合わなかった狙い目
街灯の眩しさに目を細め始める暮れ時、学校帰りの道すがら、男は隣家の女性と遭遇した。
「……どうも」
「……はい」
男は目が合った。目を合わせてしまった。知人と目を合わせる瞬間、そこにはなんらかのアクティビティを仕掛ける義務が両者に生じる。それが嫌でたまらなくて、路上の石ころを見つめながら人生を歩み続けてきた男であったが、油断大敵とはまさしくこの事。誰もいないと決めかかって進んだ曲がり角、幼少時から交流のある最古にして最深の知人の目線がものの見事にクリーンヒット。困惑の揺れ、微弱たりとも波うたず、男は沈黙に凍りつく。しかしそれでは知り合い重ねたせっかくの月日に亀裂が走るような気がした男は、声帯の震えを最小限に抑えたもぞもぞ声を発し、急いで頭を下げた。女も対応に困ったようで、とりあえずの一言返事。それが今夕の出会いの始まりであった。
女は両手に凸凹膨らんだ、白いビニール袋を携えていた。できるなら、誰か持ってくれないだろうか。そう訴えるような眼差しで、力ませた腕を小刻みに震わせながら、男を見つめていた。
「あの。それ、持ちましょうか?」
流石にガン無視はできなかった男。
「はい。ありがとうございます」
女は力無く笑った。
華奢な女の体格には似合わぬほど、大量の買い物品。帰宅部主催全国根暗大会なるものがあれば歴史的圧勝をもって王座に君臨できるほどインドアの男は、両腕の力でようやく一袋の重量を持ち上げた。
「……ごめんなさいね。重いでしょう?」
「いえ、なんともありません」
男は声を詰まらせ、顔面は昇る血で真っ赤に染まる。
「セール期間だから、つい買いすぎてしまうのよ。ごめんなさいね」
「いえ、なんともありません」
男は同じ言葉を繰り返すだけで精一杯であった。
「……本当、たくさん、買ってしまうのよ」
男は黙る。気まずさが一気に募る。俯く女の意図は容易く汲み取ることができた。女はつい1週間前、夫を亡くしたばかりであった。大学進学を期に引っ越してきた女。その時男はまだ小学一年生であった。それから9年後。結婚したい、結婚したいと嘆いていた女は、ようやく運命の人と出会い、誓いの口付けを交わした。それからわずか1年であった。巡り合った運命の残酷なこと、夫は帰らぬ人となった。悲壮に暮れる胸の内、いかほどか。男は暗く息苦しくなる。女一人にしては重すぎる買い物袋が、より一層重みを増したように感じられた。
「うっ、んっん」
と、軽く咳払いして、男は発声の準備をする。
「あの。その腕時計、綺麗ですね」
男は早く話題を切り替えたくて、目についたものを取り上げて、会話に放り投げた。
「ああ、これ? これ、結構値の張る高級品なのよ。君にはまだ早いかもしれないけど」
「……なんか、すみません」
期待したよりも鈍い反応に、なぜか男は償えぬほどの罪悪感に襲われて、すかさず謝罪を口早に発した。
「ふふ、何を謝っているの? ありがとう。女を褒める優しい男は、狙われるわよ」
男は黙り込む。体の中で一気に炎が広がって熱くなる。女性の何気ない冗談を、過度に艶やかに受け取って、頓珍漢な方向に飛翔していく、誠に憐れなお調子者。未亡人に欲情の糸を心に絡めてしまった男は、一層の罪悪感がおし広がった。
「……すみません」
そう一言添えて、会話は終わった。
「今日はありがとう。ごめんね、重かったでしょ?」
「いえ、何ともありません」
結局無言に固まり終えた帰り道。幸運にも、男は「気まずさで死ぬ」という、人類初の偉業を成し遂げることなく、家にたどり着くことができた。男は最後の力を振り絞って、買い物袋を女に手渡す。手のひらには、まるで悪魔の紋章のように赤い一線が跡づいていた。
「それじゃあね」
「は、はい。で、では、また、今度……」
女は静かな笑みを浮かべたまま、扉を閉めた。いや、未亡人に「また今度」って、何を言っているんだ。男は再び後悔する。しかし同時に、悲しみの中でも輝く女の笑顔に深く胸打たれて、つい飛び出た言葉でもあった。男は女に別れを告げて、隣の自宅へ姿を消した。
それから1週間経過した、ある日の帰り道。誰とも目を合わせない。たらちねの乳房をぶら下げた露出狂が堂々と闊歩していても、決して目を合わせない。そんな男の揺るぎない意志が功を奏して、三度の飯より欲そそるたった一人の帰り道、目線を合わせぬ孤独の闘い、現在無敗記録更新中であった。
「ふう」
と、男は、名前の知らない星たちが点々と煌めく黄昏の空に向かって息を吐く。そして、あろう事か思いがけずに合った目線。合ってしまった目線。自宅を目前とした道端、見上げた先には、隣家の2階の窓際に立つ女の姿があった。
「……どうも」
男は反射的に頭を傾ける。応じて女は、健やかな笑顔を送りながら、一礼する。やってしまった、と男は何もかも負けてしまったような気がして、恐ろしさすらも感じた。しかし、その程度の恐怖がアリの巣並みに小さい序の口であったことは、即座に、否が応でも受け入れる羽目になった。男がきまり悪くもう一度見上げた先に見えたもの。女が立つ窓際よりも部屋の奥。男は、ひとつの人影を捉えた。クローゼットで半身隠れているが、それは間違いなく、明らかな人の形であった。男は急いで目を逸らす。が、どうしようもなく気になって、あともう一度だけ、と思って顔を上げるも、2階の窓はすでに灰色のカーテンで閉じられていた。
見てはいけないものを見てしまった。ひとえにそう思った男は、すくみ震える足を鞭打ち奮い立たせて、すぐ隣の自分の家に駆け込んだ。得体の知れぬおぞましさが男の心と体をひどく乱れさせ、その夜は一睡もできぬまま、暴れる心臓片手に毛布にくるまっていた。
何とか睡眠にこぎつけたのは、街が日の出に照らされ始める時分であった。しかし、やっとのことで手に入れた、瞼の裏に入れた貴重な夢の世界も、目まぐるしい騒々しさで雲散霧消した。男は何事かと飛び起きてカーテンを開けると、早朝の住宅街を険しく照らし回す赤いランプが一目散に飛び込んできた。車体を塗装する白黒は、寝起きの不明瞭な頭でも判然とその意味を飲み込ませるほど、強烈な一つの暗号として、家の前に存在していた。周りには、顔見知りの住民たちが、そろいにそろって寄り集まっていた。
「あっ!!」
と、その群衆の中の一人が声をあげた時、視界の端から、数人の警官が塊になって現れた。どよめきが波になって広がっていく。慌ただしく足を進める警官たちに囲まれたその人に、男は身体の色が全て抜け落ちるほどの驚愕を覚えた。
「……」
声が出ない。心の中でさえ声が響かない。目と目が合う二人。女は、憔悴していた。それは、誤魔化さず、包み隠さず、全てをあるがままに語り尽くすようであった。運命を運命に引き裂かれても、微笑むあの逞しさは、嘘であったかのように消え失せていた。男は混乱して困惑して錯乱して混沌として、何が起きているのかわからぬまま、何が起きているのかをわかろうとしないまま、乱暴にカーテンを閉じてベットに潜り込んだ。これは何かの夢だ、ひどく悪趣味な夢だと、男は必死に目を閉じるものの、その夢から醒めることはなかった。