魔王ガレンゾオルの憤激
大幻晶王国の辺境にある、平和な村。最近は、封印から解かれたという魔王の呪いによる影響が出始め、アニマの近辺に魔王の眷属が巣くう洞窟があるらしいということで、聖剣の勇者はその討伐に訪れていた。何のことはない、普段と変わらぬ簡単な仕事。少なくとも、聖剣の勇者はそう考えていた。
……突如、荒れ狂う黒い嵐を伴って、魔王本人が現れる、その瞬間までは。
「許せぬ……許さぬ……! 憎い……憎い、憎い憎い憎いィッ!『焼却式! 天に地に生きる万物万象よ! 悉く滅べぇぇェッ!!』」
魔王ガレンゾオルのおぞましい怨嗟の声が、あたりに響き渡る。全ての生命を呪う声は、世界法則に憎悪に満ちた命令を与え、あたりを焼き尽くす滅びの炎を巻き起こした。大幻晶王国の痛み、憎しみを束ねる魔王の願いは、その言葉の通り、そこに生きる全ての意思あるものの滅びである。
だが、聖剣の勇者には、そんな願いは認められない。意思をもって生きるものは誰しも、不当に虐げられ、そのまま死んでいくことを、黙って受け容れることは出来ない。ならば、たとえ準備も覚悟も何もかもが足りていなかろうと、聖剣の勇者はただ立ち向かわなければならない。
「やめろっ!」
勇者はそう叫ぶと、剣を抜き放ち魔王ガレンゾオルに飛び掛かった。しかし勇者の身体は一瞬にして、魔王の一瞥に吹き飛ばされる。
「ぐあっ!?」
壁に叩きつけられて、勇者は床に転がる。勇者には、何が起こったのかが理解できない。魔王は本当に、ただ勇者を見ただけだ。魔王から迸るどす黒い魔力は、否応なく体で感じられるが、その魔力の流れに吹き飛ばされたわけではないことも分かる。これはもっと異質な何かだ。
魔王の陰惨に光る、淀んた瞳が、ぼんやりと勇者を見ている。次第に焦点が合ってくると、滾る憎悪が噴き上がる。
「ググ……グググ……何だゴミムシ。矮小なるもの。俺に何の用だ……この俺にィ! 一体何用だぁァッ! 貴様の如き矮小なものが! この俺の眼前に意味もなく現れるなァ! 現れるなぁァッッ!!」
魔王ガレンゾオルの全身から膨大な魔力が立ち昇り、勇者はその魔力によって空間が歪むような錯覚を覚えた。圧倒的な力の差を前にして、足が震えそうになる。だがそれでもここで引くわけにはいかない。
「魔王! お前はどうして何の罪もない人を傷付ける!? お前の行動は許されない! どうして……」
「あぁ……ぁぁァアアアッッ!! 喧しい……喧しい、喧しい喧しい喧しいィッ!! 耳障りだ! 囀るな……喋るな!吠えるなァッ!『今すぐその薄汚い口を閉じろ!』」
「ぐっ!?」
激昂した魔王が叫ぶ。勇者は魔王の言葉に逆らえず、口を開く事が出来なくなった。まるで縫い合わされたようだ。
「聞かない……聞かない、聞かない。嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だァ! 俺の声は誰にも届かない! 届かなかった、届かなかった……!! アァ……ァァァアあああッッ!!」
声が届かない、というのは有り得ないような大音声で、魔王ガレンゾオルは慟哭している。癇癪を起こした子供のような振る舞いに、勇者は甚く困惑した。慰めないといけない、と反射的に思うが、口を開くことは出来ないので、声をかけることも出来ない。
「許せない……許せないよぉ。どうしてどうして、どうして僕は……僕は、おれは、俺は俺は俺は! 俺はただ! 不当に傷付けられなくなかっただけだッ! だがァッ! 俺は俺だぁァッッ!!! うわああぁァァッ!!!」
勇者には、魔王ガレンゾオルの言葉の意味はわからないが、その言葉に深い悲嘆と怒りが込められていることがわかる。
(魔王の行いは許せない。だが、寄り添わなければ、この暴虐が終わることはない。声をかけることが出来ないなら、せめて駆け寄って触れ合うべきか)
そう思い、勇者は震える足を叱咤して、魔王に駆け寄った。だが。
「来るなぁ! 寄るな寄るな寄るな寄るなァァッッ!! 近付くな近寄るな寄るなァァァァッッ!!『下郎がァッ!疾く止まれぇェッ!』」
「……!?」
今度は勇者の体全体が止まった。一切身動きが取れず、最早呼吸すらも出来ない。このままではすぐに死ぬだろうが、勇者に出来ることは既に何もない。
「ァア……うあぁ……どうして……どうして。悲しい、こんな悲しみは要らなかった、必要なかった。……僕達の望みは、こんなことじゃなかった……! 私たちは、俺達は必要なんかじゃなかったッ! 生きる思いが、尽きぬ欲望が、薄汚い生命が! この世に悲しみ、怒り、痛みと不幸を齎すのならァッ!! こんな世界はさっさと壊れてしまえェェッッ!!」
空に向かって、魔王ガレンゾオルは咆哮した。刹那、魔王は今までの熱が突如冷めきってしまったように、異常に冷たい目つきで勇者を睨め付ける。
「ゴミムシは寄り添うと言ったがァ……俺とゴミムシは、本質的に相容れん。生を望むお前らと、死を望む我々。俺に寄り添うというなら……俺の望み通りに、さっさと死ね。ググ……グググ……!」
魔王ガレンゾオルは嘲笑い、勇者が息絶えるさまを眺めている。苦しみに藻掻く勇者は、程なくして息絶えた。
「ググ……グググ……。所詮こんなものか……。聖剣の勇者も最早口先ばかり、命を繋ぐことの意義も、既に失われつつあるようだナァ……? なれば、我らの悲願も直に叶う。先達の成し得なかった大願を、このガレンゾオルが成し遂げてみせよう。……僕たちはもう休んだっていい。……うん、みんなで消えよう。永遠に目覚めることもなく、悲しみも苦しみも、何もない命渦へ」
あらゆる生命が死に果てた焼け跡の中で、魔王ガレンゾオルは安らぎに満ちた声で独りごちる。
「永く続いた生と死の闘争は、今度こそ死を是として終わるのだ。……もう二度と、繋ぎ止められなどするものか……!」
聖剣の勇者が死んだことで、焼け跡の中に新たな聖剣の勇者が選ばれても、そんなことは魔王ガレンゾオルには関係のないことだった。