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夜の底

  1

 ヘッドライトを照らした車が、ガードレールを挟んですぐのところを駆け抜けていった。自分の影が前から左へと流れていくのを目で追って、重くなった自転車を押す。じんわりと汗の滲んだ背中にシャツが張り付いて気持ちが悪い。

 城跡の公園には朽ちかけた藤棚に蔦が這い、その下には似たように朽ちかけたベンチが置かれていた。僕が半年前に彼女に告白した場所だった。そしてついさっき、その彼女にフラれた場所でもある。他に好きな人ができたから、と簡潔に伝えられて、彼女――いや、元カノは去っていった。僕はあまりに突然な告白に、少しの間呆然としていた。こちらの話なんて聞く素振りも見せず、あまりに一方的な独白だった。

 涙が出そうになった。

 それどころか、胃の中の物全てをぶちまけてしまいそうになった。腹の奥でとぐろを巻いた虚無感に似た何かが、胃酸ごと体の外へ出てこようとしていた。それでスッキリできるのならと、自転車を止めてコンビニのトイレで吐いてみたものの、酸っぱい味が口いっぱいに広がるだけで何も起こらなかった。

 涙が零れた。

 喉が胃酸で灼けたからだった。独特の臭気が鼻まで届いてさらに涙の量が増えた。涙が流れてしまえば悲しみも洗われてくれるかと思ったが、胃酸で涙目になるだけではだめらしかった。

 便器に顔をうずめていても、一向に気分はよくならなかった。それどころか、とても衛生的とは言えないようなところに顔を近づけていると、ますます気分が悪くなった。


  2

 何分くらいえずいていたのだろう。ふと我に返って立ち上がると、ドア越しに声を掛けられた。

「あの、大丈夫ですか?」

 若い女性の声で心配される。店員だろうか。外まで声が聞こえてしまっていたと思うと恥ずかしさに襲われる。

 僕は口元を袖で拭ってトイレから出た。外には案の定、この店の制服を着た若い女性が立っていて、俺の顔を心配そうに覗き込んできた。

「あの、大丈夫ですか?」

 声は高く、見た目も僕と同じくらいか僕よりも下に見える。十五、六だろうか。

「すいません。気分が悪くなっただけで、もう大丈夫なので」

 僕は恥ずかしかった。早くこの場から去るためにも、適当に答えて逃げ出したかった。

「あ、待って……」

 女性、――というよりは少女だ――は食い下がってきた。なんで呼び止める。商品を買っていないのは申し訳ないが、アルバイトがそんなこと気にするだろうか。

「私でよければ話聞きましょうか? シフトの時間もう終わるんで!」

 意外な言葉に僕の足は止まった。

「泣いてますけど、何かあったんでしょう?」

 僕は口を拭っただけで、涙を拭っていなかったようだ。口元を拭ったのとは逆の手で目を拭いた。


  猿飛飛鳥(さるとびあすか)。あのあとコンビニの裏で聞いた彼女の名だ。僕と同い年だと言った猿飛は、見ず知らずの僕の話を聞いてくれたどころか、缶コーヒーまで奢ってくれた。僕はブラックが飲めなかったから少し困惑したが、飲まないのも彼女に悪いので一口だけ飲むことにした。また吐きそうになりかけたが、何とかその嘔吐感は噛み殺せた。彼女はそんな僕の様子を見て申し訳なさそうな顔をした。

「ごめん、もしかしてコーヒー嫌いだった?」

「いや、大丈夫。さっき吐いたので喉がイカレてるみたいだ」僕はとっさに嘘をついた。都合よく声が掠れてそれっぽくなったのは幸運だった。

 彼女は顔を綻ばせた。その微笑みは夜の闇に紛れていても美しく感じた。

「それで、君はどうしたの?」

 猿飛は缶コーヒーを開けて、そう尋ねた。

「僕の本当に個人的なことだから……。話さなきゃダメ?」

「えー、だって缶コーヒー奢ったじゃん!」

 どうしても聞きたいらしい。同い年と知ったとたんに彼女は気安くなった。真面目に僕の話を聞こうという意思は感じられなかった。所詮、他人だ。コーヒーの肴程度にしか考えていないのだろう。その勝手な妄想に少し腹が立った。

「彼女にフラれたんだよ」僕はあきらめて素直にそう言った。

「え、それで吐いてたの!? 繊細!」

 その何気ない彼女の発言は、落ち着きつつあった僕の心をまたざわつかせた。喉の痛みが増した気がする僕は、彼女の言う通り繊細なんだろうか。

 酸っぱい唾を飲み込んで、僕は彼女に向き直った。僕が気を悪くしたと思ったのだろう、彼女はバツの悪そうな顔をして下をペロリと出して笑った。

「ごめん。言いすぎた」

「いや、いいんだ。事実だから」

 僕がそう言うと、彼女は意外そうな顔をした。

「なんか、あんまり気にしてなさそうだよね。吐いてた割には」

「大きなお世話さ」

 何か言う度に喉の奥からコーヒーの匂いが上ってきて気分が悪かった。

「じゃあさ、大きなお世話ついでに提案するんだけどさ」

 彼女は表情を変えて神妙な面持ちになった。 

「何?」

「私と一緒に家出しない?」

 アルミ缶をペコペコさせながら、彼女はそう言った。

「家出?」僕は呆気にとられた。

「そう。家出。君だって明日学校行って元カノちゃんに会いたくないでしょ?」

「それは確かにそうだけど」僕が口を噤むと、彼女は饒舌に語りだした。

「私の親、再婚してさ。私、家で空気なんだよね。だから家に帰りたくない、っていうかさ」

「へぇ」

「だから、一緒に家出しない?」

「いや、なんでその発想に至るかが全く理解できないんだけど」

「心中の誘いじゃないだけましじゃない?」

「比較対象が突飛すぎる」

 エライ人に声をかけられてしまったと思った。コーヒーなんか啜らずに帰ってしまえばよかったと後悔した。

 しかし、彼女の誘いには魔力があった。理性の裏側の僕はその誘いに頷こうとしていた。

「ねぇ、お願い。一緒に逃げよう」

「そう言われても……。お金なんてないし」

「お金なら私がだすよ! こう見えてかなり持ってるんだよ?」

 そう言って彼女は自分の胸をドンと叩いた。その時に缶に残っていたコーヒーの飛沫が飛んで、彼女の鎖骨の間のくぼみを汚した。

「そういえば、君の名前。聞いてなかったよね。なんていうの、君?」

舟木叡(ふなきえい)次郎(じろう)


  2

「エータロ! 早く!」

「叡()郎だって。そんな急がなくてもいいじゃん」

 猿飛飛鳥の後を追って、僕は駅の階段を上っていた。時刻は十九時になるかならないか。帰宅のピークを過ぎても、駅の構内にはそこそこの数のサラリーマンと学生の姿が見えた。逆に、スーツか制服以外を着た人は見当たらなかった。

「あの電車に乗ればいいんだよね?」

「うん」

 僕と飛鳥は東京方面に向かう電車に乗り込もうとしていた。飛鳥は東京に行きたいらしい。僕たち十七歳がこの時間から東京に行ったって、何もできないのは明白だ。彼女は一体何をしに行くんだろうか。

「ほら、エージロ乗って」

 飛鳥は、まるで散歩のときに言うことを聞かない犬のように僕を扱った

「なんで東京に?」

 僕は彼女の分の荷物を抱えて尋ねた。

「んー……。とりあえず東京なら何でもできそうじゃん」

「田舎モンの考えだね。未成年がうろついてたらすぐ補導されると思うけど」

「田舎モンって。エージロだってこの辺の生まれなら私と同じように田舎モンじゃん!」飛鳥は吠えた。

「僕は横浜生まれのシティボーイさ。田舎モンと一緒にしないでくれ」

「この辺の住民全員を敵に回したな!」

 電車の中で僕たちは話し、笑いあった。


 制服を着ていた僕は、怪しまれるといけないからと、飛鳥に着替えるように言われた。幸い、部活で使うはずだった着替えがあったからそれに着替えた。きっと制服よりはマシだろう。飛鳥もバイト先の制服から着替えて私服に身を包んでいた。白いシャツに濃紺のジーンズという、至ってシンプルな装いだ。彼女は東京で泊まるつもりでいるようだから、明日の分の服はどうするのか気になった。僕はこれ以上の着替えは持ち合わせていない。

「ここから東京まで何時間かかるの?」

 飛鳥は暗い窓に映る自分の影とにらめっこしながら僕に尋ねてきた。

「一時間くらいだよ」僕は簡単に答えた。

「一時間かぁ。退屈だね。エージロ、なんか面白い話してよ」

「最悪な振りをどうもありがとう。けど僕は面白い話なんか持ち合わせちゃいないよ」

「えぇ、あるじゃん。元カノちゃんとの話がさ」飛鳥は口を尖らせた。

「今日フラれたばっかりで面白く話せて堪るか」

 僕がそう言うと飛鳥はさらに口を尖らせた。

「なんだ、つまんないの」彼女の視線が窓から僕に向いた。「別にいいじゃん、元カノの一人や二人くらい。小学生じゃあるまいし」

「小学生って。え、もしかして今の小学生ってそんな進んでんの?」もしや僕は小学生以下ということだろうか。

「今の若者は進んでるからねぇ。エージロなんて足元にも及ばないでしょう」

 自分のことではないのに飛鳥は胸を張って偉そうにしている。

「そう言う飛鳥は元カレいるのかよ」僕は単に興味が湧いて尋ねてみた。

「いたわよ。二人くらい」

「へぇ」

「何よ、意外そうな顔して」

「いや、別に」

 実際、意外でもなんでもなかった。明るいところで見た彼女の容姿は間違いなく整っているし、男子ウケのよさそうな性格だ。僕が表情を変えたのは、彼女が汚されてしまったような感覚になったからだ。

「まぁ、私の親の話した途端、面戸黄さそうな顔して離れていったけど」

 そう言った飛鳥は、また窓の外を眺め始めた。

 僕はなんて言ってやったらいいか分からず、飛鳥と同じように窓の外を眺めることにした。

「ちょっとは気の利いたこと言いなさいよ」

 僕が窓の外に目を向けたのを見て、飛鳥は僕の腿をパシリとはたいた。

「……。反応しづらい話するのが悪いだろ」

「ふん。そんなんだからフラれるのよ」飛鳥はそう口にしてすぐに、「ごめん。言い過ぎた」と、謝罪した。

「ところでさ」

 気まずい空気が嫌なのか、飛鳥はすぐに口を開いた。

「東京で何したい?」

「東京で? 君が何するのか、こっちが聞きたいよ」

「いいから」飛鳥の眉が少し吊り上がった。

「……とりあえず君にまかせるよ」

「そっか」

 電車が止まる。車内の電光掲示板にはターミナル駅の名前が表示されている。


  3

 電車がゆっくりと減速してホームに入っていく。横向きにかかった力が僕を倒そうとして、組んでいた足をほどいて踏ん張った。

 飛鳥は勢いよく立ち上がりホームに出た。ホームには人がごった返している。彼女は人混みを抜けてエスカレーターに乗った。動く段差に足をかけて、彼女はちらちらと僕の方へ振り返る。何をそんなに急ぐのか、僕にも急ぐよう手招きをしていた。僕もエスカレーターに乗って彼女を追った。飛鳥はエスカレーターの上で仁王立ちして僕のことを見下ろしている。

「ずいぶん急いでるね」

「急いではいないけど……」

 そうは言うものの、興奮気味に見える。こういう幼さを前面に出せるのは、素直に羨ましかった。

 僕たちは踊り場で百八十度向きを変え、次のエスカレーターに乗った。

「ほら、同じ身長!」

 一段上にいる飛鳥は、頭の上で手を水平に振って僕と同じ目線になっていることをアピールしている。僕がそれを適当にあしらうと、彼女は唇を尖らせて背を向けてしまった。


 改札を通って、街に出る。地元の駅前とは違い、この時間になっても人は多いし、空も明るい。街行く人たちも心なしか冷たく見えてしまう。星のない真っ黒な夜空のせいだろうか。家出を咎められてしまうのではないかと、すべての人が敵に見えてくる。

「来ちゃったね」

 飛鳥も多少の後ろめたさを感じているのか、少しばかり緊張した面持ちでいる。飛鳥の白い喉から生唾を飲み込む音がした。

 陽気なコマーシャルソングの下、僕らは歩き出した。

「行先は?」

 彼女のことだから決めてなさそうだ。短い時間の付き合いだが、そんな気がした。

「まずは腹ごしらえ」

 僕の予想とは裏腹に、どうやら行くところは決まっているらしい。僕の前を歩く飛鳥の足には迷いがなかった。

「腹ごしらえって、どこへ」

 僕は飛鳥の背中を追った。

「ラーメン屋さん」

「ラーメン屋?」聞き返した声は裏返ってしまった。

「おいしいお店があるらしいの。ネットで見つけたんだ」

「へぇ」

 街の明かりとスマホの光でサンドウィッチにされた飛鳥の顔は綻んでいた。飛鳥はスマホに目を落とした。地図アプリを使って店の場所を確認しているらしい。彼女の細い指が画面の上を滑っていた。

 指が画面の上を何往復かしたあと、飛鳥の足が再び動きだした。

「ねぇ、エージロ」

「ん?」飛鳥は前を向いたまま僕の名前を呼んだ。

「エージロは東京(ここ)で何したい?」電車で僕が答えられなかった質問だった。「さっき聞きそびれちゃったから」

「急に来ることになったからな。特にないかな」

 ぼくがそう答えると彼女は口に手を当てて静かに笑った。

「なんだよ」

「いや、皮肉っぽい言い方だなぁって」

「……ごめん」

「んーん。いいの」

 僕が誤ると彼女はさらに笑った。飛鳥に笑われていることに、背中がむず痒くなった。

 笑いが収まると、飛鳥は黙ってしまった。沈黙が嫌で、何か僕から話さないと、と思っている間に飛鳥が口を開いた。

「あ、ここみたいだ」

 僕たちの歩みが止まった。一見普通の、どこにでもありそうなラーメン屋がそこにはあった。

 飛鳥が店の中に入った。僕もそれを追って店内に入る。夜の暗さに慣れてしまった眼に、オレンジがかった電球の光が染みた。

 その店は外観通りいたって普通のラーメン屋だった。L字のカウンター席に、いくつかのテーブル席。床は打ちっぱなしのコンクリートでざらりとした感触が足の裏にある。

 僕たちは食券を買ってカウンター席に座り、特に話もしないで出てきたラーメンを食べた。

 特に味わいもせずに僕は食べ終わってしまったが、隣からは飛鳥が麺を啜る音が聞こえていた。僕は残った麺ともやしを求めて、器の底を箸でひっかいていた。

 飛鳥の方を盗み見る。彼女はレンゲに麺を少し乗せ、口の近くに運んでから、口をすぼめて麺を啜った。油で光る唇に空想が踊りだした。あの唇に触れたことのある男はいるのだろうか、キスはしたことあるんだろうか。元カレがいると言っていたから、その人としたかもしれない。そんなことばかりが気になった。小麦になって粉にされ練られ、製麺されたくなった。

「む?」

 麺をほおばったまま、飛鳥が首を傾げた。僕は咄嗟に視線を反らした。

「ごちそうさまでした」

 ごくりと細い首から音がして、次に小さな声が聞こえた。見ると飛鳥は両手を合わせていた。僕もそれに倣って両手を合わせる。コップに残った水を飲み干して店を出た。

 店を出ると、飛鳥はその細長い指を目いっぱいに伸ばして、道の先を指し示した。次の目的地の方向だろうか。

 店を出てから、飛鳥の口数が極端に減った。彼女がしゃべらなくなってしまって退屈な僕は、キョロキョロと周りを見渡しながら彼女の後をついていった。見慣れない高さのビルに囲まれて居心地がよくない。そのビルの上には月が浮かんでいた。三日月とも半月とも言えないような中途半端な月に、余計退屈になった。

「なあ」

 何か目新しいものでもないかと周りを観察しても、とうとう何も見つけられなかった。僕は痺れを切らして飛鳥に話しかけた。

「お母さんの家」飛鳥は歩を止めたが振り向かず答えた。

「お母さん?」

 僕は鸚鵡返しをして、はたと気づいた。彼女の家は離婚したと言っていた。家出をしたのだってそれが理由と言っていたし、母に会うために東京に来たのか。僕は、そうかと小さく返すことしかできなかった。

 数分ほど歩いただろうか。飛鳥が立ち止まった。古いアパートが建っている。灰色の外観が夜空に紛れて輪郭がぼやけていた。

 飛鳥は躊躇せずにコンクリート製の階段を上がっていった。

「エージロ、どうしたの?」

 飛鳥は次の段に片足をかけて振り向いた。ジーンズが伸ばされて、白いアキレス腱が覗いていた。

「どうしたのって、僕も行くの?」

「え、あ、そっか」飛鳥は滑るように階段を下りてきた。僕に彼女の母親と会う理由がないことに気づいたのだろう。

「僕は適当なところで待ってるよ」

「え、んー、わかった」

 飛鳥の表情は僕についてきてほしそうに見えたが、数瞬の逡巡のあと、頷いた。

「飛鳥?」

 僕がこのアパートから離れようとしたとき、背後から声がした。女性の声で、どこか飛鳥に似ていたからすぐに彼女の母親なのだとわかった。

「ママ!」飛鳥の声がうわずった。

 僕にはお母さんと言ってはいたが、こちらが彼女の素なのだろう。ママ、とはなんとも可愛らしい呼び方だ。

 僕はゆっくりと振り返った。そこにはビニール袋を携えた女性が立っている。声が似ていたから、飛鳥をそのまま大人にしたような姿を想像していたが、飛鳥の長く黒い髪とは似つかぬ茶色のショートヘアーだった。しかし、街灯の明かりに照らされた顔をよく見れば、飛鳥の面影があった。

「その子は?」

「友達。ついてきてもらったの」

 僕の話になった。母の隣に行った飛鳥が僕のことを指さしていた。

「飛鳥、こんな時間に……。明日学校でしょう?」

「ないよ」

 すんなりと嘘をついた彼女に僕は目を細めた。

「今日泊まるところあるの?」

「んーん。ない」

 母と話す飛鳥は僕と話す時よりも幼く見えた。

「はぁ……。ま、来ちゃったものは仕方ないか。お茶でも飲んでいったら?」

「うん!」

「そこの君も」

「あ、はい」僕は素直に頷いた。

 飛鳥は慣れた足取りで階段を上がっていった。飛鳥の母もそれに続く。彼女のアキレス腱もまた、飛鳥同様に白かった。

 二〇二と書かれたプレートの下には金村と表札がある。飛鳥の苗字と違うことに気が付いて、彼女の両親が離婚してしまっていることに今更ながら実感した。

 促されるままに部屋に入ると、女の匂いがした。甘ったるい、それでいて少し安心感のある匂いだ。初めての女性の部屋に、僅かな興奮を覚えるとともに、耳が熱くなるほどの恥ずかしさを感じた。僕が匂いを嗅いでいたのはバレていないか、飛鳥と飛鳥の母を見た。二人はこちらを見ていなかった。

 ビーズの暖簾をくぐると八畳ほどのリビングだった。ソファーとローテーブルが置いてある。ローテーブルの上にはティッシュの箱と本がいくつかある。

「適当な所でくつろいでちょうだい。二人とも麦茶でいい?」

「うん」

「あ、ありがとうございます」

 飛鳥はソファーに遠慮なく腰かけて足を伸ばした。僕はどこに座ればいのか分からず、ローテーブルの横の床に直接座った。毛足の短い絨毯の感触が気持ちいい。

「はい、コレ」

 飛鳥の母がグラスに入った麦茶を持ってきて、ローテーブルに置いた。氷が浮いて、冷えたグラスについた結露した水が、テーブルを濡らした。コースターも人数分は無いのだろう。一人で暮らし、来客も少ないことがうかがえた。

「来るなら連絡してくれたらいいのに。どうしたの急に」飛鳥の母は麦茶を一口飲んでそう言った。

「あっちの家が居心地悪くって。来ちゃった」飛鳥は底抜けに明るく言った。

「そっか」

 飛鳥の母は、そんな娘の様子を一言で受け入れた。あっさりしすぎていて、まだ言葉が続くものかと二の句が継がれるのを待ったが、一向に飛鳥の母の口は開かれなかった。

「でも、あなた個人の事情に友達を巻き込んじゃダメじゃない」しばらくの沈黙のあと、そう言って飛鳥の母は僕のことを見た。飛鳥に妖艶さを足したような眼に見つめられて、少し背中が熱くなった。

「ええと、君、お名前は?」

「舟木です」

「舟木君か。君は飛鳥のお友達? それともボーイフレンドとか?」

 飛鳥の母はニヤリと笑ってもう一口麦茶を飲んだ。彼女のグラスだけお酒が入っているのではないだろうか。僕は苦笑を返した。

「違うよ! エージロはただのクラスメイトだって!」

 また飛鳥は嘘をついた。つく意味のない嘘だが、この設定を気に入りでもしたのだろうか。

「ふぅん、ごめんねぇ、飛鳥に付き合ってもらっちゃって」

「いえ、全然」

 飛鳥の母と初めて目が合った。たれ目がちの眼にぷくりとした唇。部屋に香る甘い匂いも相まって、その視線に心臓が元気になった。化粧を落としていないのか、ピンク色の唇が照明の光をよく反射していた。若々しく、飛鳥の姉のようにも見えた。

「私、ちょっとお化粧落としてくるね。二人で話でもしててちょうだい」

 そう言って飛鳥の母は立ち上がった。

 飛鳥を見ると、飛鳥も僕を見てはにかんだ。麦茶が空になったグラスを置いて、飛鳥は足を組みかえた。僕は何を話せばいいのかわからなかった。

「……」

「……」

 奥の洗面所から聞こえてくる水の音だけが部屋に流れていた。停滞した時間の中、白い壁がだんだん灰色に見えてくる。ソファーに沈んだ飛鳥の丸い腰がゆっくりと動いた。

 はたして、僕は退屈からくる苛立ちを、うまく隠せているだろうか。僕がいなくても進んでしまう会話。かまってもらえないという幼い苛立ちが、表情に出てしまわないか不安だった。

「エージロ、ありがとね」飛鳥はそう言って、またはにかんだ。

「ああ、大丈夫だよ」僕は何のことを言っているのかつかめなかったが、返事をした。

「んへへ」

「ご機嫌だね」と言って、嫌味っぽく聞こえてしまっただろうかと後悔した。

「……」

 やはり僕の一言で気を悪くしてしまったのか、飛鳥は黙り込んでしまった。

「……ごめん」僕は素直に謝ることにした。しかし、飛鳥は何も答えなかった。

飛鳥の手が僕の目の前に伸びてきて、テーブルの上の物を手に取った。

 飛鳥は暗い顔をしていた。

「おい! どこ行くんだよ!」

 飛鳥はいきなり立ち上がったかと思えば、勢いよく部屋から飛び出して行ってしまった。取り残されてしまった僕は何が何だか分からなかった。



  4

「あら、飛鳥は?」

 そこへ飛鳥の母が戻ってきた。

「いえ、それが今……」

「? 外に行ったの? どうしたんだろ」

 僕の視線がキッチンの奥の玄関に向いているので察したのか、飛鳥が出ていってしまったのを彼女も理解したらしい。

「コンビニでも行ったのかしら」そんな呑気なことを言って飛鳥の母はソファーに座った。僕も飛鳥を追おうとして浮いた腰を落ち着けた。

「舟木君、だっけ。君はホントは飛鳥とどういう関係なの?」

 飛鳥の母は視線を僕に移して言った。

「関係、ですか」

「関係よ。あの子は何にもないって言ってたけど、照れ隠しかもしれないし」

 つまりは僕と飛鳥が付き合っているのかと探りを入れたいんだろう。

「飛鳥の言った通りですよ。僕らは何でもない」

 数時間前まで他人だったのだ。一応クラスメイトということになっているらしいから――飛鳥のお気に入りの設定を尊重して――不用意な発言には気を付ける。しかし、飛鳥と僕の間になにもないことは事実だ。

「ふぅん。そうなんだ」

「はい」

 少しの間があって、

「ならオバサンと恋愛してみる?」

 飛鳥の母は言った。

「え」僕は目を丸くした。その数瞬の間に目が勝手に彼女の体を這いまわった。

「ジョウダンよ。沢山恋しなさい。若いんだから。」

 フフ、と笑った彼女の唇は、化粧を落としたのにも関わらず、光をよく反射して輝いた。ラーメン屋で描いた飛鳥への空想をこの人に重ねた。

「戻ってこないね、あの子」

 彼女は視線を玄関の方に遣った。目の前の艶やかな人に気を囚われてしまって、飛鳥のことをすっかり忘れてしまっていた。彼女はどうしたのだろう。

 確か、飛鳥は机の上に手を伸ばして、そこから様子がおかしくなったのだ。僕は姿勢を正して机の上を見渡した。

 机を眺める角度が変わって、机の上がよく見えた。ティッシュの箱の奥に隠れていたものも見えるようになった。一番に目についたのは小冊子。母子手帳だった。

 書かれた西暦は今年の物で、明らかに飛鳥を産んだときのものでないことが分かった。

飛鳥が飛び出した理由が分かった。僕も気が狂いそうだった。空想の世界が崩れ、彼女の現実味が増した。嫌悪感が襲った。真っ白なノートが泥を被ってしまったような、美しかった彼女が汚されてしまったような気持ちがした。

「ああ、これね。子どもができたの。飛鳥とお父さんは違うんだけどね」

 飛鳥の母は自らの腹を撫でながらそう言った。その慈愛の瞳には、僕はおろか、飛鳥さえも映っていないような気がした。僕は失望した。

「あの、僕もう帰ります」

 僕は居たたまれなくなった。この場にいるだけで胸が苦しくなった。

「あら、そう? ごめんね、大したおかまいもできなくて」

「いえ、僕らの方こそ突然押しかけてしまって……」

 僕は努めて申し訳なさそうな顔をした。少しでも油断したら、この人への嫌悪感で顔をしかめてしまいそうだったからだ。

 玄関に向かうとき、ドアを開けたままの洗面所が目に入った。その洗面器は汚れていた。

「あ」

 飛鳥の母は声を上げて、洗面所の扉を強く閉めた。

「ごめんなさい。悪阻が酷くって」

 そう言った彼女の唇は土色だった。僕は無言で靴を履いた。

「それにしても、飛鳥はどこまで行ったのかしら」

 僕のことを見送りに玄関までやってきた飛鳥の母はそう呟いた。

 僕は玄関を出た。来た時よりも少しだけ気温が下がっているような気がした。

「それじゃあ」

「ええ」

 僕は軽く会釈をしてから階段を下りた。

 階段の下で、飛鳥がうずくまっているのを見つけた。

「飛鳥」

「なに」

 声をかけて返ってきたのは不機嫌な返事だった。

「僕も見たよ」

「うん」

 飛鳥はそれ以外何も言わず立ち上がった。その眼には涙が溜まっているのが見えた。

「きたない」彼女は吐き捨てるように言った。

 そう言えるのは、彼女の身が清らかだからだろう。僕には彼女の涙がダイヤモンドのように美しく感じた。

「行こう」

 飛鳥が言った。僕は飛鳥に手を引かれ、夜の街に溶けていった。その夜の底は僕らを包みこんだ。


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