3話「遅すぎた来訪者」
その日の夕方、とりあえず倉庫の物を全て空き部屋に積み込んで業者さんに取り壊しを始めてもらった。
作業を始めた時間が遅かったこともあって、とりあえず今日は出来るところまでで終了。続きはまた後日ということになった。
元々無計画な両親が考えたことだ、そんなに急ぐ必要もないだろう。そんなことよりも今の俺には早急に解決しなければならない問題があった。
「…………本当に、いる」
そっとリビングを覗く。そこにはやはりこの場所には似つかわしくない金髪美少女の姿があった。ソファに座ってじっと本を読むその姿は、一見して外国人そのものだ。
けれど醸し出すその雰囲気は“そういうこと”に疎い俺でもすぐに分かる程異質だった。彼女は間違いなくアストリア大陸のリリィ・アルフォートなのだ、と確信めいたものすら感じる。
「一体どうなってるんだよ」
いくら考えても答えは出ない。俺は頭を掻きながら僅か数時間前の出来事をまた思い返すのだった。
◇◇◇
「えっと……リリィって、あのリリィ・アルフォート?」
「もう、どうしたんですかそんなムーが坂から滑り落ちた、みたいな顔して」
「ム、ムーが……なんだって?」
「もしかして私を抱きしめてくれたときに頭でも打ったんじゃないですか!?それで記憶が一時的に……待ってください、以前もこんなことがあったと思いますのですぐに治療しますから!」
目の前で勝手に話を進める彼女は自分をリリィ・アルフォートだという。
あの“アストリア大陸記”に出てきた貴虎の相棒、風属性使いのエルフ族、リリィ・アルフォートだ。
でもそんなことあるはずがない。だってリリィ・アルフォートはあくまでもじいちゃんが書いた空想の世界の話の登場人物なのだから。
もしかして夢でも見ているのではないかと頬をつねってみる。
「痛い」
「分かってます!ちょっと待ってくださいね……ええと」
しかし痛覚はこれが現実であることを俺に示してくれる。ならば彼女の方が幻想なのだろうか。俺はそっと彼女に手を伸ばす……が位置が悪かった。
「あ」
「……え」
確かに感じる柔らかな感触。丁度胸の位置に手が当たってしまったらしい。
今まで全く気が付かなかったが彼女の来ている服は少し、いやかなり露出度が高い。殆どネグリジェのような格好なのだ。そのせいでよりリアルな感触が――
「……シ」
「あ、悪い!そういうつもりじゃ」
「シングルブラストッ!!」
「え――」
それは一瞬のことだった。
リリィ・アルフォートが叫ぶように言葉を発した瞬間、俺は何かに押されたように倉庫の更に奥まで吹っ飛ばされてしまった。
あまりの衝撃に一体何が起きたのか理解することも出来ない。でも確か彼女の言葉はどこかで聞いたことがあるような気がする。
「い、いってぇ!」
「た、貴虎が悪いんですよ!?そうやって貴方はいつも私のむ、胸をさ、触って!貴方には心に決めた人がいるのでしょう!?」
「い、いや俺は」
「その方に悪いと思わないのですかっ!?確か千代さんでしたよね?こうなったら私から千代さんに直訴します!折角久しぶりに会ったのに貴方ときたら相変わらず……!」
「ち、千代……?」
リリィ・アルフォートから出た言葉は、やはり聞き覚えのある名前だった。
俺のばあちゃんの名前、天草千代。そして貴虎の想い人だという。つまりこの金髪少女は俺のことを“彼”と間違えている……?
「リリィ・アルフォート、さん?」
「言い訳なら聞きませんよ?というか何ですか、その他人行儀な呼び方は。いつもみたくリリィと呼んでください。そう決めたのは貴方でしょ、貴虎」
「俺、貴虎じゃありません」
「…………え?」
その時の彼女の顔は先程の言葉で言うならば間違いなく“ムーが坂から滑り落ちた”ような表情だった。話を聞いてもらうなら今しかないと、俺はとりあえず話を続ける。
「俺の名前は天草虎鉄、アンタが言ってるのは貴虎、つまり天草貴虎のことだろ」
「えっと、え?」
「よく見てみなよ。確かに血は繋がっているけどさ、貴虎ではないだろ」
俺の言葉に耳を傾けてくれたのか、リリィ・アルフォートはじっとこちらを見つめる。
その深い緑色の瞳に思わず吸い込まれそうになる。本当に彼女はこの世界の住人ではないのだと、確信した。
「…………確かによく見れば、違います」
「だろ?俺は天草虎鉄。確かに貴虎は家族だから多少は似ているかもしれないけど」
「初対面なのにこのような無礼を働いてしまい、申し訳ありませんでした。いきなり風魔法をぶつけるなんて、エルフ族失格です」
どうやら誤解は解けたようで、リリィ・アルフォートは深々と頭を下げた。その態度が他人行儀過ぎて、俺は少し後悔する。
当然、俺たちは見ず知らずの他人なのだからこの対応は正しい。けれど直前までの彼女の態度があまりにもあの本のリリィ・アルフォートそのものでだったので、出来ればもう少しそんな彼女を見ていたかった。
「いや、俺も突然のこととはいえちゃんと説明してなかったし。だからそんなに謝らないでくれよ、な?」
「ありがとうございます。流石貴虎……さんの血縁の方、同じくお優しいのですね」
「優しいって大げさだよ。俺は別に優しいってわけじゃ……」
普段真正面から感謝されることになれていないせいか、どうも気恥ずかしくて照れてしまう。そんな俺を見て、リリィ・アルフォートはくすっと笑った。
「あ、ごめんなさい。そうやって照れているところも貴虎さんそっくりなので、つい」
「そうなのか」
「そうなのかって……普段から一緒にいれば分かるでしょ?」
「それは、その」
「ああ、そうでした!貴虎……さんはどこにいますか。ご家族の貴方がいらっしゃるということは彼も近くにいるのでしょう?もしよければ、ええと」
「……虎鉄」
「虎鉄さん、貴虎さんのところまで案内して下さいませんか」
リリィ・アルフォートは笑顔で、そう言った。
もう不可能なことを、当然できるだろうという言い方で。一体どう説明すればよいのだろう。彼女のこの様子は明らかに貴虎、つまりじいちゃんが生きていると確信して話している。
そもそもどうしてそう思うのか。アストリア大陸記の記述が確かならじいちゃんがリリィ・アルフォートたちの世界に行ったのは今から約70年も前の話になる。
彼女は自分のことをエルフ族といった。異世界のことは全く分からないが、少なくともじいちゃんが書いた話の中では俺たち人間とエルフ族との間に、そんな寿命の格差はなかったと思う。
大体70年も経っていれば、当然年も取っているわけで。目の前にいる彼女もそうだが、どうして俺のことをじいちゃんと間違えることが出来たのか。
そこまで考えたとき、俺はある一つの、残酷な可能性に気付いてしまう。
「……あ、あの虎鉄さん?怖い顔して、どうかしましたか」
「いくつか質問して、いいか」
「は、はい」
「じい……貴虎が異世界にいたのは、確か半年くらいだったよな」
「確かそうでしたね。というかよくご存じですね?あ、貴虎さんに聞いたんですね、私たちのこと!」
「それで、貴虎がその……そっちの世界からいなくなってどれくらい経ったのかな」
今日何度目か分からない、胸の高鳴り。
でも今のこれはこれまでとは全く意味の異なるものだった。もし俺の考えが正しければ、きっとリリィ・アルフォートの答えは恐ろしく残酷なものになるはずだ。出来ればそうでないで欲しい、そう思う俺の願いは――
「えっと、大体3年くらいですかね多分」
「さん、ねん……」
「はい。私やルイが中央アカデミアを卒業したくらいですから、おそらく」
いともたやすく打ち砕かれた。
つまり彼女はたった3年しか経っていないと思っているが、実際は70年の時間が経過していたということだ。いや事実異世界では3年しか経っていないのだろう。でなければ彼女が未だアストリア大陸記に記載されていた容姿から変わっていない理由が説明できない。
つまりこの世界とアストリア大陸では、流れる時間は大きく異なっている。
「……そう、か」
「あの、それで貴虎さんはどこに?」
一体何と説明すればいいのだろうか。適当に誤魔化すわけにはいかないし、誤魔化し方も分からない。俺はどう説明しても彼女を傷付けることになることを、話さなければならないのだ。
「いないんだ」
「いないって……それじゃあどこに」
「落ち着いて聞いてほしい。頼むから、口を挟まないで聞いてほしい」
「は、はい」
俺の異様な雰囲気を感じ取ったのだろう、それまで彼女を覆っていたほんわかとした雰囲気がなくなった。俺は一度深呼吸をしてから、一気に話し出す。
「結論から言う。アンタの探している天草貴虎は、もういない」
「えっと、え?」
「貴虎は、俺の祖父……じいちゃんなんだ。俺は天草虎鉄、貴虎の孫に当たる。俺自身、じいちゃんに会ったことはない。俺が生まれる前にもうじいちゃんは……」
深い緑色は信じられないくらい揺れていて、俺は思わず口を閉じようとした。
でもここで話を終わらせることはきっと何の解決にもならない。俺が彼女にしてやれることは、事実を話してやることくらいなのだから。
「じいちゃんは、死んだんだ。もう、何十年も前に」
倉庫が静まりかえって、まるでこの世界には誰もいないようだった。
どれくらいの時間、沈黙がこの場を支配していたのだろうか。しばらくして、今にも泣きだしそうな表情をしたリリィ・アルフォートが口を開く。
「…………そ、そんなわけない」
「リリィさん」
「そんなわけないっ!!だってあれから、貴虎が私たちの前からいなくなってからまだ経ったの3年しか」
「70年、経ってるんだよ」
「は……?」
「この世界ではもう、70年も経ってるんだ。リリィさんたちの、アストリア大陸ではまだ3年しか経ってないのかもしれない。けどな、もうこっちの世界では70年っていう月日が、人が死んでしまうくらいの月日は経っているんだよ」
「…………う、嘘よ。そんなの嘘」
「嘘じゃない。嘘じゃないんだよ、リリィさん。もう貴虎は……じいちゃんは」
「そんなの嘘っ!!」
それは彼女からは想像も付かないほどの、痛々しいまでの叫び声だった。
「……いきなりこんなこと言われて、信じられないのはよく分かる。でも現に」
「しょ、証拠はっ!?」
「俺が証拠だよ。貴虎に孫がいるっていうことが、何よりの証拠だろ」
「そんなの、貴方の嘘かもしれないでしょ!私は信じません。貴虎は死んでなんかいない。彼がそう簡単に死ぬはずがないんです……!だって私は彼に会うために……」
きっと彼女も心のどこかで俺の話を認めているのかもしれない。今にも消え入りそうな声が、そう俺に教えてくれていた。
でもこのままでは彼女は納得しないだろう。だから俺は残酷なのかもしれないけれど、一番リリィ・アルフォートが納得できる証拠を見せる。
「どうしてもって言うなら、読んでみるか」
「……読む?」
「じいちゃんはこの世界に帰ってきて、一つの本を書いたんだ。異世界での大切な仲間たちとの冒険譚を。それを読めば、きっとアンタも納得する」
「そ、それって」
「“アストリア大陸記”、アンタが住む大陸の……名前だろ?」
◇◇◇
それから業者には見られないように彼女をリビングに連れてきて、ボロボロの“アストリア大陸記”を渡した。
彼女は何も言わず、もう何時間もああしてソファーに座り込んで本を読んでいる。そんな彼女に俺が出来ることは、もうない。たまにこうして様子を見てはお茶とお菓子をそっとテーブルに置いてはいるが、一向に減る様子はなかった。
ただ様子を見に行くたびに彼女の頬に涙の痕が増えていくのは、見ていて少しだけ辛かった。
「…………ありがとう」
時計の針が深夜を超えた頃、様子を見に来た俺に対してようやくリリィ・アルフォートは声を発した。
それは俺が会った時とは想像も出来ないほど弱弱しいものだった。
「読み終わったのか」
「うん」
「そうか」
「……隣、座らないんですか?」
「……ああ」
促されるままに彼女の隣へと座り込む。しばらくの沈黙がリビングに流れた後、ゆっくりと彼女は口を開く。
「変な話ですね。まさか自分の体験をこうして、追想することになるなんて」
「俺、小さい頃からその本が大好きだったんだ。読むとワクワクしたし、凄い勇気をもらえる気がして」
「そうなんですね。それで、こんなにボロボロなんですか」
「昔はよく言っていたんだ、いつか俺もこの“貴虎”みたいになるって」
「アストリアの子供たちも、そうでした。貴虎がアストリアを救ってくれて。彼は英雄になったんです。皆が彼を慕っていました」
「俺、じいちゃんのことはよく知らない。だけどきっと立派な人だったってそう思うよ。親父もいつも言っていた。じいちゃんみたいな立派な……あ」
きっともう我慢の限界だったのだろう。リリィ・アルフォートの瞳から、大粒の涙が流れ落ちた。それはもう止まることはなくて、静かに彼女は泣き続ける。
「もう……いな、いんですね……っく……た、貴虎は…………もうっ……!」
「…………ごめん」
「あ、あああああああっ……!!」
「ごめんな」
その時、俺は生まれて初めて誰かを抱きしめた。
でもその身体は思ったよりもずっと小さくて今にも消えてしまいそうだった。だからせめて消えてしまわないように、俺はいつまでも彼女を抱きしめていた。
――長い一日が終わろうとしたとき、俺は彼女にじいちゃんの墓参りに行こうと提案した。
自分でもなぜそんなことを言ったのか、正直よく分からなかった。でもこの時はどうしてもそうするべきだと思ったんだ。
リリィ・アルフォートは俺の提案を黙って受け入れて、そして死んだように眠りについた。
誰かの泣き顔を見るのも、誰かを励ますのも本当に久しぶりのことで、俺は中々眠りにつくことが出来なかった。