完全に失ってしまった重要さに力が抜け、ベンチに座り込む。
表紙に構える宿の外観と、一枚板に揮毫された宿の名前の立派さに恐縮し、今更キャンセルなどできるわけがないと、結局わたしは一人でその宿へ向かうことを決めた。そして当日、出迎えてくれた宿の方に、一人体調不良で来られなくなったとそれらしい理由を述べ、料理を一人分に変更してくれるという心遣いも断り、二人分の懐石料理を平らげた。翌日は夜遅くまで観光して、夜行バスで帰宅するはずだったがそれはキャンセルし、まだ日の明るいうちに新幹線で帰ってきた。その判断は正しかった。夜には宿で食べた二人分の食事が仇となり、酷い腹痛で苦しむことになったからだ。
結局翌日から二日間、腹痛で仕事を休んだ。わたしは膝を抱える格好で、毎朝上司が出勤する前に職場に電話をかけた。比較的やさしい事務員の女性に対応してもらうためだった。
事務員という名は彼女のためにあるのではないかというくらい事務的な声のトーンでこちらの用件だけを聞いてくれる物静かな人だった。仕事は的確で素早く、上司からの信頼も厚かった。質問はしてこないし、嫌味を込めて聞き返してくることもない。興味がないのか、ただただ忙しいのか、自分の業務に忠実な素晴らしい人材なのだと思う。「承知いたしました」と抑揚のない彼女の返答を聞くことがこんなにほっとするとは思わなかった。
三日目には腹痛は治まっていたものの、出勤すると考えただけで胃痛が起こり、ベッドから起き上がることさえ困難になった。キリキリと締めつける痛みは背中の方まで広がり、やむなく電話をかける。予め録音されていた音声を再生したような事務員の彼女の声を聞き、わたしは縋るように事情を説明した。休みの理由が腹痛から胃痛に変わったことに気づいた彼女は、すぐには「承知しました」とは言ってくれなかった。痛みに気をとられて聞き逃したのかと思ったが、そうではない。実際には隣にいないのに、耳元で彼女の気配が燻り、やがてため息交じりに言った。
「それはあなたの細胞が悲鳴をあげてるんです」
「細胞? 悲鳴?」
わたしは訳も分からずに彼女の言葉を切り取って頭の中で反芻する。
「耳を傾けてあげてください」
芯の通った彼女の声は、わたしの背中の痛んでいる部分に直接触れるようにあたたかかった。彼女の言葉が後押しとなり、数日後、わたしは体調不良を理由に退社した。辞表を提出した時、部長は「ボーナスをもらって辞めるなんて詐欺みたいだな」と悪態をつき、先輩方は冷ややかに笑った。それが原因でわたしは働いてお給料をもらうことに後ろめたさを感じるようになった。自分はちゃんと、貰った金額分の労働をしたのだろうか。詐欺という言葉が重くのしかかり、一ヶ所に留まって就業する気になれず、その後は派遣会社に登録して、毎日違う職場に出向いて働くことにした。
そこも今は休職し、予想外にも二度目の一人旅に出ることになる。
渋滞から抜け出し、バスから降りた乗客たちは、まるで人質から解放されたような安堵と疲弊の混じった笑みで、ほんの一瞬だけ目くばせをした。そこにはお互いを労わるやさしさがあり、その仲間に含まれていることがなんだか誇らしかった。もともと人付き合いの苦手で一人で行動することが多いわたしだが、決して人が嫌いなわけではなく、その場限りの会話はわりと楽しめる方だった。たまたま同じ深夜バスに乗り合わせただけの、スーツ姿の男性や、ずっと手をつないだままのカップルや、就活帰りのような学生との別れが、まるで戦友との決裂のようで寂しくもあった。知り合いでもなく、その後の付き合いが継続しないと理解しているからこそ抱く感情なのだろう。背中を向けて去っていく乗客たちを見届けながら、もう誰一人として顔を思い出せない自分に呆れる。
わたしは念のため、駅前の喫茶店に立ち寄ってみることにした。人気メニューだというモーニングのフレンチトーストを食べにわざわざ他県から訪れるという有名店らしいが、もしかしたら今日に限ってお客さんの人数が少ないという可能性もあるのではないかと淡い期待を抱きつつ、店の場所を確認し、目印の看板を探す。ログハウス風の造りの洒落た店はすぐに見つかった。期待した通りお客さんの列はなかった。わたしは渋滞で蓄積された疲労を忘れんばかりに小走りで向かい、すりガラスのはめ込まれた木製のドアを押し開ける。ドアの上部に付けられたベルが、心地よく店内に響き渡る。
「いらっしゃいませ」
店内には空腹でからっぽになった体を満してくれるいい香りでいっぱいだった。香りだけでこんがりときつね色に色づいたトーストや、ミルで丁寧に挽かれた豆で抽出したコーヒーや、舌を刺激するシナモンや、ふっくらと焼きあがったオムレツが目の前に浮かんで見えた。オレンジ色の暗めのライトに、ゆったりとした低音のBGMが心地よく、紹介されていた雑誌からは伝わってこなかった店の表情に圧倒される。
「あの、フレンチトーストはまだありますか?」
柄にもなく気分を高揚させながら、店員さんに声をかける。
「たった今、終わっちゃったとこなのよ。ごめんなさいね」
空になった皿を下げる手を止め、店主の奥様らしき人が申し訳なさそうに眉をひそめて言う。
「他のものなら用意できますよ」
最大限の善意を込めた笑顔で空いた席を勧めてくれたが、わたしは丁重にお断りした。フレンチトーストを食べる口になっていたところに大量のナッツを頬張り、その上で違う料理を受け入れる準備は整っていなかった。
「いえ、また来ます。必ず」
店員さんというより、自分との約束としてそう宣言し店を出ようと振り向く。ふと視線を感じ、左右の席に座っている客をちらりと見る。お店の雰囲気にぴったりの木材のテーブルとベンチに、つい今しがた別れたばかりのスーツ姿の男性と、カップルと、学生が、それぞれの席についてすでに注文を済ませたであろう料理が運ばれてくるのを待っていた。背中を見送った時には思い出せなかったはずの顔を、今ははっきりと思い出し、労わりあった視線は気まずさが絡みついて、重く床に落ちる。そこにはもう、さっきまでのあたたかさはなく、かといって見知らぬ人同士というわけでもないよそよそしさが、遠慮がちにわたしを遠ざけていた。わたしは彼らの記憶にこれ以上残らないよう、知らぬふりをして店を後にした。
観光地は外国からの旅行者で混雑し、見たかったはずの景色はなんだか着色料の多いお菓子のようにチカチカしていた。胃もたれしそうな景色を楽しめる状況でもなく、食べ損ねた朝食の恨みも果たしておきたかったので早めの昼食にしようと、これもまたリサーチ済みのお蕎麦屋さんへと向かう。しかし着いてみると店の中は暗く、暖簾の出ていない引き戸の中央に『臨時休業』と書かれた札が出迎えてくれただけだった。
やはりバスの到着が遅れた時点で諦めるべきだったのかもしれない。諦めるのは得意なのに、そう簡単には引き下がれない決意のようなものが生まれて初めてわたしを鼓舞する。
せっかくの時間を台無しにしないために、わたしは一切の予定を排除し、自然と足が向く方へと歩いてみようと決めた。臨時休業だったお蕎麦屋さんを出発点とし、赴くままに一歩を踏み出す。するとなぜか、わたし以外の全員が前方から迫ってくるような錯覚を起こす。どの顔も同じお面を貼りつけたみたいな緩んだ表情で、世の中で起こっている悲しい事件や事故とは無関係だと確信している様子でいる。
少し前まではわたしも同じだった。目をそむけたくなる出来事はテレビの中で起こっているだけで、自分の身に降りかかるなんて考えもしなかった。父は、なんだか体調がすぐれないと病院へ行き、そのまま入院生活が始まると、一度も帰宅することなくこの世を去った。母も結婚生活の終末があまりにも早く訪れたせいで、まだまだ父に注ぐはずだった愛情を抱えたまま、何ヶ月も途方に暮れていた。一つの悲しみは一人に与えられるわけではなく、多くの人に連鎖していくものなのだと、子供ながらに感じたことを思えている。
どんなに忘れようと努力しても、記憶は脳にしっかりと癒着し離れることはなかった。気を抜いていると浅瀬で漂っていて、視界の隅に顔を出す。見ぬふりをしてやり過ごしたり、目を閉じてわざと馬鹿馬鹿しいことを考えたりして背けてきたけれど、今回ばかりは無視できずに賑わう観光地の真ん中で立ちすくむ。
誰かと肩がぶつかる。キャリーバッグが脛に当たる。異国の地の言葉が鼓膜をくすぐる。押し寄せてくる人並みに逆らうようにして、誰も目指していない目印のないどこかに行きたかった。まだ人の足に立ち入られていない、世間から放任された素朴な地で、深呼吸をしたかった。
そういえば少し、胃がキリキリと痛む。ナッツを一袋完食したのがよくなかったのかもしれない。ちゃんと咀嚼したつもりだが、あれだけの穀物を一度に入れられて消化するのに手こずっているのだろう。慌てふためく胃を落ち着かせるために、その場でゆっくりと鼻から息を吸い込む。風が途切れ途切れに、わたしの顔を撫でていく。
わたしには気になっている人がいた。これまでの人生で友達という友達もいなかったわたしにとって彼は確かに貴重な存在だった。この二度目の一人旅は、その人から逃げてきた延長線上にある。彼との時間もちょっとした旅だったと思えれば、少しはいい思い出になるかもしれないが、今はまだ自分以外の人に使えるやさしさを持ち合わせてはおらず、親しくなってしまった後悔に苛まれている。
浄水器の会社を退社した後、登録した派遣会社では主にチラシやティッシュ配りの仕事を受け持つことになり、わたしの人間関係は以前にも増して最小限におさまっていた。勤務時間と給料が予め決まっているだけで、配り終えなければならないノルマはなく、天職だと思えた。当日、唐突に仕事に穴をあける人も多いらしいが、どんなに悪天候でも交通機関の遅れまで考慮して、きちんと時間通りに出勤していただけで、ひと月も過ぎた頃には優等生扱いされる存在になっていた。
そんなわたしにある時、結婚式に参加してほしいという依頼が舞い込んできた。人材派遣会社なので、販売員や工場のレーンに入る仕事もあることは把握していたが、まさか知らない人の結婚式に参加する事態になるとは想像もしておらず、すぐさまお断りの返事をした。しかし、担当者は謙虚でありながら一歩も引かないという意志で説得を続けてきた。できるだけひっそりと仕事をしたい、華やかな舞台はわたしとは不釣り合いだと説明しても、相手の希望条件に合う人材がわたししかいないという理由で押し切られ渋々承諾することになったのだが、あの時にもっと真剣に断っておけば彼と出会うこともなかったのにと思うと少し悔やまれる。
そもそもこの依頼自体がかなり変わったのもだった。依頼主は新婦。自身の両親も、もちろん新郎にも伝えていない極秘任務だった。依頼主からはかなり細かい指示があり、まずそれを熟すのに必要以上の労力を費やさねばならなかった。引き受けた次の日には、派遣会社からA4サイズの封書が届き、数枚の紙に印字された細かな文字を二度、三度と繰り返し読み進めた。
まず、新婦との関係性について、わたちは小学校の同級生という設定になっていた。ある出来事をきっかけにわたしたちは仲良くなるのだが、わたしが転校してしまったことで疎遠になる。だから最近のお互いのことはあまりよく知らない。という前置きがなされている。
式の最中、新婦との会話は一切しない。出席者に話しかけられた場合、疑われないよう共有の思い出を話すこと。この思い出というのが仲良くなったきっかけのエピソードで、遠足に行った日にわたしが彼女を助けたという、まったく身に覚えのない親切を働いたというものだった。
乗り物に酔いやすい彼女は朝、母親から出された酔い止めの薬を飲んできた。にも関わらずバスで気分が悪くなり、保健の先生と行動を共にしていた。行き先は動植物園である。入口付近にはすでに動物たちの体臭や排泄物や餌の匂いが立ち込めていて、彼女はさらに気分を悪くする。しかし問題なのは保健の先生が植物園に向かうことをとても楽しみにしていたことだった。先生はパンフレットで園内の位置を随時確認しては「この植物は日本ではとてもめずらしいのよ」とうれしそうに彼女に話して聞かせた。そんな先生の様子を見て彼女はバスに戻りたいと言い出せず、今にも吐き出しそうというところでわたしが現れる。わたしは「お腹が痛いからバスで休んでいたい」と保健の先生に伝え、ついでだからと彼女をその場から救出する。本当はお腹なんていたくないのに、気分の悪そうな彼女を気にかけて声をかけたという、できすぎた人物像を演じなければならなかった。
思わず誰かに話して聞かせたいほど丁寧に書かれたエピソードだが、そんな場面にならない方が安全なのはわかっている。式には大学時代の友人や、職場の人が招待されるらしく、何かの弾みでボロが出ないよう、できるだけ目立たないように過ごすつもりでいた。その中にどうして嘘の思い出を共有した人物を招待しなければならないのか疑問は残ったまま、皺だらけになった書類の角を弄びながら暗記に精を出す。
当日、慣れない服装と苦手なメイクで着飾り式場に出向いたわたしは、事前に一度依人である新婦と顔を合わせるため、控室から離れた位置にあるトイレで落ち合う約束をしていた。奥の個室で身を潜め、足音が聞こえてくるたび耳を澄ます。最初にやって来たのはプランナーらしき二人だった。メイク直しをしているのか、コンパクトを閉じる高い音を響かせ、「いい式にしましょう」と意気込んで去っていく。足音が遠ざかっていくのを確認して深く息を吐き出す。無意識に握りしめていた手のひらが汗で湿っている。思っている以上に緊張していた。
ふたたび人の気配を感じたのはそれから二、三分後くらいのことだ。歩幅の狭い、忙しない足音がすぐ近くでぴたりと止まり、探るような息遣いで依頼人だと確信した。扉をそっと開けると、同世代の女性が旧友に向けるような笑みで手を差し出してくる。八重歯のかわいらしい大人しそうな人だった。
「来てくれてありがとう」
彼女の細くて冷たい指が、わたしの手を包み込む。
「お招きありがとうございます」
包まれた自分の手が落ち着きなく、微かに力が入る。早く解放されないかと彼女の指がほどけるのを待ったが、しっかりとわたしの皮膚に吸いついて離れる気配はない。短く切りそろえられた爪には控えめなベージュのマニキュアが塗られている。それは彼女の雰囲気ととてもよく調和していた。
「色々わがままを聞いてもらってごめんなさい」
「いえ」
仕事ですから、という言葉を喉元で食い止め、何も問題はないと示すように笑顔を作ってみせる。
「あなたでよかった」
そう言われ、わたしは顔を上げる。彼女の黒目がちな瞳がすぐ近くで潤んでいた。
「ごめんなさい。すぐ戻らないと。お料理は絶品だから、楽しんでいってね」
そう言うとさっと顔を背け、足早に出て行った。包まれていた手を宙に浮かせたまま、洗面台の鏡を見る。そこにはわたしの知らないわたしが映り、不安そうにこちらを見つめていた。
結婚式に出席するのは初めての経験だったが、忘れられない素晴らしい経験になった。まったく接点のなかった彼女の人生を式に出席した全員で振り返り、一緒に涙ぐんでしまう一員であることに不思議でならなかった。
わたしの席は最後尾の真ん中のテーブルで、左斜め前の同じ年頃の男性と二人きりだった。どのテーブルにも三人か四人の同席者がいる中で、二人きりというのはなんとも居心地が悪いものだったが、正体がばれないためのセッティングなら最善なのだろう。彼が依頼者の彼女とどういった関係にあるのか確かめるすべもなく、ただ無言のまま運ばれてきた料理を口に運び、新郎新婦を目で追い、彼と目が合うことがないよう細心の注意を払っていたというのに、ふとしたタイミングでその視線をしっかりと受け止めてしまう。彼は人懐こい屈託のない笑顔を向け、目を反らす前にすかさず話しかけてくる。
「これ、すごく美味しいですね」
出されていた料理はブルーベリーのソースのかかった小ぶりなステーキだった。
「そうですね」
同意したものの、正直極度の緊張で味などほとんどわかっていなかった。言われてみてやっと、舌の上に広がる脂の甘味やフルーツの酸味が鼻に抜けていく。やっと料理の美味しさを味わうと、ほんの少しだけリラックスして彼と向き合うことができた。
「素敵な式ですね。わたしには一生無縁だと思っていたので、今日は参加できて本当によかったです」
「どちらからの招待ですか?」
答える前に一度頭の中で言葉を並べ、大丈夫だと確信してから新婦側からの招待客あることを伝える。
「僕もです」
彼の返事にわたしは身構えた。やはり余計なことは言えない。もし共有した思い出以外のもっと細やかな質問をされたら、今日のために準備してきたものを台無しにしかねなかった。彼がもし、彼女の小学生時代の同級生なら、わたしが存在していないことなど簡単に見破ってしまうだろう。
わたしはふたたび緊張で体を固くし、曖昧な笑みを浮かべてさり気なく視線を逸らす。けれど彼からの視線がわたしから逸れる気配はなく、居心地の悪さを感じながら水の入ったグラスに手を伸ばす。それからずっと彼とは目を合わさないよう集中する。これは仕事だ。依頼主の意向に沿って最後まで思い出の友人を演じ遂げなければならない。皿の上のステーキにナイフを入れ口に運ぶ。じっくり咀嚼するも、また味覚が奪われている。
二次会の行われる店に移動する案内がされ、わたしはやっと緊張から解放された。依頼は一次会への出席だけだった。会場の騒がしさに紛れて席を立ち、新婦に視線を向ける。彼女もこちらに視線を向け、誰にも気づかれないようなささやかな会釈をしてくれる。それを合図にわたしは出口に向かう。
ほとんどの時間を座って過ごしていたというのに、履き慣れていないヒール靴で踵は擦りむけストッキングに血が滲んでいた。それにれワンピースのレースが肌を刺激して痒かった。早くこの役を下りて素の自分に戻りたかった。駅のコインロッカーに着替えを預けているので、公衆トイレで着替えてから帰るつもりだった。それなのに仕事を終え少し浮かれていたわたしを誰かが呼び止める。
「すみません」
最初自分が呼ばれているとは思わなかった。靴擦れの痛みでこめかみのあたりがズキズキしていたし、何より着替えのことで頭がいっぱいだったのだ。
「あの」
わたしは足を止めて振り返る。そこにいたのはさっきまで同じテーブルで食事をしていた男性だった。走ってきたのか肩で息をしている。
「何か?」
すでに気持ちが仕事モードから切り替わっていたせいで、人見知りの不愛想さが遠慮なく出てしまう。けれど彼はそんなことにはお構いなしに、やわらかい表情を保ったままで近づいてくる。
「もしかして、子供の頃の彼女の救世主だった方ではないですか?」
そう言われ、わたしは少し身構えた。誰にも話すことなく仕事を終えたのにあのエピソードを知っている人が他にもいたのだろうか。もしくはまったく別のエピソードが存在しているのか。そんな話は聞いていないし、これ以上彼女の同級生を演じる必要性も感じず、自分でも驚くほど冷淡に「違います」と答え、彼に背を向ける。できるだけ早く離れたかった。だが、靴連れの痛みが酷く、ちっとも足が前に進んでいかない。焦りと痛みで汗が滲んでくる。
次の瞬間、体が不意に軽くなった。彼に左腕を支えられていたのだ。
「え?」
何が起きたのか理解が追いつかないまま、けれど足の痛みは最小限に抑えられていた。
「コインロッカーに着替え入れてますか?」
わたしは黙ったままうなずく。
「僕もです。一緒に行きましょう」
わたしは彼に連れられるまま駅まで歩き、お互いに荷物を取り出してそれぞれトイレに入る。「ああ、ちゃんとお礼を言っただろうか」などと考えながら、ワンピースのファスナーを下げ、ストッキングを脱ぎ、靴連れに絆創膏を貼る。デニムにTシャツ、ブラウスを羽織り、履き慣れたスニーカーに足を入れると自分の足の形に馴染んだ内側が心地よかった。
大変な仕事だった。また明日からは定位置になった駅前の階段下でティッシュ配りに精を出そう。そう意気込んでワンピースとヒール靴の入ったリュックを背負ってトイレから出ると、線路が見下ろせる窓がはめ込まれた壁際に、私服に着替えた彼の姿を見つける。わたしと似たような格好で、線路を見下ろしていた。帰るには彼のいる場所を通らなくてはならない。どうにか気づかれないように通り過ぎようと試みるも、あっさりと見つかり声をかけられる。
「そこのファミレスに寄っていきませんか? なんだか緊張で食べた気がしなくて」
緊張していたようには見えなかったが、自分のお腹が物足りないのは確かだった。いつもならすぐに帰宅するところなのに、疲労と足の痛みで休憩したい気持ちが勝り、誘いを受け入れていた。
夕方の時刻、店内にはカップルや主婦のグループがぽつぽついるくらいで空いていた。窓際の四人掛けのテーブルで向かい合うと、彼の顔を真正面に捉える。式場では斜めの位置に座っていたので、こうして向かい合うとどこを見たらいいのか目が泳いでしまう。
彼はミートソースパスタとコーヒー、わたしはパフェと紅茶を注文した。店員がいなくなると、わたしはふたたび視線の落ち着き場を探すため窓の外を見る。
「実は僕、派遣されてきたんです」
彼は小声でそう告白した。
「あなたもそうですよね?」
もうこれ以上隠しようもなく、仕方なくうなずく。その様子に彼は満足そうに微笑んだ。
「動植物園の救世主。あなたとのエピソードは聞いていたので、僕は勝手にそう認識してました。素敵な思い出です」
「本当のわたしはそんな責任感は持ち合わせてないのに」
テーブルの上では、水の入ったグラスの側面を雫が一粒流れ落ちていく。
「そんなこと言ったら僕だって同じです」
「あなたにも思い出のエピソードがあったんですか?」
「はい。僕の場合はもう少し大きくなってからの出会いでした」
そう言って彼の元へ届いた『物語』を聞かせてくれた。
高校生になった彼女は、アルバイトを始める。近所の人に声をかけられると恥ずかしいからと、家の近くではなく、高校の近くのスーパーで働くことにする。彼はそのスーパーのアルバイトの先輩だった。夕方五時から八時までそれぞれがレジ打ちをしていたので、学生のアルバイト同士が会話をすることはほとんどなかった。ある日急な欠勤者が出て品出しが間に合わず、店長に頼まれて残業することになる。そこで選ばれたのが彼女と彼だった。一時間の残業を終え、彼女が帰ろうと従業員用出入り口から外へ出ると、そこに彼がいた。彼女の家が近所ではないことを店長から聞き、送ってくれるために待っていてくれたのだという。その後何度か残業する日があっても、彼は必ず送ってくれた。接客に苦手意識があって辞めようと思ったこともあったが、彼のおかげで高校三年間、そのスーパーでの勤務を全うできたのだと感謝している。
彼のことも彼女のこともよく知らないわたしからするとまるで本当の話のように聞こえる。けれど彼はリュックからわたしが派遣会社から受け取ったのと同じ封書と、そのエピソードの印字された紙まで広げて見せてくれた。
「どうしてわざわざそんな嘘を」
「生きていくのに必要だったからじゃないですか」
「生きていくのに必要……」
その言葉はわたしに重く響いていた。わたしも生きていくために嘘をついていた。だから腑に落ちたし、そんな風に相手の気持ちを受け入れられる彼に惹かれていったのだろう。さらに彼はわたしと同じく人付き合いが苦手で、そのために自分ではない誰かを演じられる今の仕事を選んだのだという。
警戒していた心はすっかりほぐれ、会話は気まずさが生まれない程度に続いた。連絡先を交換したのは本当に気まぐれだった。家に着いたら「今日はありがとうございました」くらい送って、そのまま疎遠になていくだろうと予想していた。それなのに彼からのメッセージは、これもまた、鬱陶しさを感じさせない間隔で定期的に届いた。
わたしたちは何度か会って食事をする仲に発展していた。帰る時に彼は必ず「また」と言って手を振ってくれ、わたしもそれに応えた。その二言には希望が詰まっていた。それだけで『生きていけそう』な気がしていたし、活力にもなっていたのは事実だ。けれど心の奥では警告音がけたたましく鳴り響いていた。これ以上彼と親しくなってはいけない。自分のことは自分が一番わかっている。会うたびに、これを最後にしようと思う。手遅れになる前に彼の前から去ろう。それなのに、彼からの連絡を待っている自分がいて胸の奥が苦しくなる。
結局いつも断る勇気が出ず、わたしは彼に会いに行った。彼はいつも礼儀正しくて、わたしが恐縮してしまわない程度に、控えめにやさしさを与えてくれた。無言でいる時間が長くても、気まずさはまったく感じなかった。そんな時間がいつまでも続くわけではないと知っていながら、正論を述べる自分を誤魔化していた。
そしてついにそのツケがまわってきてしまった。
その日もわたしたちは食事をして、彼が帰宅するのに負担にならない場所まで送ってもらった。
「ありがとう」
わたしがそう切り出すと、彼は「また」と手を振ってくれるはずだった。それなのにこの日、彼は黙ったまま一度深く深呼吸をした。体調でも悪いのかと思ったが、彼は静かに視線をあげると、真っ直ぐわたしの目を見つめた。
「僕とお付き合いしてください」
街の喧騒がすっかり消えたような気がした。彼の声だけが鼓膜に浸透し、わたしの内部を冷やしていく。
恐怖心による悪戯? 警告を無視し続けたことへの報復?
どちらにしても歓迎すべき感情でないことは確かだった。わたしの胸は嫌悪感で膨れあがっていた。
「ごめんなさい」
眉間に皺が寄るのも構わず、わたしはそう答えた。目を合わせることができなかった。けれど彼はやさしい声のままでたずねてくる。
「理由を教えてもらえないかな」
「本当にごめんなさい」
それ以上、どう説明すればいいのか分からず、ただ謝ることしかできなかった。わたしは深くお辞儀をした。そしてそのまま彼から逃げるように走り出した。自分の愚かさを酷く悔いた。
追いかけてきたらどうしようかと不安だったが、彼はそんな無粋なことをするような人ではないとわかっていた。決して振り返らず、わたしは走っていた足を緩める。そしてそのまま街の中に溶け込み以前の自分に戻ろうと試みる。けれど彼と知り合う前の自分に戻るのは無理な願いだった。
わたしに未来などない。改めて自覚する。家に帰り、引き出しから通帳と印鑑を持ち出すと、この世界からの解約をするためにその足で銀行へ向かった。
銀行で手続きをしている間、彼から『いつでも構わないから連絡してほしい』というメールが届いた。わたしはそれを自分でも驚くほど無関心に削除した。差し伸べられた手を握り返すのが怖かったのだ。
夢中になれる趣味もなかったため、浄水器の給料と派遣の給料は結構な金額になっていた。通帳の数字は、もしかしたら彼との暮らしを彩る家具や、食器や、電化製品になるはずだったのかもしれない。そんな淡い夢を見ていなかったと言ったら嘘になる。誰だって一度はそんな幸せな想像をしてみるものだと思う。カーテンの色は暖色か寒色か、ソファの生地は布か皮か、せっかくペアで買ったマグカップの片っぽを割ってしまったとかで喧嘩したりするのかもしれない。そうして一言も口を利かずお互いに仕事に出て行き、離れてみてやっと揉めている内容のあまりの小ささにほくそ笑み、帰宅したら謝ろうなどと考えたりする。
彼の手を、一切の不安もなく握ることができたらどんなに良かっただろう。わたしにだってみんなと同等の未来があると信じてみたかった。けれどわたしは自分の意志で拒否したのだ。それぐらいの権限はあっていいと思う。
解約の手続きが済み、帰宅途中で見かけた少し高めのケーキが売りのカフェに寄った。洗礼された雰囲気の店でつい敬遠していたのだが、密かにいつか彼とここのケーキを食べてみたいと思ったことがあった。つやつやのジャムでコーティングされた果物で飾られたケーキやタルトの並べられたショーケースを眺めては、二種類選んで、彼と半分ずつ食べることを想像していた。けれど今はどれを選んでも独り占めできる。
わたしはオレンジのスライスが花のように飾られたショコラケーキと、自家製のいちごソースのかかったレアチーズケーキを注文し、たっぷりの紅茶と共に楽しんだ。お会計を済ませる時、鞄の中の厚みのある銀行の封筒を見て、これで美味しいものを食べる旅に出ようと思い立った。思えばこの時すでに、あの場所から呼ばれていたのだろう。
それから派遣の仕事は休むことにした。もともと登録制なので、こちらから出勤したい日を申し出ない限り仕事が入ることはなかった。万が一にも派遣された先で彼と遭遇してしまっては堪らない。できることなら二度と会いたくない。未練が強くなる前に旅立とうと決心する。
水分をたっぷりと含んだような水色の空には、薄っすらとした雲に紛れて白い半月が見えた。次に見た時には、雲と見分けがつかなくなりそうな小ささで、じっとそこで佇んでいる。目的地を失ったわたしは、その月を目印に入り組んだ道を進んでいく。車両禁止でも、階段でも、公園でもお構いなく、所有地以外の通れる道をただひたすらに歩き続ける。観光地からずいぶんと離れてきたようで、すでに人の気配はほとんどなくなっていた。たまにすれ違うのは、このあたりの住民らしい人ばかりだった。
誰もわたしのことを知らない。わたしはわたしのいた場所から切り離されて、別の場所に存在している。許されるのならば、全てを忘れてしまいたい。無責任で卑怯だと後ろ指を指されるだろうか。それでも構わない。やがてみんなわたしのことなど忘れていくのだから。
やがて工事現場のような広い空き地の、舗装されていない砂利だらけの場所に出た。自動販売機が数台並んでいて、そのすぐ横にトラックが一台停車している。
わたしにはそのトラックに見覚えがあった。正確には、トラックの運転手の男性に見覚えがあった。渋滞の原因を作ったトラックの運転手が、さっき道路で撒き散らしていた光る物の入ったケースを荷台から運び出している。一見すると鉄の塊みたいに重そうなのに、運転手は涼しい顔で次から次へと運んでいく。
そういえば少し喉が渇いていた。どれくらい歩いてきたか定かではないが、目印にしていた白い半月はもうどこかに姿を消していた。わたしは自動販売機で飲み物でも買おうと、補充作業をする運転手の方に近づいていく。砂利は遠慮なく音を立て、わたしの存在を作業中の運転手に知らせる。
「あれ。参ったな。今日は販売日じゃないんだが」
手を止めて振り返った運転手は独り言のように言ったが、なぜだかわたしに対する言い訳にも聞こえた。
「だが、ここへたどり着いたってことは、これを必要としているってことなんだろうな。特別に売ってやるから、俺が運んでるってことは内緒にしといてくれよ。それからこっそり後をつけてくるのも禁止だ」
「売る?」
わたしは彼が運んでいるケースに目をやり、何かめずらしい、滅多に手に入らない物でも扱っているのだろうかと想像する。
「なんだ。お客さんじゃないのかい?」
「お客ではなく、被害者です」
わたしは渋滞に巻き込まれた結果、モーニングを食べ損ねた苛立ちをできるだけ抑えながら、バスから見かけたことを話した。彼は申し訳なさそうに眉を寄せ、自分の失態を素直に詫びてくれた。
「それはすまなかった。言い訳するわけじゃないんだが、こんなことは初めてなんだ。安全確認、安全運転でやってきてるのに、今日はこう、何て言うか……」
彼は言葉を濁しはじめる。
「居眠り運転ですか?」
わたしが訊ねると、男性は虫でも追い払うように目の前で激しく振る。
「まさか。そうじゃなくって。勝手に飛び出したんだよ。荷台から」
そう言って、納得したという風に一人うなずいてみせる。
「その時に一缶破損しちまったんだが。そうか。それをを浴びたのか。でもそれでここまでたどり着いたなら、やっぱりあんたはこれを必要としているはずだよ」
彼はすでに運び終えているケースの上に抱えているケースを積み、両手にはめている軍手の甲で額の汗を拭う。よく使いこまれているようであちこち糸がほつれ、元の白さがわからないほど灰色に汚れている。ケースにはきちんと整列された缶詰が、ぶつかり合って甲高い音を鳴らしている。彼に恋する乙女の声援のようでもあるし、邪魔に入ったわたしへの苦情のようにも聞こえる。
わたしはいよいよ銀色に光る丸い筒への興味が溢れ、質問せずにはいられなかった。
「あの、一体何を売っているんですか?」
彼は何てことのないような口調で答える。
「カゼだよ」
「え?」
聞こえた『カゼ』の文字が風なのか、風邪なのか、もっと別の文字なのかすぐには変換できなかった。それともただの聞き間違いでもっと別の言葉だったのか。返答すべき言葉が見つからずに黙っていると、彼はさっきまでの控えめな態度とは打って変わって、幾分か得意気な笑顔を見せた。この仕事を請け負っていることが誇らしいという自信がが滲んでいた。
「蓋を開けると中に閉じ込められていた風が、自分の思いや言葉をもう会うことの叶わない人のところまで運んでくれるんだ」
そう聞いて、変換すべき文字は『風』なのだろうと察しがついたが、それでもまだ彼の言っている内容を理解するには程遠かった。
この缶詰に風が入っている……? 思いを運んでくれる……?
あまりにも不思議そうな表情をしながら、彼の手元を見つめていたのだろう。彼は、中身が見やすいように抱えているケースを傾けてくれる。無駄な装飾の一切ない、銀色の缶詰が隙間なくきれいに並んでいる。太陽の光を反射させ、、まるでそれ自体が光を放っているかのように神々しい。けれどそんな印象とは裏腹に、全ての表面にプルトップが装備されていて、みかんや桃の缶詰を連想せずにはいられなかった。
「これを売っているんですか?」
「そうさ。そいつがな」
彼は、わたしが飲み物を買おうとした自動販売機の方を見やる。形や大きさは街や駅で目にする自動販売機と変わらない。右側にお金の挿入口があったり、釣銭を受け取れる口が付いていたり、購入するためのボタンが在庫があると知らせるための緑色の光を灯していたりと何の変哲もなさそうなのに、肝心の商品を紹介する場所がない。横から見ていたせいで、正面の不思議な造りに目を見張る。
真っ白で、光沢のあるつるりとした病院の廊下に似た素材が、また父の記憶を蘇らせようとする。生活圏内から離れようが、光を浴びるほどに輪郭をくっきりとさせた影となってわたしと共に行動している。決して逃れることのできない足枷だった。
「亡くなった人へ届けてくれる、ということですか?」
冗談を言ってわたしをからかっているに決まっている。そう疑いの目を向けている反面、自分だったら誰のためにこの商品を使用するだろうと真剣に思案する。まっさきに思い浮かんだのは言うまでもなく父だった。病室の風景にすっかり馴染んだパジャマ姿の父ではなく、まだ若々しい生命力に溢れた父が、こちらを向いて笑っている。
「これを買いにやって来る人たちは、亡くなった誰かとつながりを求めてる人ばかりだ。そういう人が、どういう仕組みだかわからんが、導かれてたどり着けるようになってるらしい。ごくたまに、あんたみたいに俺と出くわしちまう人がいると、まるで俺のことを神様かなんかみたいに崇めたりもするから困っちまうよ。俺は缶詰を運んで補充する、ただのドライバーだからな」
そう聞いて、わたしはいくつかの運送業者を思い浮かべていた。彼の乗ってきたトラックにも、着ている服にも、社名やロゴやキャラクターの類は見当たらず、それどころか自動販売機と同じく模様の一つもないのが特徴的だった。
彼はわたしの目の前を横切って、すでに運び終えていたケースの上に、抱えていたケースを積み上げる。片足が不自由なのか、じゃりじゃりと靴のつま先と小石が擦れる音と共に砂ぼこりが舞い、往復した分の歩幅と同等の跡が、トラックと自動販売機のあいだを繋いでいた。
「特別に俺が売ってやるよ。なかなかないぞ。こんなチャンス」
彼は短く笑いながらこちらに戻って来る。ああ、なるほど、とわたしは納得する。きっとこれを購入するために口座を解約したのだ。わたしは鞄から、銀行名が印刷された封筒に入れっぱなしのお札の束を取り出して彼に差し出した。
「これで足りますか?」
彼は封筒を一瞥して、怪訝そうに顔を顰めた。
「冗談だろ、お嬢ちゃん。そんな大金、人に見せるもんじゃない。これは手紙と同じだ。小銭で買えるよ」
彼は今が食べごろの果実を見定めるような真剣なまなざしで、整列した缶詰の中から一つを選びだし、ポケットからはみ出ていたタオルできれいに磨いてくれる。
「ただし、購入できるのは一度に一個だけだ。買いだめはできない」
なんだか特殊なゲームのルール説明でも聞いているように、真剣に耳を傾けて頷く。そうしてわたしはお財布から千円札を一枚取り出し、彼に渡した。彼はお釣りと一緒に、すっかり磨かれて光が増した缶詰を手渡してくれた。
「ほら」
手のひらに載せられた缶詰はひんやりとして冷たく、とても軽かった。子供の頃、桃の缶詰を足の指の上に落とし、親指の爪の中に血豆ができたことを思い出す。けれど、この缶詰は落としても怪我するどころか、もしかしたら風の力で浮かぶのではないかと思わせる不思議な感覚が手のひらから伝わっていた。
「あの」
わたしは手元の缶詰に視線を落とし、そこに映る、曲面の歪んだ自分の顔を見つめたままたずねる。
「生きている相手にも届けることはできますか?」
彼からの返答はなかった。不自然な間に耐えきれず顔を上げると、次のケースに手を伸ばしたまま体をひねり、的外れな質問を受けたみたいな呆けた表情でこちらをぼうっと眺めていた。
「相手が生きてるんだったら、直接伝えられるだろう」
まったく正当な答えだった。話せるのだから直接伝えればいい。物理的に会えなくても、電話でもメールでも手紙でも、手段はいくらでもある。直線距離で数分の場所へ、わたしは何度も迂回し、寄り道し、このままたどり着かないことさえ期待している。そんな浅はかな考えを見透かされないように、わたしはふたたび手元の缶詰に自分の顔を映す。
「そうですね」
間延びした顔の自分の口が、そう答えていた。
「まあでも、どうしても会えない人、って言うんなら、こいつの意図するところに変わりはないんじゃないか」
「また、ここに来れば買えますか?」
「いや。それは無理だろうな」
彼は自動販売機を顎で示す。
「場所が変わるのさ。毎回」
「次はどこへ行くんですか?」
「どこに行くのかは俺も知らないんだ」
「そうですか」
「だからこそ出会うべき人しかたどり着けないようになってるのさ。ご縁って奴に導かれてな」
残念に思う気持ちが露骨に表情に出ていたのか、彼は後頭部を搔きながら低く唸っている。慰めの言葉でも思案してくれたのだろうけれど、気の利いたことはどうやら言えないタチらしい。
「大丈夫かい?」
不器用な作り笑いが正真正銘心配してくれているのだと伝わり、小さく噴き出してしまう。
「はい」
風が思いを運ぶ。そんなことが本当にあるわけがない。疑いがすっかり晴れたわけではないが、宝物を手に入れたような心持でほんのりと気分があたたかくなる。
「使い終わった缶は、ちゃんと自治体の決まりに沿って捨ててくれよ。そのへんに落ちてるのが見つかったらえらいことになっちまう」
わたしは素直にうなずいてみせる。
「わかってます」
作業に戻ろうとして、彼はもう一度こちらを振り返り、これが一番重要だとでもいうように人差し指を立てる。
「落とさないように気をつけろよ。中身が逃げ出したら台無しだからな」
「そうですね。気をつけます」
彼はまだ何か言おうとしたけれど、結局何も思いつかなかったようで開いた口を閉じて作業の続きを開始する。わたしは小動物でも抱えるように、銀色に輝く缶詰をやさしく胸元に寄せて彼に背を向けた。
父が亡くなったのは自分のせいだと、わたしは今でも後悔に苛まれている。異変は徐々に表れていたはずのに、父は心配をかけまいと家族の前では平然を装っていた。当然母は父の病状が悪化するまでまったく知らずにいた。けれどわたしは、父が苦痛に顔を歪めている姿を密かに目撃していた。
たしか夕食の途中だった。父は食事中なのにトイレに行くと言って、わたしと母の文句に苦笑いで応えながら廊下へと出て行った。わたしはそんな父に罰を与えてやると意気込み、しばらくしてトイレへと向かった。廊下には二階へあがる階段があり、その階段下にトイレがある。足音を立てないよう靴下で滑るように進むと、父はトイレには入っておらず階段下でなにやらじっとしている。何をしているのかこっそりとうかがうと、父はお腹のあたりを抱え、体を折り曲げ、歯を食いしばっていた。低く唸るような音が喉の奥から絞り出され、その表情にわたしは何とも言えない恐怖を感じた。助けることも引き返すこともできず、その場で必死に痛みに耐える父を見つめていた。
数秒の出来事だったと思うが、わたしの脳に焼きつくには十分すぎる時間だった。わたしの存在に気づいた父は一瞬はっと目を見開いたが、驚くような切り替えの早さで笑顔を向けた。
「何でもないんだよ。さあ、ご飯を食べよう」
そう言ってわたしの頭に手を乗せる。わたしは父に促されるままに母の待つダイニングに戻る。
母は食事には手をつけず、テレビを観て一人で笑っていた。そしても戻ったわたしたちに向かって「さあ、早く食べましょう」と告げる。父も「食べよう食べよう」と言って笑顔で椅子に座る。わたしは無言で座るが箸を持つ気力さえ失っていた。
「なんか元気ないわね」
母がわたしを見て言う。
「驚かすのに失敗したから拗ねてるんだよな」
父が誤魔化すのを聞いて、秘密にしなくてはいけないのだと悟る。そしてわたしはゆっくりと箸を手にし、冷めかけたハンバーグを切り分ける。母は小さな声で「ちゃんと驚いてあげなきゃダメじゃない」と父に注意し、父が「ごめんごめん」とご飯を頬張りながら答える。
この日の出来事をわたしが口にすることは決してなかったが、父の苦悶の表情に遭遇する機会は日毎増えていた。母は家事のルーティーンが決まっていたので、父は避けることができていたのだと思う。子供のわたしは家中を自由に行き来し、父にそれをすり抜ける術はなかった。さらには幼すぎたわたしに相手を労わる感情は持ち合わせてはおらず、笑顔になってほしい一心で、なんとか父を笑わせようとした。そのたびに無理矢理笑顔を張りつけ、父はわたしを喜ばせてくれていた。わたしの弱さが父のやさしさに縋り、わたしの甘えが父の時間を奪い、本当にくだらない子供のわがままが招いたのは最悪の結末だった。
しばらくして父は緊急入院した。その時はまだ全員が病気は完治するものだと信じて疑わなかった。それほど神妙にもならず楽観的な日々を送り、お見舞いに行ってもわたしは飾り気のない病室でじっとしていることはなかった。病院の売店や、ナースステーションに足を運んだり、テレビとソファと観葉植物のある共同スペースで見ず知らずの入院患者のおばあさんの話し相手になったりしていた。
ある日、父の部屋に戻ると、父と母は二人きりで真剣な表情で見つめ合い、静かに涙を流していた。この日は検査結果の出た日だった。わたしの前では、「必ず治るよ」とか、「退院したら旅行へ行こう」とか明るい話題ばかりしてい二人が、もう自分たちの力ではどうしようもないのだと悟り、目の前に差し出された絶望を受け取るタイミングを見計らっているようだった。
それからの父と母はまるで別人のようだった。気がつけばどちらもぼうっと一点を見つめていたり、前触れもなく声をあげて泣き出したりと、最後に残ったおかずをじゃんけんして取り合って笑っていた二人とは重ならなかった。お見舞いは週に二度から毎日に変わった。残された時間の少なさがそうさせていた。家族だというのに気軽に話しかけられる雰囲気はなく、わたしは共有スペースに誰もいなくなっても一人で残り、面会時間が終わるまで窓から山の向こうに沈んでいく夕日を眺めるしかなかった。
父が衰えていくのに大して時間はかからなかった。毎日会いに訪れているのに、昨日より今日、必ずと言っていいくらいに体は小さくなっていった。そんな父の姿を見るのは辛く、わたしは段々と病室まで行くのを避けるようになった。母には共有スペースにある漫画の続きを読みたいと嘘をついてエレベーター前で別れ、次に父に会ったのは亡くなる前日のことだった。
いつものように共有スペースで、すっかり顔見知りになっていたおばあさんと話していると、どことなく忙しない足音が近づいてきて振り返る。足音の正体は母だった。まだ帰宅するには早い時間帯なのに、母はわたしに手招きをし、わたしはおばあさんにさよならの挨拶をする。そんな暢気なわたしの動作にしびれを切らすように、母に腕を引っ張られていく。
「どうしたの?」
母は何も答えてはくれなかった。すべての仕草や動作や、わたしの腕に密着している母の手のひらから焦りが伝わってくる。連れていかれた先は父の病室だ。扉は開いたままだった。わたしは中へ入るのを躊躇い、一度だけ抵抗したが母がさらに力を込めて引っ張ったので勢いよく部屋へ入る。四人部屋の右の窓側に父のベッドがあるが、どのベッドもカーテンが引かれ、異様な静けさが部屋中を制していた。
躊躇いなくカーテンをめくって入っていく母とは裏腹に、わたしは体を半分カーテンに隠すようにして覗く。ベッドの上には、まったく膨らみのない掛け布団がかかっている。けれどそこにはちゃんと父の体が横たわっている。
枕に沈んだ父の頭は動かなかったが、微かに開いた瞼の隙間から小さな瞳がわたしを捉えたのが分かり、どきりとする。
「おいで」
掠れた声はわたしの知っている父の声からかけ離れていたし、布団から出てきた腕もあまりに細く、驚きのあまり目を逸らすこともできなかった。そのまま体は硬直し、差し出された父の要望に応じることができなかった。結局、宙に浮いた父の手を支えたのは母だった。わたしは大好きだった父に触れる最後のチャンスを逃したのだ。
数時間後に父は息を引き取った。眠ったような顔を見つめているうちに涙がじんわりと滲んできた。本当に死んでしまったのだ。人が死ぬというのはなんて静かなのだろう。もうしゃべってもくれないし、くしゃみをすることもない。いびきがうるさくて文句を言うこともないし、いくら笑わせようとしてもその表情を緩めることもない。
本当はずっと謝りたし、謝らなければいけないとわかっていた。けれどいつも尻込みして大切なことは何も伝えられなかった。あの頃は毎日、神様に話しかけていた。どうかお父さんを助けてください、と。そのためならわたしは一生お小遣いがもらえなくても構いません。けれどその願いが叶えられることはなかった。
母は何度も「お父さんは病気で死んだのよ」と言っていた。けれどそれはわたしを慰める言葉ではなく、愛する夫を突然亡くした喪失感から自分を守るための呪文で、抑揚もなく、感情を宿してはいなかった。
ちゃんとわたしが父の異変を母に伝えていれば。父に病院へ行く時間を作ってもらっていれば。父があんなに早く死んでしまうことはなかったのかもしれないという後悔は、自分が大人になるにつれて強くなっていた。けれど母はわたしのせいで父が死んだとは思っていないだろう。それが余計に辛かった。
わたしは父に何を伝えたいのだろう。思案しながら歩き、生活し、いつ思い立っても行動に移せるよう、鞄には常にあの缶詰が入っていた。時折、中に閉じ込められている風の音が聞こえはしないかと、浜辺で拾った貝殻のように、缶詰を耳に押し当ててみたりした。まるで中からわたしが話すべき言葉が聞こえてくるのではないかと期待するように、鼓膜に神経を集中させたりした。けれど聞こえてきたのは、抑揚のないこざっぱりとした声だった。
「あなた」
咄嗟に耳に当てていた缶詰を慌てて胸元に寄せる。わたしは昼下がりの公園にいた。人影もまばらで、ベンチに一人座っているわたしに気を留める人などいないだろうとすっかり油断していたので、突然の声かけに狼狽える。声をかけてきたのは、気真面目そうな女性だった。にこりともせず、眼鏡の奥の瞳は間違いなくわたしを見つめてる。なにか気に障るようなことをしてしまっただろうか。もしかしたらこのベンチはこの人の指定席なのかもしれない。注意されるのかと委縮していると、彼女はゆっくりとまばたきをして口元をわずかに緩めた。
「思ったより元気そうで安心したわ」
浄水器会社の事務員の女性だと気づいたのは、無機質な彼女の声をわたしの耳が覚えていたからだ。手にしていた缶詰を鞄に突っ込んでわたしは立ち上がる。
「その節は大変お世話になりました」
「お世話なんかしてないわよ。隣いい?」
「はい」
返事を待ってから彼女はゆっくりと腰を掛けた。
「ねえ、今持ってたのって、もしかして風の缶詰?」
わたしは彼女の顔を見る。
「ご存じなんですか?」
「使ったことがあるから」
その時、彼女が使ったという風がめぐりめぐって戻ってきたかのように、やさしい風がわたしたちを包んだ。彼女は顔にかかった髪を細い指先で払う。短く切りそろえられた爪は缶詰のプルトップに引っかけるのに邪魔にならないだろう。
「恋人がね、二年前に病気で亡くなったの。その人にどうしても伝えたいことがあって、その缶詰を手に入れたのよ」
身近にこの缶詰を手にしていた人がいるなんて、そんなに有名なものなのだろうかと、あの日の様子を思い浮かべる。
「工事現場みたいなところですよね」
「いいえ。わたしは河川敷だったわ」
「河川敷……」
そういえばおじさんも、毎回場所が変わると話していた。だからといって人気の多い場所に設置されるのは難しいだろう。どちらかというと作業している現場を見られるのは不本意という雰囲気だった。人の立ち入らない地図上の隙間のようなところで、必要としている人だけが導かれていくのだろうか。
「死のうと思ったの」
彼女の言葉に背筋がぞくりとする。
「大雨の日で増水した川が灰色の大蛇みたいにうねってた。まわりには誰もいなかったし、一歩足を出せば彼の元に行けるってそれしか考えられなかった。でもね、その時にあの自動販売機を見つけたの。太陽なんか出てないのに、どこからかの光を反射してわたしの目を射した。その時にいつだか耳にした噂を思い出したの。風の缶詰があるって。それでね、確信したのよ。きっと彼に「まだ来ちゃいけない」って言われたんだって」
彼女は懐かしい思い出に、ため息交じりの笑みを浮かべる。
「缶詰は使ったんですか?」
「ええ。その日のうちに開けたわ」
「何を伝えたのか聞いてもいいですか?」
散らばったパズルのピースのようにごちゃごちゃになった頭の中を、少しでも整理できればとぜひ彼女の意見を参考にさせてもらいたかった。今のわたしにはこの世に存在する文字の、最高の組み合わせを見つけるのは難しすぎた。
「『……』」
「え?」
ちょうど風が耳元で音を立て、大切なところを聞きそびれてしまう。聞き返せば教えてくれたのだろうけれど、二度目に発した言葉は一度目とは違う意味になっていそうな気がして、これ以上詮索することはできなかった。
「でもすっきりはしなかった。だって返事が来るわけじゃないんだもの。相手はそんなこと望んでいないのかもしれないのに、否定も肯定もしてくれない。言いたいことだけ言って、それでおしまい。それって、こっちだけが怒って文句言ってるのに、相手は知らん顔でテレビ見てるのと同じくらい腹が立つ」
そう言って声出して笑った。きっと二人にそんな日があったのだろう。わたしも彼のことを思い出したからか、胸の奥に鈍い痛みを感じて手で押さえる。少しだけ呼吸が苦しい。すぐ隣にいる彼女に気づかれないように、ゆっくりと深呼吸を繰り返していると、背中にそっと彼女の手が触れる。
「ねえ、間違ってたらごめんなさい。あなた、どこか悪いんじゃない?」
「いえ、そんなことはないです」
微笑んでみせるが、無理矢理感は否めない。
「亡くなった恋人と似てるのよ。職場にいる時から見てたから。だから辞めることを勧めた形になってしまったけれど」
そう言われた瞬間から目の奥が熱を帯び、溢れ出しそうなものを懸命に堪えようとする。こんなわたしのことを気にかけてくれていた人がいたことへなのか、すでに病魔に蝕まれている恐怖を打ち明けてもいいのかもしれないという安堵なのか、どんどん熱くなってくる瞼を閉じる。もしかしたら本当は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
母に伝える機会を逃してしまってからというもの、残りの人生をどう生きて行くべきなのか進むべき道を見失っていた。仕事を辞めるという選択肢は当時のわたしには到底導き出せずにいたはずだ。ただあの場所で生かされて、いつか訪れる終わりを迎えるだけだと思って過ごしていたわたしに、『生きる』時間を与えてくれたのは間違いなく彼女だった。
「誰にも話してないんです。幼い頃に父が亡くなって、母は悲しみに打ちひしがれながら苦労してわたしを育てたので、言い出せなくて」
父が亡くなったあと、母は短期間で体重が十キロも落ちてしまった。憔悴した顔から表情という色が消え、虚無を見つめるうつろな眼球だけがかろうじて作動する壊れかけのロボットみたいで、わたしと言葉を交わすこともほとんどなかった。夕方が夜になり、部屋の中が真っ暗になってもじっとソファに座ったままの日もあったし、お昼が過ぎてもベッドから起き上がってこない日もあった。
それでも週に三日は祖母が様子を見に家を訪れてくれていたので、食べるものにも困らなかったし、部屋が手のつけようがないほど散らかることもなかったし、わたしは学校へ通い、平穏な日常を取り戻せるまでに至ることができた。
「そんな母にも新しいお相手が見つかったみたいなんです。それを聞いて安心しました。これでわたしがいなくなってもきっと大丈夫だろうって思えて。どうやって伝えたらいいのか考えすぎて疲れてしまっていたし。恋も諦めました。病気だってずっとわかってたのに、ちょっとだけ未来を想像してしまったりして余計に辛くなっちゃって。不思議ですね。死ぬのなんて全然怖くなかったのに、交際を申し込まれただけで心が揺らぐとは思いませんでした。だから大切な人たちから距離を置いて、誰にも知らせずにっていうのもアリかなって。そう思っていた矢先、この缶詰を手に入れたんです」
わたしは鞄から、風の缶詰を取り出し両手で包む。
「その人のことを好きだったのね」
彼女にそう指摘され、堪えていたはずの涙が溢れていた。
「そして、その人もあなたのことを大切に思ってくれていた。それがわかったから、心を閉ざしたのでしょう?」
もう止める術もないほどに、次から次へと涙は零れ落ちる。
「辛かったわね」
この涙は一体、何に対しての涙なのだろう。自分で制御できなかった感情は彼女に忠実に従い、すべてをさらけ出そうとする。内側から排出されていく孤独が、みるみる蒸発し、目の前に光を呼び込もうとする。もう抵抗するのは止めて、わたしはまっさらな状態で彼女に懇願する。
動けるうちに行きたいところへ行っておきたい。生きているうちに多くのものを食べておきたい。どうしようもなくなるまで藻掻いてみたい。だからどうか、自分のことは秘密にしていてほしい。
彼女は黙ったままで聞き終えたあと、深い息を吐き出し空を見上げる。
「それをあなたのやさしさだと、ご家族が判断されるかはわからないけれど。わたしがあなたにできることは一つ」
わたしは続きを聞きたくて彼女を見つめる。
「生きてるあなたを応援する。だから徹底的に付き合ってあげる。それがわたしなりのやさしさ」
彼女はこちらを向いて目を細めていた。恋人を失ってからすっかり封印されてしまっていた貴重な微笑みに思えた。
それからの彼女の行動力には目を見張るものがあった。有給休暇を取得したと連絡がきたときは彼女の本気度が伝わったし、思い出せる限りで一番の心強さを感じた。さらに彼女の口から愚痴が飛び出し、わたしはなんだか可笑しくて電話越しに笑いをこらえる。どうやら、会社にも職場の人間関係にも一切の不平不満を漏らしたこともなく、急な体調不良で欠勤することもなかった従順な彼女が唐突に突き出した休暇届に、その場にいた全員が動きを止めたらしい。
「失礼よね。わたしにだって予定があるのよ。それなのに、まるで天地がひっくり返ったみたいな目を一斉に浴びたときの不愉快さったら……あー、思い出しただけでイライラする」
事務的だと決めつけていたあの頃の自分はなんて見る目がなかったのだろうかと思う。彼女の人間らしさを垣間見れたことが本当にうれしかった。
それからわたしたちは旅行の計画を立てはじめた。行き先はすべてわたしの希望した場所だった。彼女にも行きたいところはないか尋ねてみたのだが、それが旅の目的なのだからときっぱりと断られてしまう。箇条書きにした行き先や食べてみたいものを読みあげていくと、耳元の気配で書き留めてくれているのがわかる。そのうち「承知いたしました」と聞こえてきそうだった。
できるだけ最短ルートで巡ることができればよかったのだが、宿の空き状況などを調べているとそううまくはいかず、出発するまでに一週間ほど時間を費やした。それでもわたしたちにとって理想的な計画を立てることができ、悔いの残らない旅行になる気配に胸が高鳴る。
体力の低下を考慮し、荷物は最低限におさめた。というよりも、すでに部屋の片付けはほとんど済ませてあり、必要なものは小ぶりなボストンバッグに余裕を持って入っていたので、それを手に出発するだけだった。当日の朝、南向きの日当たりのよい窓にカーテンを引き、生活感を失った部屋を一瞥して鍵をかける。きっとこの部屋に戻ってくるとこはないだろうという予感がある。それは悲しい予感ではなく、前向きな希望である。その希望に向かって、わたしは一歩を踏み出す。
駅前で合流した彼女は、わたしよりもさらに少ない荷物をリュックに詰めて背負っていた。けれど手には紙袋を大事そうに抱えている。百科事典でも入っているようなフォルムで渋い色合いの模様が入っている。
わたしに気づいた彼女は、抱えた紙袋を献上でもするように軽く持ち上げる。
「駅弁買ってきたから。一番高いやつ」
わたしたちは顔を見合わせて笑う。まるで何年も前から友人だったみたいな気軽さで、改札口を通り抜ける。大勢の人が忙しなく行き交う中で、わたしたちはわたしたちだけの場所を確保し、わたしたちだけの時間を過ごしていた。誰の目も気にならない。こんな経験ははじめてのことだった。
車窓からの景色を時折眺めながら、旅行の計画をおさらいし、修正に余念がなかった。この計画の目玉は因縁のモーニングを食べに行くことで、その日を中心に波紋を広げるように立てられている。体調に負担をかけず、食するものをじっくりと味わうために、まわれる店は一日に二件が限界だった。注文して運ばれてきた一品一品を目で味わい、舌で味わい、記憶に沁み込ませるよう喉に通していく。これがわたしの体の一部になり、最期まで支えてくれるに違いない。そうして「また来ます」と約束した店のことを思い出しては、誕生日やクリスマスを待ち焦がれる子供のように、対面できる日を指折り数えたりする。けれど、その目的を果たすことはついにできなかった。
入院生活は思っていたより悲観的にならすに送れていた。できるだけ一人で過ごしたいという願いを聞き入れてもらい、病院では個室を用意してもらった。食は細くなったが、事務員の彼女のお陰で普段なら挑戦しないようなメニューを堪能できた。それに彼女からの贈り物がわたしの体を包んでくれている。
入院するとき、わたしは彼女とさよならをした。もう二度と合わない。それは旅行に行く前に決めていたことだったし、彼女も理解してくれていた。徐々に変わっていく自分の姿を見られたくない。それを察してくれ彼女はわたしにワンピース型のパジャマをくれた。お陰で痩せてきた体も目立ちにくく、気晴らしに廊下を歩くこともできた。
旅行の半ばで体調が急変したわたしは、彼女の看病のもと救急病院へ運ばれた。それはモーニングを食べに行く前日の夜だった。難しいことではないのに、果たせなかったことが悔しくて仕方がなく、夢の中で店内の芳しい香りを堪能して目覚めることがよく合った。現実の世界では病院食の準備が進んでいる早朝で、わたしは今でも食べる楽しみを維持できていることに幸せを感じている。
この病院にもお見舞いに来てくれた人や、入院患者が自由に行き来できる共有スペースはあるが、父のお見舞いに行っていた頃とは違い、わたしがそこへ顔を出すことはなかった。それでもたまには部屋の外へ出るように看護師さんから注意されるので、売店に向かうふりをしながら共有スペースの横を足早に過ぎ、エレベーターに乗り込む。一階で降り、中庭に通じる出入り口に向かっている時、前から歩いてきた妊婦さんが通りすがる直前で立ち止まった。
「あの、すみません」
大きなお腹に重心を持っていかれないよう、腰を反らせながら立っている。産婦人科の場所でも聞かれるのかと思ったが、彼女は自分の胸元に手を当て、名前を名乗った。その名前はどこかで確かに耳にしたような、けれど決して珍しくはない名前だった。
「もしかして、結婚式に来てくださった方ではないでしょうか?」
わたしは彼女の顔を数秒見つめた。多少ふくよかになっていたが確かに派遣された結婚式の新婦さんだった。まさかこんなところで再会するとは思ってもおらず狼狽える。
「いえ、人違いだと思います」
わたしは咄嗟に目を逸らし、お辞儀をしてその場を去ろうとする。けれど彼女はすかさず声をかけてくる。
「あの」
わたしは足を止める。どうして無視して立ち去れないのだろう。人違いだと伝えたのだからそのまま歩いてしまえば関わらなくて済むのに、振り切ることのできない弱い自分がほとほと嫌になる。
「ありがとうございまいした。わたし、あなたとの思い出に救われたんです。どうしても直接お礼を伝えたくて」
「わたしとの思い出?」
彼女はゆっくりとした動作で大きくうなずく。
「はい。共有した思い出です」
人違いだと伝えているのに、彼女は確信した様子で話は続けられる。
「あのエピソードの前半、あなたが助けに来てくれるまでのことは本当の話なんです。結局あの後、無理して動植物園に入って当然のように嘔吐してしまって。先生は迷惑そうな顔で園の方に謝罪し、クラスメートからは汚がられて、散々な一日でした。でもそれで終わりじゃなかった。次の日からはまるでわたし自身が汚物かのような扱いがはじまったんです」
当時の記憶の舞台に立っているのか、彼女の手は震えていた。
「思い出の上書をすることでしか嫌な記憶を消すことができなかった。それを実現できたのは、あなたが思い出を共有してくれたからなんです」
潤んだ目がわたしを見る。
「わたしはあなたに救われたんです」
「わたしは何もしていません」
早くこの場を立ち去りたくて、足がじりじりと向きを変えていく。
「また、会いに来てもいいですか?」
わたしは首を左右に振った。
「いいえ。来ないでください」
拒絶はされる方も辛いが、する方も辛かった。けれどわたしはこれからもどんどん姿を変えていく。変わってしまう。
彼女は困ったような表情で前に張り出したお腹をさすった。あの内側に新しい命がある。その子の誕生を心の底から祝ってあげることができない気がして、自分が怖くなる。
「来ないでください……お願いします」
わたしは中庭に向かうのをやめて廊下をひき返し、エレベーターに乗り込んだ。呼吸が乱れ、少し苦しかった。共有スペースでは幼い女の子が一人で絵本を読んでいた。あの頃の自分のようで思わず足を止めそうになるが、感情移入する前に部屋に戻った。
ここ最近で一番美しい空だ。わたし好みの、透き通るような薄い青空。こんな空の中を思い切り飛翔できたらどんなに気分がいいだろう。ここのところずっとベッドに寝た切りで体が重力に勝てず、邪魔に思うことが増えていた。
風の缶詰は常に手の届くところに置いてある。今はベッド横のテレビ台で、自分の出番が来るのをじっと待っている。時折、自分の存在を忘れられていると不安がるように、太陽光を反射させ、わたしにアピールしてくる。構ってもらいたいペットのように愛おしく、そんな時は手に取って、その艶やかな表面を撫でてやるようにしている。大丈夫。忘れやしない。ちゃんと最後にはあなたの力を借りるつもりだと念じ、何度も下書きをした言葉を頭の中で復唱する。最後に思い浮かべるのは誰の顔だろうか。この想いまでもが埋葬されてしまう前に解放しなければいけないと、缶詰に手を伸ばす。
賞味期限ではなく、使用期限などというものがあったりするのだろうか。どこかにひっそりと数字の刻印がされていないか、じっくりと指先でなぞりながらぐるりとまわしてみる。傷一つなく、銀色の水面のようである。そこに映る自分の顔は、この缶詰を手にした頃とは様変わりしている。けれどこれまでの日々を思い返すことは、自分でも驚くほど楽しい作業だった。
わたしはついにプルトップに指をかける。うまく力が加えられず何度か失敗した後、やっと弾けるような音がしてふわりとやさしい風が流れる。病室の扉が開いていた。風はそこから吹いてきたのだろうか。確かに閉めていたはずなのにと不思議に思って見つめていると、誰かが入って来る。
まったく。あなたって子は。と親し気に語りかける聞きなれた声。
お久しぶりです。と照れくさそうに話しかけてくる男性。
ごめんなさい。黙っていられなくて。と抑揚のない話し方。
無事に産まれました。男の子です。と言う人懐こい声と赤ん坊の鳴き声。
こじんまりとした個室がやけに賑やかに活気づく。
ごめんなさい。横になったままの姿勢で。と、わたしは姿勢を正すことのできない無礼を詫びる。見る影もなくなった姿で会うなんて抵抗があったはずのに、今は訪問してくれたことが本当にうれしかった。最期まで勝手でわがままな自分だなと思う。そんなわたしを受け入れてくれる人がこんなにいたことに、感謝しかなかった。
安堵したせいか指の力が緩み、缶詰が床へ落下する。軽い音を立てて転がり、役目を終えて出て行こうかとするように、開いたままの扉の外へ迷いなく突き進む。その時、缶詰を売ってくれたおじさんの声が蘇る。
「缶はちゃんと捨ててくれよ」
わたしはベッドから手を伸ばす。届くはずもないのに、缶詰を拾わなくてはと思う。誰かが病室の前の廊下を通り過ぎようとする。転がってくる足元の缶詰に気づき、腰を折り曲げて拾い上げてくれる。ああ、よかった、とわたしはその人の顔を見る。父だった。亡くなる直前の痩せてしまった体ではなく、生き生きとした健康的な父だった。父は缶詰を大事そうに胸元に寄せ、わたしを見て微笑んでいる。その姿を見て、わたしも微笑み返す。あんなに伝えたい言葉を幾度となく下書きし、清書して繰り返し呟いてきたというのに、いざとなると何一つとして正しい形を成すことなく、意味を持たない記号のようにバラバラになっている。わたしは父を呼ぼうと試みる。口からは細々とした吐息が漏れるだけで、声は出てこない。きっともう必要ないのだろう。風がすべてを運んでくれる。ここにいるみんなにも伝わっている。部屋の中の空気が揺れ、目じりから一滴流れ落ちる。深く息を吐く。もう大丈夫。なにも怖くない。わたしの生み出したささやかな風にも抵抗せず、病室の扉は静かに閉じていった。
【終】