15話「一歩進んで、二歩下がって」
杠萌子に同好会への加入を勧められてから、数日後の昼休み。
俺はいつも通り昼飯を食べるため、視聴覚準備室に居た。勿論そこには弁当を作ってくれる華と、そしてリリィの姿があった。もう習慣になりつつある、華がリリィに弁当を手渡す光景。
そしてリリィはちらっと俺の方を見る。明らかに何かを言いたげなその瞳を無視するほど、俺はまだ大人になり切れない。
「……どうした?早く行かないと、待たせてるんだろ?」
「はい。あの、良かった虎鉄も」
「俺は行かない」
自分でもやり過ぎたかなと思うくらいには強めの語気。でもこうもしないとリリィは遠慮して同好会に行こうとしない。
「俺のことは別に気にしなくていいから。リリィは自分がやりたい事をすればいい」
「虎鉄は……分かりました。華、お弁当ありがとうございます。今日も頂きます」
リリィは一礼してから駆け足で教室を出ていった。
あの日、俺たちが青春同好会なるものを訪ねてから、リリィはこうやって昼休みと放課後にはあそこへ顔を出しているらしい。
まだ正式に入ったわけではないだろうが、それも時間の問題だろう。教室にはいつも通り、俺と華の二人。今まで通りの光景に戻っていた。
「ありがとな、華。本当に材料費出すだけじゃ全然足りないだろ。俺もなるべく早く料理できるようにするからさ」
「ううん、本当に気にしないで。そんなに手間は変わらないから。さ、食べよう?」
華は優しく微笑んで、いつものように二人だけの昼休みが始まる。一応、青春同好会の件は華には説明した。だから華も今の状況は大体分かっているだろう。
「あ、そういえばさ。虎鉄のクラスにさ、高野って男子いるでしょ?」
「高野?」
「ほら、飯塚君と同じサッカー部でいつも一緒にいる」
「ああ、あの金魚の糞みたいなやつな」
それでも華は同好会のことを聞いたりはしなかった。
どうして同好会に入ろうとしないのか、リリィのことをどうするつもりなのか。本当は気になっていない訳がないのに、華は何一つ聞こうとはせずこうやってただ俺と昼飯を食ってくれる。
「なにその言い方。まあ確かにいつも一緒にいるから、間違ってはないんだろうけど」
「で、その金魚の糞がどうしたって?」
「だから高野君!なんかね、ウチのクラスの凛子と喧嘩してるみたいなんだよね。ほら、前に話したハンドボール部の子!」
きっと華はあえて聞いてこないのだろう。
幼馴染の俺たちにしか分からない独特の空気というか。この状態の俺に何を聞いても答えてくれないであろうことを、華は知っている。だから待っているのだ。俺が自分から華に話すのを。
「えーっと、ああなんとなく。うん、覚えてるかな」
「えー、なにその反応!絶対に忘れてるじゃん!青山凛子、私の友達の!前に私にあのパフェの店を教えてくれたって話したよね!?もう、本当にすぐ忘れちゃうんだから」
「悪かったって!もう忘れない、ハンドボール部の青山凛子ね。それで?」
「もう……。それでね、あの二人って実は幼馴染らしいんだよ!だけど最近仲が悪いらしくて――」
結局俺は一歩踏み出したのに、またこの場所に戻ってきてしまっている。
自分を変えたくて、だけどもう傷付きたくないから。そんな臆病な俺を、それでも華は見捨てないでくれる。俺は心の中でもう何回目になるか分からない謝罪を、華にした。
「ただいま」
放課後、俺は一人で家に帰って来た。
リリィは青春同好会の活動があるからとまだ学校に残っている。リリィがアストリアからこの世界に来てから、本当に忙しい日々が続いた。
だからこうして一人で家に帰ることもあまりなかった。それがこの数日は同好会の関係で、一人で帰る日が続いている。まるで以前の日常が戻って来たかのようだった。
「変われると思ったんだけどな」
荷物を適当に放り投げて、ソファに横になる。
リリィが来る前は全部が当たり前だった。華と二人きりの昼休みも、一人で帰る通学路も。でもこの数週間の非日常のせいで、それらが当たり前じゃなくなっている。
どうすればいいのか、簡単な答えは目の前にある。俺がリリィと一緒に青春同好会に入ればそれで終わりだ。けれど事はそんなに単純じゃない。
俺の中に根付く戒めが、俺を前に進ませようとはしない。ぼーっと天井を見つめても、他の答えなんて出るはずもない。それでも今日は特に何かをする気にはなれなかった。夕飯を作るのも何だか億劫だ。
リリィには悪いけど、今日はコンビニ弁当で我慢してもらおう。そう決めてゆっくりと目蓋を閉じると――
「……え」
庭から明らかに誰かの立てる音がした。リリィ、な訳はない。
彼女は必ずちゃんと玄関から入って来るし時間もまだ早すぎる。音を立てないようにそっと窓に近付いて、カーテン越しに庭を見る。すると倉庫の辺りに確かに人影が見えた。
はっきりは見えないが、明らかにリリィではない。ということは考えられる答えは一つ。
「泥棒……」
冷静考えれば110番をするべきだったのだろう。
けれどすっかり慌てた俺は何を思ったのか、護身用の木刀を手に取って静かに庭へと出てしまった。若干暗くなってきたせいか、はっきりとは確認できない。
しかし確実に倉庫の前には人影があった。俺はなるべく音を立てないように静かに倉庫に忍び寄る。
「…………」
倉庫の裏側から人影に気付かれないように回り込む。今にも爆発しそうな鼓動を感じながらゆっくりと忍び寄っていく。全身からは汗が噴き出していて、木刀を握る手は汗まみれだ。
まさか家に泥棒が入るなんて思いもしなかった。倉庫の入り口に近付いて、やはり人の気配を感じることが出来る。幻でも見間違いでもない、確実にこの先に誰かがいる。
「うーん、しかし困ったな」
「…………!」
そして声がはっきりと聞こえてきた。その高い声から泥棒が女であることが分かる。
たとえ女でも泥棒は泥棒だ。俺は聞き耳を立ててチャンスをじっと伺う。俺が潜んでいる角から扉までは数メートル。
隙を見て一気に駆け出して一撃をくらわす、これしかない……!
「来てみたのはいいものの、ここが何処か全く分からないな」
「…………」
「それに今日は朝からずっと動きっぱなしだったからなぁ。どこかで休みたいのだが……」
「…………」
「うーん、なんだか身体も怠いしな。ふわぁ――」
間の抜けた声だった。それを決めた瞬間、一気に角から駆け出す。
なんと都合の良いことか、相手はこちらに背を向けたまま大きく伸びをしていた。周囲が暗くあまり良くは見えないが、ポニーテールをしていることからやはり女性のようだ。
しかし相手は泥棒、そうではなかったとしても不審者であることに変わりはない。俺は意を決して思い切り木刀を振り下ろす。時間が全てスローモーションになったかのように、ゆっくりと木刀が振り下ろされていく。
まだ相手はこちらを振り向きすらしていない。確実に当たるだろう、振り下ろした木刀は本当にゆっくりと動いている。今までに体験したことのない、時間がギュッと凝縮されたような感覚。
まるで達人にでもなったような、全てが止まって見えるとかいうやつだ。
しかしやけに時間の流れが遅いよな、これじゃあまるで死ぬ前の走馬灯みたいな――
「……ふん」
そこまで考えたとき俺は聞くはずのない声を、でも目の前の女が確かに鼻で笑うのを聞いた。止まった時間の中で彼女だけが何故か動けるのだ。
「どんな奴かと思って待っていれば、何のことはない。素人が」
「…………え」
「――断風」
その声を聞いた瞬間、思い切り右の脇腹に恐ろしいほどの衝撃が走った。
凝縮された時間は一気に元に戻り、俺はまるでトラックにでも轢かれたかのように思い切り庭先まで吹っ飛ばされていた。
何が起きたのか、全く分からない。いつの間にか数回地面を転がって無様に地面に這いつくばっている。
「がっ……!?」
あまりの衝撃に息が出来ず、視界がブラックアウトしていく。
俺は確実に背後を取っていたのに。このまま気絶したらマズい、リリィが帰ってきたら彼女まで不審者の餌食になってしまう。
色んな事が頭に浮かんでは、次々と消えていった。急速に薄れゆく意識の中で、ゆっくりと近付いて来る足音がやけにはっきりと聞こえてくる。
けれど身体はピクリとも動かないので、どうしようもない。
「……この、未熟者」
その言葉は、どこかで聞いたことのあるものだった。いや、正確には見たことがある?そんなことを考えている内に、俺は思考を手放していた。




