20話「意地」
「…………ん」
目が覚めると視界には見慣れた天井、ではなく青空が広がっていた。
思わず起き上がると草の匂いと共に目の前に広がる庭が目に入る。頬をつねってみるがちゃんと痛い。全くもって信じられないが、どうやら俺は庭で寝ていたらしい。いくら初夏だとは言え、外で寝るなんて酔っぱらいくらいのものだろう。
「背中がそこはかとなく濡れてる……。でも筋肉痛は大丈夫みたいだな」
昨日は武道祭前の総仕上げ、いつもより早めに鍛錬を終わりにしてゆっくり休むはずだったのだが何故か庭で寝ていたようだ。
まあ昨日まであった筋肉痛は完全になくなっているので、まずは一安心だが。
「ようやくお目覚めか、この寝坊助め」
「ルイ、おはよう。つーかなんで俺、こんなとこで寝てるんだよ」
ルイは呆れ顔をしながら庭先に座っている。そんなルイの姿を見て、ようやく俺は昨日のことを思い出したのだった。
「あ、俺――」
「思い出したか。最後の仕上げということで私に技をぶつけただろう。それでその……つい、な」
浮かぶ映像はたった一瞬、それでもルイの鋭い一撃が俺の脇腹を捉えていた。そして俺はすぐに意識を手放したのだ。
「お、お前なぁ!?」
「弟子が師匠にお前とは何事だ!大体お前が悪いんだぞ。この未熟者が!たかがあれしきで気絶するなんて情けない!罰として今日からランニングを5キロ追加しなければな!」
「お、横暴だ……!大体“本当に習得したのか見てやるから打ってこい”って言ったのはルイの方だろうが!」
「うっ……!し、仕方ないだろう!私が予想していたよりもずっと練度が上がっていたのだから!思わず力加減を間違えてしまったんだ!」
苦し紛れにそう言ったルイの表情から嘘をついている様子はない。そしてそれは俺にとってとても嬉しい言葉だった。ルイが予想したよりも俺の練度が上だったということなのだから。
「それじゃあ……!」
「うん。この数日間、根を上げず本当によく頑張ったな。今の虎鉄ならばある程度はやれるだろう。自信を持っていいぞ」
「ありがとう、ルイ」
「勿論、油断は大敵だからな?いくら練度を上げたといっても技は一つしかない上に、話を聞く限り総合的に見ればどう考えても相手の方が実力は上だ。常に隙を窺い、その一瞬を決して逃すなよ?お前はすぐに油断するから心配だ」
ルイの説教も今だけは心地が良い。
勿論本音を言えば俺の出番なんてない方が良いに決まっている。リリィだけで終わるなら波風も立たないし、それが一番だ。けれど武道祭、特に剣舞は怪我が多い競技だ。だからもしものことがあれば、その時は。
その為にこの数日間、俺は特訓してきたのだ。
「ふぅ」
見上げた青空はどこまでも澄み渡っていて、俺のことを祝福してくれているよう――
「…………ん?」
そこでようやく俺はある違和感に気が付いた。
あれ、太陽ってこんなに高い位置にあったっけ?それになんだかいつもより外も活気づいているような気がする。
胸騒ぎを覚えながらリビングに戻り時計を見ると、時計はしっかりと朝の10時を示していた。今日は体育祭だからホームルームは9時からで、開会式が10時。つまりこれはそう、そういう事なのだろう。
「………ね」
「どうした、虎鉄。とりあえず朝ご飯にしようじゃ――」
「寝坊してるじゃねえかぁぁぁぁあ!!!」
閑静な住宅街に俺の声だけが響き渡るのだった。
リリィは一度息を整えながら、改めてもう一歩大きく右足を踏み込んだ。
「はぁぁぁぁあ!!」
目にもとまらぬ速さでリリィの放った突きが相手選手に、まるで五月雨のように降り注ぐ。
「うっ……!」
たまらず交代する相手を、リリィが逃すはずもなく更に追撃をかけていく。
もしこれが剣舞ではなく本当の“決闘”ならば、相手の身体はとっくに穴だらけになっていただろう。それほどにリリィの剣術は圧倒的だった。
(あと少し……!)
状況は既に白色の帯の選手、リリィ側が胴突きで一本を先取している。このまま端まで追いつめて隙を見極めてもう一撃を入れればそれで終わりだった。
自分の猛攻に耐えきれずどんどん奥へ後退していく相手をみて、リリィは勝利を確信していた。
「これは凄い猛攻ですっ!ハンドボール部の怒涛の攻めに、バスケ部は何も出来ない!」
体育館に萌子の声が反響する。放送部はメインである体育祭に駆り出されているため、青春同好会は助っ人の依頼を受けていた。
長机には自分で作ったのだろうか、“実況”と書かれた札を置いて萌子が座っている。そして隣には“解説”と書かれた札の前に姉である杠早苗が座っていた。
「これはもう決まりでしょうか!どうでしょう、解説の杠先生」
「いやぁ、凄いね転校生。向こうの国でフェンシングでもやってたんじゃないか?」
「確かにハンドボール部、リリィ選手の突きはフェンシングのそれを思い出させます!」
「でも竹刀は結構重いはずだからね。あれは意外と鍛えてると見た。……決まりそうだからそろそろ煙草、良いかな?」
「駄目です」
リリィだけでなく、この体育館にいる全ての観客がほぼ同じ感想だった。ハンドボール部の代打として現れた、まだ転校してきて間もないリリィに圧倒されていた。
「やぁっ!!」
「く、くそっ!」
リリィに誤算があるとすれば三つ。
一つ目は異常なまでのギャラリーの多さ。桜が丘高校の体育祭と武道祭はほぼ同時に進行する。そしてほとんどの生徒は体育祭に参加するため、武道祭に出場できるのは各部活ごとに一名。念のため予備員としてもう一名が登録されている。一応学校側の今日のメインイベントは体育祭、武道祭はあくまでもオマケという位置づけだからだ。
しかし今回は何十年ぶりかの剣舞が競技種目ということもあり、並々ならぬ関心を見せていた。今も会場である体育館を四つに分けて試合を行っているが、どこもかなりの人だかりだ。メインの体育祭なんて誰も見ていないんじゃないかと疑うくらいの熱気だった。
「おおっと、ついにハンドボール部がバスケ部を隅に追い込んだ!」
「これは決まりかもね」
二つ目は桜が丘高校の部活数の多さ。
この高校は部活や同好会に力を入れており、現存する数がかなり多い。その為同時開催される体育祭のことを加味し、男女共にある部活はその中の代表者一名が出る決まりになっている。例えばテニス部なら男子テニス部と女子テニス部を合わせて一名。そしてバスケ部もそれは同じだった。
つまり今リリィが戦っている相手、バスケ部の代表は男子生徒だということだ。対してリリィが助っ人をしたハンドボール部は女子しかいない。
だからこそ、この試合はここまで注目されているのだ。まさか男子が、しかもバリバリ体育会系のバスケ部が女子しかいないハンドボール部に負けるわけがない。
皆、そう思っていたからこそリリィがバスケ部を追いつめているこの状況にざわめいていた。
「おい、負けるなバスケ部っ!!」
「お前ら優勝候補なんだろーがー!!」
そして最後、三つめは火事場の馬鹿力というやつをリリィは知らなかったこと。
ハンドボール部の、女子であるリリィの予想外の活躍に会場は盛り上がっている。けれどその逆でバスケ部の応援団や彼らを応援する生徒の声も自然と大きくなっていた。
特に女子バスケ部からは負けないでと必死に応援する生徒の姿。代表として選ばれた意地、そして女子の前で格好悪い姿を見せたくないという下らないプライドが、それでもバスケ部代表の彼に火事場の馬鹿力を与えた。
(これで、終わりっ!!)
リリィは思い切り足を踏み込んで、鋭い突きを放つ。まるで光の矢のように正確に放たれた突きは、がら空きになった胴に吸い込まれていく。
そして――
「う、うぉぉぉぉおお!!」
バチンッ!!と、体育館に小気味よい音が響いた。
リリィの突きは深々と相手の胴に突き刺さっている。一瞬の沈黙の後、審判員が白い旗を上げた。白、リリィの一本。そしてそれと同時に赤旗を上げる。
「え……っ!?」
リリィが驚くのと同時に、彼女の左手に鈍い痛みが走った。おそるおそる目線を下にやるとしっかりと自分の左小手に相手の竹刀が乗っている。
それは最後の悪あがき、相手選手の意地の一本だった。
「同時に一本です!これでハンドボール部の二本先取、一回戦はハンドボール部の勝利です!!」
「最後はバスケ部も中々の打ち筋だったね。火事場の馬鹿力ってやつだな、あれは」
杠姉妹の声と共に試合は終わり、リリィたちは互いに礼をする。周りからはリリィへの賞賛とバスケ部が一矢報いたことに対する賞賛で賑わっていた。
相手から握手を求められて、リリィは空いている手を差し出そうとして――
「っ!!」
――それが動かないことに気が付いた。
二回戦までは数十分しかない。
リリィの左手首は青く腫れていて、これ以上の連戦は無理なことは明らかだった。一応アイシングをしてはいるが効果は薄そうだった。校舎裏にも歓声が届くほど、武道祭は盛り上がっているようだ。
「ごめんなさい、萌子……。私が油断していなければ」
「いやいや!相手は優勝候補のバスケ部だったんですよ?相手、大野って奴なんですけどバスケ部のエースで運動神経抜群なんですから。正直あたしが出ても勝てたかどうか……。リリィ先輩は本当によくやってくれましたよ!」
萌子はリリィの活躍を素直に褒め称える。
それは事実で、おそらくリリィでなければ彼に勝つのは不可能だっただろう。アストリアで鍛えてきた剣術と、この数日でルイに更に鍛えてもらったリリィだからこその勝利なのだから。
「でも、私が出ないと次で不戦敗になってしまいます。ハンドボール部には剣舞に出れるような補欠は居ませんし、次はサッカー部です。青山さんの願いを叶えないといけないのに……!」
リリィは心の底から悔しそうだった。その理由は萌子にはきっと分からない。リリィがこないだ口走った“幼馴染”が関係しているのだろうけれど、それを聞くことは萌子には出来なかった。
「あ、それなら大丈夫ですよ。もうすぐ来ますから」
「来る?来るって、一体何が――」
リリィが言い掛けた瞬間、風が通り抜けた。懐かしい、どこか安心するような気配。そして歩いてくる、その姿をリリィは見た。
「こ、虎鉄……!」
「……おう」
「私もいるぞ、リリィ。かなり苦戦したようだが、まだまだだな。帰ったらまた稽古しないと」
虎鉄はバツが悪そうにして、リリィに挨拶をする。何故かルイまで当然のようについてきているのだが、今のリリィにはそれを聞く余裕はなかった。
「やっと来たんですか、虎鉄先輩。絶対寝坊してましたよね」
「悪かったって!俺だって起きたときはめっちゃ焦ったんだからな。本当に間に合って良かったよ」
「念のため、連絡先を教えておいて良かったですよ。っていうか後ろの方は誰です?」
「ああ……これは話せば長くなるからまた後で。とりあえず会場に向かおうぜ」
リリィの目の前で勝手に話を進めていく虎鉄と萌子。頭の上に大量のはてなマークを浮かべている彼女に気が付いたのか、虎鉄はリリィに近寄る。
「………悪かったな、怪我なんかさせちゃって」
「い、いえ。これは私が決めたことですから。それより虎鉄はどうしてここに?」
「後は……俺に任せろ」
「え?」
「……たまにはさ、俺にもかっこつけさせてくれよ」
虎鉄は照れくさそうに、頭を掻きながらそう言った。その時リリィには確かに彼の姿が、アストリアのあの英雄の姿と重なって見えたのだった。




