10話「逃れられない過去だから」
「一体どういう事なのかな」
「どういう事、というのはどういうことなんでしょうか」
朝一の職員室。
ホームルームが終わってからすぐに、俺は職員室に呼び出された。
確か一時間目は体育の授業だったはず。早く準備しなければ間に合わない、そう目線で訴えるが目の前で腕組をしている杠先生は深い溜息をつくだけだ。
「……もし授業の心配をしているなら無用だぞ。体育の池谷先生には私から話は通しておいた。君はこの時間、欠席で構わないそうだ」
「そうですか。さすが杠先生ですね」
「私がしたい話はそういう話ではない。それくらい君だって理解しているはずだが」
俺の態度が気に食わないのだろうか。杠先生はむすっとした顔で俺を見つめる。明らかに不機嫌な様子を微塵も隠そうとしないのが、先生らしいといえばらしいのかもしれない。
「……その顔、誰にやられた」
「これですか。これは昨日階段でこけちゃいまして」
「その痣の感じからして、君より背の高い生徒にやられたのだろ?それに一人じゃないな」
まるで見ていたかのように断言する杠先生に、思わず言葉も出ない。じっと俺を見つめた後、先生は意地悪な笑みを浮かべる。
「これでも教師なんだ。生徒の様子を見ればそれくらいは分かるさ。で、誰にやられた?その感じからして上級生か……」
杠先生はペラペラと手元にある学籍名簿をめくる。どうらやこれは下手に隠してもすぐにバレてしまうようだ。
「……先生、俺のことはそっとしておいてくれませんか」
「なぜだ。可愛い教え子が傷付けられて、黙っているほど私は寛容ではないが?」
「この件は俺が片付けなければならない問題なんです。先生が出てくることであいつに……」
つい口を滑らせてしまった、と思ったときにはすでに遅し。杠先生がそれを聞き逃すはずもなく、ずいっと身体をよせられてしまった。
「成程。殴られた事実は認める、と」
「いや、まぁ……」
「そして君の口ぶりからして私たち教師に話したことがバレると困ったことになる、と」
「……っ」
「主に“あいつ”に?」
「もう……分かっているなら追及しないでくださいよ!」
「はは、悪い悪い。必死に隠そうとする君が何だか可愛くてね。つい意地悪したくなってしまったんだ」
「勘弁してくださいよ……」
どこか幼さが残る笑みを浮かべる杠先生に、不覚にもどきりとしてしまう。
その口調には似合わず、杠先生は校内一番だと噂されるほどの美人教師だ。もう少しこの性格の方を何とかすればもっと人気が出ると思うのだが。
そんなこちらの気持ちを知ってか知らずか、先生は自分の椅子に深く腰掛けた。
「そもそも悪いのは君なんだぞ。隠し事なんてしようとするからだ」
「それは……すいません」
「君は何でも一人で解決しようとする癖があるからな、心配なんだよ。まだ数か月しか君のことを見てはいないが、そんな私でも十分に分かってしまうくらい君は……危ういよ」
真っ直ぐに俺を見据える杠先生の言葉は、心にくるものがあった。まるで全てが見透かされているような、鋭い視線だった。
「まあこれ以上君を追及しても意味はなさそうだ」
「ありがとう、ございます」
「ただな、私じゃなくたってその痣は気になる。言い訳するならもう少しマシなものを用意しておくんだな。“階段から落ちた”なんて誰も納得してくれないぞ?」
「気をつけます……」
「まあ何かあればすぐに私に相談しなさい。こちらもできうる限りのことはしておこう。とりあえずこの時間はどこかで頭を冷やすことだ」
杠先生はそう言って自分の机に向かってしまった。呼び出された用はこれで終わりという事だろう。俺は軽くお辞儀をしてから職員室を出ようとする。
「あ、忘れていたが」
「はい?」
「転校生さんと仲良くな。お互い事情はあるだろうが、あまり意地を張るものじゃないぞ?」
振り向いた俺には意を返さず、杠先生は黙々とパソコン作業に移っている。
「……先生、本当にいい性格してますね」
「ああ、自分でも分かっているよ。ありがとう」
手をひらひらとさせながらお礼を言ってのける先生には、俺は一生敵わない気がした。
◇◇◇
小学校の時は簡単だった。
誰かが虐められていたってそれを助ければ、被害者は必ず感謝してくれる。そして次の日には虐めた加害者はクラス中から白い眼をされるのだ。弱い者を虐めれば当然に報いを受ける。
それが俺の中での常識だった。
『ありがとう、虎鉄』
『別に気にすんなよ、華!また虐められたらすぐに言うんだぞ?どこに居たって俺が必ず守ってやる!』
『……うんっ!』
幼馴染の華は身体も小さくて、よく虐められていた。
その度に俺はあいつの所に駆けつけて身体を張った。それは勿論華が幼馴染だってこともあるが、それ以上に憧れていたからだ。
『その本、また読んでるの?』
『ああ、だって最高に格好いいだろ“貴虎”!俺もいつかじいちゃんみたいに皆を助けられるヒーローになるんだ!』
『なれるよ!虎鉄なら絶対に!』
俺は当時、アストリア大陸記に出てくる“貴虎”に憧れていた。
自分の刀で弱き者を救い、悪を挫く。そんな異世界の主人公に憧れたのだ。そして自分も彼のように弱き者を救い続ければ、いつかヒーローになれる……そんな幻想を抱いていた。
けれど――
『お前ウザいんだよ!いつもいつも首突っ込んで来やがって』
『ぐっ……!』
中学生になってから俺は思い知った。
この世は正義と悪だけじゃ分けられない、複雑なものなのだと。いくら弱き者を救ったところで、今度は自分が標的にされるだけ。
それに気が付いたクラスメイトたちは俺を遠巻きに見るばかりで、味方はいなくなっていった。誰もが虐めを恐れ知らんぷりをする。
それどころか――
『ねぇ、アンタも天草に胸触られたんでしょ?』
『え!?わ、私は……』
『そうだよ、ね!?』
それは以前助けたはずの女子だった。
目の前で首謀者の一人に脅された彼女は、一瞬俺を見た後慌てたようにそっぽを向く。まるで俺のことなんて初めから知らなかったかのように。
『……はい、そうです』
『うわっ、マジでキモイわコイツ!』
『ち、違う!俺はそんなこと!』
『うっせえよ、この“駄目草”がっ!!』
教室内での公開リンチ。
誰も止めるものはいなかった。信じていた正義も救ってきたはずの弱き者も、結局は何も意味はない。ただ標的が変わるだけ、それがこの世の真実なのだ。
そして俺の身勝手な正義は俺以外の人も傷付けることになってしまう。
『おらっ、もう一発――』
『止めてっ!!』
『……え?』
俺を庇って殴られた華の華奢な身体は、教室の隅に吹っ飛ばされた。華がロッカーにぶつかる音と共に、一気に室内が静まり返る。
『ア、アンタ何して――』
『華っ!!』
俺は転びながらも急いで華に駆け寄った。俺を庇ってくれた腕は真っ青に腫れ上がっている。
俺を庇ったから、俺が意味のない正義を振りかざしたせいで華に怪我を負わせてしまった。その事実は自分自身が痛めつけられた時の、何十倍も俺の心を抉った。
『おいっ、何の騒ぎだ!?天草、黒咲……どうした!一体誰が――』
『俺の……俺のせいなんです。俺が……俺がっ!』
幸い、華に特に命の別状はなかった。
でもそれはたまたま運が良かっただけ。もし打ち所が悪ければ死んでいたと、医者は言っていた。全部俺のせいだ、俺の。俺が余計なことさえしなければ華を傷付けることはなかった。
この世には所詮正義なんてない、ヒーローなんていない。傷付いたって自分さえ我慢すれば平気なんだ。それから俺は虐められ続けたが、反抗することは一度たりともなかった。
反抗すれば、きっとまた華を傷付けてしまうから。
だから俺は――
◇◇◇
「……ん」
目覚めは、見た苦々しい過去のせいで最悪だった。
起き上がるとびっしょりと汗をかいていて、未だに過去に縛られている自分の不甲斐なさに吐き気がする。でも仕方がないじゃないか、俺は自分の下らない夢のせいで大切な幼馴染を傷付けてしまったのだから。
所詮この世では正義なんてものには何の価値もない。それはお話の中だけの話なのだ。皆遅かれ早かれそれに気が付く。きっとそれが“大人になる”ということなのだろう。
「ここ、どこだ……?」
ぼーっと周囲を見回すがこの空き教室には見覚えがなかった。
確か杠先生との会話を終えて、一時間目が終わるまでいつもの視聴覚準備室で時間を潰そうと思ったんだっけ。
でも鍵が掛かっていたんだ。それで適当な教室で少し休憩でもするつもりが、いつの間にか寝てしまっていた。
「今何時だ?」
時計を見て驚愕する。すでに針は夕方を指していて、つまり今が放課後であることを教えてくれていた。俺は放課後までこの空き教室で居眠りしてたってことか。
「……やべぇ、今日の授業全部サボったってことかよ」
あまりの自分の愚かさに呆れを通り越して賞賛したいくらいだ。
しかもこんなにも寝たのに見た悪夢のせいで全くスッキリしていない。とりあえず旧校舎から出なくてはと扉を開けようとすると外で騒がしい声が聞こえてきた。
「珍しいな、ここに人が来るなんて」
この旧校舎は用がない生徒は滅多に訪れない。今にも崩れ落ちそうなボロボロの校舎に寄り付く生徒は殆どいないのだ。新校舎の方が教室数も多いし、サボれる空き教室も多い。
だから不良のたまり場になることもないと思っていたのだが。そっと扉に耳を澄ますと複数人の言い合うような声が聞こえてくる。どうやら今出ていくのは得策ではないらしい。
俺は大人しく元居た席に戻ろうとして――
「止めてっ!!」
――戻れなかった。
さっき見た悪夢と全く同じ台詞だけれど、声は全く違う。その声は俺が最近知った、そして今一番聞きたくて、同じくらい聞きたくないと思うもの。
「いいから大人しくしてろよ!!」
「嫌っ!近寄らないで!!」
「早くヤっちまおうぜ?ぐずぐずしてると誰か来るし」
「俺、外国人とヤるの初めてかも。よろしくね――」
他に聞こえてくる声は、昨日聞いたばかりのものだった。
おそらく俺を昨日リンチした奴らに違いない。でもこの時の俺にはそんなことを判断する余裕はなかった。後から考えたらもっと冷静になるべきだったのかもしれない。
この旧校舎から新校舎まではそこまで遠くはない。こっそりこの教室を抜け出して急いで職員室に駆け込んで教師の応援を呼ぶ。
きっとそれが最善策だったに違いない。
「――“リリィ”ちゃん?」
「っ!!」
でも俺はその名前を聞いた瞬間に、もう教室を飛び出してしまっていた。
感情に身を任せるなんて愚かなことで、絶対に後悔するに決まっているのに。俺はもう“大人”になったと、自分ではそう思っていた。
それでも俺は、リリィの名前を聞いた瞬間に何故か走り出してしまっていたんだ。




