誰ぞ彼
薄靄の中に問う。
誰ぞ彼。と。
淡く光る靄の向こう側。
事象は歪められ、在るのに無く、無いのに在る。
不確かなそれに問う。
誰ぞ彼と。
目を開けると白木の天井が見えた。
もはや馴染み始めた景色に朝からため息がもれる。
僕は、今日もまだ、ここにいる。
目を覚ましても起き上がらずに天井を見つめる。白木の木目も数え飽きた。やることも思いつかずぼうっとしていると襖がシュッと音を立てて開き、白い着物に赤い袴を着た命婦たちが現れる。そして、横になったままの僕の掛け布団を剥ぎ取り、体を起こしてくれる。
手を引かれて隣の小部屋に行けば、盥の水で手と顔を洗われ、髪を櫛削り耳の下辺りで結われる。
短かった髪はもう肩まで伸びていた。
一人が髪を結い、二人が爪を磨き、一人が化粧を施す。化粧といっても、眉根と眦に朱をかき描くだけ。
終われば寝室に戻り着物を着せられる。そうして命婦たちは部屋を出て行く。
その間、彼女たちは一言も口を開かない。なにを聞いても黙っている彼女たちはもしかしたらしゃべれないのかもしれない。それを確かめる術など無いのだけれど。
身支度は終わったが、まだ部屋からは出れない。
寝台の横に置かれた籐の椅子に座り背を預けてようやく息が吐けた。
ここは決まりが多すぎる。
朝は起こされるまで起き上がってはいけない。一人で着替えてはいけない。命婦に声をかけてはいけない。部屋の外には更衣以上の者と一緒でなければ出ては行けない。爪と髪を切るのは吉兆の日でなければならない。
朝餉は遅く、昼餉は無く、八つ時があり、夕餉は月が出てから。そして、新月の夜に宴がある。
いまだに分からない事ばかり。
窮屈と言えば窮屈だが、慣れてしまえばなんとかなっている。
「帰りたい」
ぽろりと零れた言葉に現実感は無い。
どこへ帰ると言うのだろうか。
帰る場所など、朧げな記憶の向こう側にあり、思い浮かべる事もできない。
ここにやって来た記憶があるという事は、やって来る前の場所があるという事だ。それがどこかなんて知らない。
一番古い記憶は、白夜に抱っこされて見上げるような大きな黒門を潜った事だ。
屋敷までの道を照らすように、等間隔に並んだ丸い竹籠の灯りがゆらゆらと揺れて幻想的だったのを覚えている。
それより前の事は覚えていない。まるで霞がかかったように曖昧でハッキリとしない。
誰かいた気がする。年も性別も分からない。靄の中に浮かぶ影のように曖昧で不確かだ。
黒門を潜るとそうなると白夜は言った。
それが本当か嘘かは分からない。ただ、霞がかかった記憶がある事だけが真実。
窓の横に置かれた椅子は、ちょうど座ったまま外の景色が見れるようになっている。
はめ殺しの窓の向こうは緑鮮やかな竹林が広がっている。青々とした竹がしなやかに伸びている様は美しく、重なった竹が奥の奥まで埋め尽くされた風景は果てが見えない。
朝は霧がかかり、昼は陽の光を受けて一層青々と艶めき、夜になれば、竹の節からぼんやりと光が溢れてふわふわと周囲を飛び交う。
まるで変化する絵画のようだ。
今朝は霧が濃いのか、前方にある竹が見えるだけで他は霧に飲まれている。
襖の開く音へと顔を向ければ、黒い着物に緋色の袴を履き、薄桃の打掛を羽織った更衣が入室してきた。
「朝餉の準備が整いましてございます」
にこりともせずに頭を下げて、いつもと同じ台詞を口にする。
命婦や更衣たちの顔はいつも無表情だ。そして、皆同じ顔をしている。
同じ髪型に同じ化粧、無表情に平坦な声。命婦は命婦であり、更衣は更衣なのだ。
個が分からない。分からなくて良いと白夜は言う。そういう物だと言われれば、受け入れるより他にない。
促されて、ようやく部屋を出る。ここを出ても行く場所は限られている。
それが決まり。
白夜の屋敷に住む僕の決まり事。
朝餉の席には既に白夜が座っていた。
「おはようございます」
挨拶をすれば、目元を緩めて「おはよう」と返してくれた。釣り上がった鋭い目つきが柔らかくなるこの表情がとても好きだと思う。
白夜の対面に座れば、控えていた命婦たちが茶を注ぎ、温かな椀を膳に添えてくれる。
白夜が箸を取り赤米を口に入れてから僕は朝餉に手をつける事ができる。
これも決まり。
食事中の会話は少ない。口の中に食べ物があれば飲み込んでからでないと喋れないし、相手がまだ食べていたら返事にも時間がかかる。故に、食事は黙々と食べ、食後に花茶を飲みながらようやくお話しができる。
白夜は食べる所作がとても綺麗だ。流れる様に淀みなく、静と動の緩急がまるで踊りの様で見惚れてしまう。
真似をしてみるけどちっとも上手くいかない。
「郁人。今日は屋敷から出てはいけないよ。用事は更衣にお頼み」
「はい。わかりました」
僕の返事に頷き返して、白磁の杯で花茶を飲む。
杯はお酒を飲む盃よりも少し大きくて深さがある。片手で握れる程の小さな花を咲かす為だ。
杯に丸い実を入れて茶を注げば、小さな花が杯の中で咲く。今日は牡丹に似た赤い花で。竹林の中を吹き抜ける風のような涼やかな匂いがする。
白夜は沢山ある種類の中でもこの花茶がお気に入りで好んでよく飲む。
僕も好きだけど、桃色の菊の様な花が咲く甘い匂いの花茶の方がもっと好き。それは、食後には合わないので、八つ時に飲む事が多い。
花茶を飲み終わった杯を置き、白夜が立ち上がる。
「もう行くの?」
「おや。寂しいのかい?」
歩く度にしゃらりと揺れる帯飾りを見ながら聞けば、くすりと笑われた。
揶揄われているのを知っているから、返事もせずに残りの花茶をくいっと飲み干した。
白夜はくつくつと笑いながら、胸まで伸びた僕の髪を一房手に取り口付ける。その仕草さえ様になっていて、恥ずかしいのと悔しいのがごちゃ混ぜになって「早く行けばっ」と、怒鳴ってしまった。
白夜は楽しそうに「怖い怖い」と笑いながら行ってしまった。
何処へ行くのか、何をするのか、僕は知らない。聞いても教えてもらえない。
白夜は朝餉を食べると何処かへ出かけ、夕餉になると帰ってくる。たまに帰って来ない日もあるけど、その時は教えてくれる。
僕は決められた範囲の中で、白夜を見送って迎える生活をずっと続けている。
白夜は綺麗な男の人だ。
僕が出会う人はとても少ないので、比較対象があまりないのだけれど、綺麗だと思う。
僕よりも頭た二つ分も背は高く、細い吊り目は怒ると怖いけれど優しいことの方が多い。
目尻や額にある赤い模様は化粧かと思ったけれど違うらしい。似たような模様が頸と背中にもある。
更衣達は目尻と額に赤い線が引かれているが、命婦達は目尻だけ。これも化粧ではないらしい。
この屋敷では僕だけが異端だ。そして、違う意味で白夜も異端だ。異端と言うより際立っているといった方が正しいかもしれない。他の誰よりも突出している。
白銀のキラキラした髪は緩い弧を描いて腰まで流れている。端正な顔に美しい立ち振る舞い。でも、一番の特徴はふさふさの九本の尻尾。
命婦たちは一本か二本、更衣たちは三本から四本の尻尾がある。一度だけ見たお客様は六本あった。ちなみに僕には無い。そういうものなんだと言われた。
九本も尻尾を持つのは白夜だけだ。だから尊敬を込めて彼は「九尾様」と呼ばれる。六本の尻尾を持つお客様は「六尾様」と呼ばれていた。でも、命婦は命婦だし、更衣は更衣だ。多分、六本以上の尻尾を持つ人が偉いのだと思う。
五本の人は見た事ないけど、どっちだろう。
白夜が出掛けてから、僕は部屋に戻った。
窓際の椅子の前に卓を置いて、命婦に頼んだ材料を並べる。金色、銀色、緋色、青色、真珠と色とりどりの丸い球と細い糸。球は多分宝石だと思う。硝子かもしれないけど、僕は宝石だと思う事にしている。だってこんなに綺麗なんだから。
細い糸にそれらを通して形作る。作るのは色々。白夜がしている帯飾りや、髪紐に付ける飾り、長い首飾りを作った事もある。
今から作るのは、腕飾り。球を連ねて編むように糸を動かす。真珠と金色の間に白夜の目の色と同じ瑠璃色を入れる。
最後は金具を取り付けて出来上がり。
夢中になって作ったので、少し疲れた。でも、いい出来。
「白夜、喜ぶかな」
喜んでくれるといいな。
満足気に眺めていたら、更衣が八つ時の菓子と花茶を持ってきた。
並べていた材料と道具を片付けると、もう一人の更衣がそれを櫃の上に移動させる。
やる事がなくて手持ちぶたさになった僕はなんとなく窓の外を見た。そこにはいつもと同じ竹林が広がっているが、違うものがあった。
「…人だ……」
竹林の中から人がふらふらと揺れながら歩いてくる。時折竹ににぶつかり、その竹が大きくしなっては笹を揺らす。
「っ!なんという事っ」
僕と同じく窓の外を見た更衣が目を見開いて驚く。続いて、他の更衣も外を確認して驚いている。
「九尾様にご連絡を」
「内侍殿にご報告を」
「宮衛士は何をしておる」
更衣たちは大慌てで喋り、右往左往としながら部屋を出て行った。
彼女たちが表情を崩したのも初めてなら、バタバタと慌てる姿も初めて見た。
僕は、彼女たちが開け放たれたままの襖の向こうに走り去るまで、そんな初めてだらけの光景を呆気に取られて見ていた。
その日。屋敷は慌ただしかったと思う。
実感が無いのは、僕になんの情報ももたらされないからだ。
決まりが多いここで下手に動くと怒られる事ばかりだから、竹林から現れた人の事は気になったけれど、部屋から出る事はなかった。
幸い、更衣たちが持ってきてくれた八つ時のお菓子も花茶もあったし、櫃の上に置かれた飾りを作る材料もあった。
この部屋まで騒ぎは聞こえてこないが、なんとなく屋敷自体が騒がしい雰囲気があった。空気が騒ついている気がするのだ。
何度も手を止めて集中できないまま、気がつけば日が暮れていた。
いつもなら灯りを付けに命婦が来るが、今日は誰も来ない。自分で灯りを付けた事がない僕は、
やり方は分かるのだが、何故そうなるか分からないので付けられる自信がない。
どうしようかと悩んでいると、襖が開き遠慮がちに命婦が入ってきた。
彼女は灯りを付け、窓に紗を下ろして夜の支度をしていく。
何があったのか。あの人は誰なのか。
聞きたいことはたくさんあるけれど、命婦とは話せない。
もやもやとしながらもその様子を見守っていると、命婦はいつものように無言で部屋を出て行った。
彼女は何か知っていたのだろうか。話しかけたら、今なら何か返ってきただろうか。
悩んでも、もう命婦はいない。
明るくなった部屋で、今日作った飾りを手に取り眺める。
腕飾りが二つ。帯飾りが一つ。
どれも白夜の為に作ったもの。綺麗に出来たと思う。
今日は白夜に会えるだろうか。
「帰ってくるかな…」
帰らないとは聞いていない。だけど、何故か会えないような気がしていた。
そして、その予感は当たっていた。
夕餉を持ってきた更衣が、今晩の食事はここで食べる事を告げて急ぐように出て行った。
白夜が帰らないとは言わなかった。ならば帰ってくるのだろう。帰ってかた上で夕餉を共にしないのは、今日現れた人の事で何かあるからだろうか。
僕には何一つ分からない。
あまり寝付けずにいたせいか、目が覚めても眠気でぼぅっとしていた。
いつもと変わらず命婦がやってきて朝の支度を済ましていく。
まるで昨日の喧騒など何も無かったかのように表情も態度も変わらない。
「朝餉の準備が整いましてございます」
いつも通り無表情な更衣がやって来て告げる。
昨日と同じ人なのか違うのかは分からない。
考えても仕方ないと、僕は歩き出した。
食事をする部屋から襖越しに話し声が聞こえる。
不思議に思いながら入室すると、そこには白夜ともう一人いた。
黒い短い髪の十才ぐらいの男の子が、白夜と並んで座っていた。
「おはよう」
「お、おはよう、ございます」
知らない子に気を取られて、挨拶が遅くなった。慌てて対面に座れば、命婦たちが膳の用意を始める。
男の子が気になったけれど、白夜が食事に手をつけてしまったので話しかけることが出来ずに自分の箸を取った。
「いただきます」
男の子は元気よく手を合わせて、食事を始める。
食事中も彼は合間合間に白夜に話しかける。ダメだよと言いたかったけど、その度に食事を中断して白夜が答えるから口出しはできなかった。
「これ、なんて言うの?」
「白茸の佃煮だ」
「へー。あ、甘い。初めて食べたけど美味しいね」
彼が白夜に話しかけて、それに答える姿を見ているとなんだかもやもやする。
僕はダメなのに、なんでその子はいいの?
「ねぇ、名前、なんていうの?」
白夜とばかり話していたから、僕に話しかけているとは思わなくて驚いた。
「ねぇ。名前。なんて言うの?」
さっきより強く聞かれて、ちらりと白夜を見ればうっすらと微笑んでいる。
話して、いいのかな。
「郁人」
「俺、文彰。なんか似てんな」
そう言って明るく笑う。
そうかな。フミしか合ってないよね。似てるかな?そんな事はないと思う。
でも、そんなことを言われたら気分が良くないよね。曖昧に笑って誤魔化した。
そんな僕の内心をお見通しとばかりに、白夜が目を細める。
「文彰はしばし逗留する。郁人、面倒を見てやれ」
「よろしく、郁人」
「はい。わかりました」
にこにこと笑う文彰は何も悪くない。
何もかも分かったように済ましている白夜を見ると、胸の奥がつきんと針を刺したように痛む。
なんで痛いの。
文彰は花茶があまり好きではないみたいで、残してしまった。次は別の香りのものを用意してもらおう。
僕が面倒を見るなら、文彰は僕と同じ生活をする事になるんだろう。なら、花茶は必ず飲まなければならない。
どんな香りが好きかと聞いて、側にいた更衣に明日の花茶の用意を頼んでおく。
「郁人」
白夜の声は誰の声よりも僕の耳に届く。
大人の男の人らしく低いのに透き通った綺麗な声。その声で呼ばれる自分の名前はとてと特別に聞こえる。
「宴には一人でおいで」
楽し気に囁く声は、まるで虫を惹き寄せる炎のように魅力的。
上手く返事ができなくてこくりと頷く。
「なになに?何かあんの?」
好奇心いっぱいの文彰に「内緒」と返した。
胸が高鳴る。
「宴」の日は特別だ。
いつもと同じように過ごすが、夕餉が終わるとすぐに湯浴みをする。命婦が二人がかりで全身を洗ってくれる。
真っ白な着物を着て、髪を乾かしながら花茶を飲む。この時の花茶は青い桜のような花が咲く特別なお茶だ。花茶なのに珍しく匂いがない。
そして、更衣に連れられて宴の時だけに使う部屋へと連れていかれる。
屋敷の地下にある、飴色の頑丈な扉の向こう側。それが更衣たちの手によって重々しく開いていく。
扉の向こう側にはまるで外のような中庭がある。岩をくり抜いて作られたそこは意外と広い。
手前には青い竹が目隠しのように生えていて、その隙間を塗って通り抜ければ、奥には細い滝が落ちる小さな滝壺がある。不思議な事に滝壺だけで、川はない。滝壺に溜まった水がどうやって溢れる事もなく水を溜めているのかは分からない。この部屋をほんのりと明るく照らす草のように、そう言うものなのだと思っている。
滝壺の近くには、大人が五人ぐらい横になれる濡れ縁がある。柔らかな敷き物を敷き、羽枕をいくつも置いたそこに白夜はしどけなく横臥していた。
白銀の柔らかな髪が敷布の上に流線を描き、赤い唇が銀の皿に乗せられた果物の粒を食む。着崩した着物の隙間から胸元がちらりと見え、顔が熱くなった。
淡い青色に照らされた白夜は夢のように綺麗だった。
僕はどきどきと高鳴る心臓と共に、白夜に近づく。そんな僕を見て白夜は楽しそうに目を細める。そして、その白く長い手を差し出して僕を誘う。
「おいで。郁人」
絡め取られるように引き寄せられ、僕は白夜に抱きしめられた。
白夜の好きな花茶の匂いがする。
うっとりと目を閉じれば、首筋に顔を寄せられつぃと舐められた。
「あぁ。いい匂いだね」
耳を触る手は冷たいのに、口付けられそうなほど近づいた唇から漏れる息は熱い。
うっとりを白夜を見上げて微笑みかけると、この時だけ見れる獣のような目が僕を見下ろしていた。
「さぁ、宴を始めようか」
嬉しくて微笑むと、僕はそっと目を閉じて白夜に身を任せた。
「宴」の日。僕は白夜に食べられる。
それは言い表せない程に気持ちが良くて、体が痺れるほど熱くなる。
白夜に触れられる度に幸福で体がいっぱいになってしまいそうで、ほんの少しだけ困る。
いつも意地悪な白夜は、この時だけはとても優しい。まるで壊れ物のように丁寧に僕を扱う。
指を一本一本丁寧に口にし、全身を優しく食べてくれる。まるで白夜の唯一の宝物にでもなった気分だ。
僕は「宴」が大好きで、とても、楽しみにしていた。
明け方。僕は白夜の腕の中で目を覚ます。
疲れ果てて起き上がる事も出来ないから、白夜が世話を焼いてくれる。冷たい滝壺で体を洗い、昨日脱いだ赤い着物を着せてもらう。
この部屋には白夜と僕以外は入ってこない。更衣さえも一歩も入れない。だから、僕が動けないなら白夜しかいない。
動けないのは白夜のせいなのだから、罪悪感は覚えないように気をつけている。
「疲れたか?」
「ちょっとだけ。でも、大丈夫」
まだ立てないせいで横抱きにされて部屋を出れば、扉の外に控えていた更衣たちが施錠する。
抱っこされたまま両手を開いて閉じてと動かして体の動きを確かめる。ちょっとずつ動かしながら体の機能を戻していく。
多分、今日は一日寝台の上だろう。
まるで病人みたいだけど、それでも「宴」は好き。
こんなに白夜に触れらるなんて滅多にないから。
僕は自分の部屋までの道のりを幸福に包まれながら目を閉じた。
文彰はとても元気で、目を離すと屋敷の外に行こうとするので、いつもは冷静な命婦たちが走り回る日が増えている。心なしか更衣たちも疲れたように見える。
文彰が飲める花茶も分かり、日々はほんの少しの変化を伴いゆっくりと流れていった。
白夜にも変化があった。
毎日共に食べていた食事が四日か五日に一度程来れない日が出来た。
「どうかしたの?」と聞いても「知らなくて良い」としか答えてくれない。
だから、そう言うものだと聞くのを諦めた。
文彰だけは気になるのか何度も聞いては、同じ答えを返されている。それが幾度か続いた日、文彰が真っ青な顔で僕の部屋にやってきた。
珍しく無言で近づいてきて、座っている僕を正面から抱きしめた。
縋り付いてくる文彰の後頭部を優しく撫でる。少し伸びた髪を一つに結んだ髪が短い尻尾のよう。
「白夜に怒られた?」
確信を持って聞けば、こくりと首を縦に振る。
多分、かなり怖かったんだろう。
白夜は優しそうに見えるけど怒ると怖い。僕も昔やらかしたので分かる。
「白夜や僕がダメって言った事はちゃんと聞いてね」
これに懲りたらちゃんと聞いてくれるかもしれない。
多分、トラウマになるくらい怖かったと思うから。
「郁人は、白夜が怖くないの?」
「怖くないよ」
「俺はちょっと怖いな。綺麗だけど……綺麗だから怖い」
そういうものかな。
僕は多分、一緒にいる時が多いから。それに、白夜といる時は奥にある飢えるような寂しさが無くなるんだ。
満たされる。
僕の全ては白夜の為に存在しているんだと強く思う。
「郁人は俺とそんなに変わらないのに、なんか大人みたい。ねぇ、いくつなの?」
「君よりも年上だよ」
「やっぱりかー。そうだと思った」
それだけで納得したのか、床をごろごろと転がって端まで移動する。
それ、面白いの?
真似する気はないけど、文彰はたまに面白い行動をする。十歳ってそんなものかな。よく分からない。
自分が十歳の時はどうだったんだろう。記憶にないけど、床を転がる事はなかったと思う。それよりも、***と一緒に……誰かと、遊んでいた?
焚かれた香のようにふわりと漂った記憶はたちまち空気に溶けてしまった。
なんだったか。
一昨日切り揃えた髪を一房手に取る。
ここには鏡が少ないから自分の変化には鈍感になるのかもしれない。命婦や更衣が身の回りの事を全部やってくれるから鏡は見なくても別に困らない。
「なぁ、郁人。俺さ、たまにすごく帰りたくなるんだよ。これ、なんでかな」
転がるのに飽きたのか、飾っていた鞠を空中に放り投げて遊び始めた。その表情はどこか寂しそうに見えた。
「僕も、たまになるよ」
「え?本当か!?」
「…うん」
靄の向こう側にあるどこかに、帰りたいと泣く気持ちがある。でも、帰りたいと願うそこに白夜はいないんだ。
それでも僕はそこに帰りたいんだろうか。
「良かった。一緒だな」
「一緒……」
一緒。なんだろうか。
この曖昧な気持ちを文彰も抱えてるのかな。
「なんだろな。時々すごく帰りたくなる。叫びたいぐらい悲しくて、帰りたくなるんだ」
「文彰はどこに帰りたいの?」
僕が分からない帰る場所を文彰は知っているのかな。
そもそも文彰はどこから来たんだろう。そこは僕が知っている場所なんだろうか。
聞いてみようかと目を向けて驚いた。
文彰が泣いていた。
呆然とした顔で涙をポロポロと零しながら。
「…かえりたい」
呟きと共に涙は溢れて、嗚咽から号泣に変わっていく。
僕はどうしていいか分からず、文彰を抱きしめて揺れる頭を撫でる事しか出来なかった。
「帰りたい。なんで忘れてたんだろっ。なんで!おかぁ…ん、お母さん!お父さん!やだっ、どこっ。会いたいよ、帰りたいっ!!」
必死に僕にしがみついて泣き叫ぶ文彰を哀れだと思いつつ、どこか羨ましいと思った。
文彰は帰る場所が分かっているんだ。
文彰が泣き疲れて眠るまで、僕らは抱き合っていた。
「今宵の宴には文彰がおいで」
朝餉の後に告げられた言葉に僕は絶望にも似た衝撃を受けた。
「宴?」と首を傾げる文彰を白夜は楽しそうに眺めている。
なぜ。どうして。
問いただしたいけど、それは出来ない。僕は白夜の物だけど、白夜は僕の物じゃない。
「郁人。君が文彰を連れておいで」
「……はい」
白夜は時に残酷だ。
あの幸福を最も容易く僕から奪い取る。
「宴って何をするんだ?」
好奇心に満ちた顔で聞かれて言いようのない嫌な気持ちがふつふつと浮かび上がる。
悔しい。羨ましい。妬ましい。文彰がいなければ僕の役目なのに。
なんで。どうして。
「夜に白夜と過ごすだけだよ」
文彰のせいじゃない。白夜が決めたのだから、僕はそれに従うだけだ。
溢れそうになる嫌な気持ちに蓋をして、僕は微笑んだ。
日中は文彰と中庭で遊んだ。
体を動かす文彰に付き合うのはちょっと大変だけど、楽しい。二人でできる事は限られるから、石を積み上げたり、鞠を投げ合ったり、中庭を探検したりする。
今は二人でかくれんぼ。文彰が見つける役で、僕が隠れる役。
縁台の下に隠れて息を潜める。
風に揺れてざわざわと笹の葉が歌う。その合間に文彰が歩く砂利の音が混じる。
風がびゅうと吹く度に竹が揺れて笹の葉がざざぁと鳴る。
なんだろう。なんだか、とても懐かしい。
あの時も息を潜めて隠れていた。
笹の葉がうるさくて、鬼の声が……
「みぃつけたぁ!」
縁台の上から文彰の嬉しそうな顔が逆さまに覗く。結んだ髪がぴょこりと揺れた。
「びっくりした?目ぇまん丸になってんぞ」
けらけらと笑う文彰が一瞬だけ誰かと重なった。
縁台から這い出て砂埃を払う。
思い出しかけた何かが急速に失われていく気がした。
何だったんだろう。何か違和感があったような、なにか……。
掴みかけた何かは容易く靄の中へ消えてしまい、もう戻ってはこない。
「次は何しようか?」
「ちょっと疲れたから、部屋に入ろう?」
「そうだな。喉乾いたからお茶もらおうぜ」
「いいけど、今日は宴があるから花茶以外はダメだよ?」
「えー。つまんねぇの」
むすっと膨れる文彰がおかしくて笑いながら屋敷へと入る。
背後で笹の葉が鳴っていたが、特に気にならなかった。
夕餉を終えて入浴をする。
今日は文彰が行くから僕は必要ないんだけど、初めてだからと僕も一緒に洗われた。
なぜか僕も白い着物を着せられて、青い花茶も飲んだ。
文彰が不安にならないようにかな。
そして、共に地下の扉前までやってきた。流石にこの先には行けない。
渋る文彰にこの竹の向こうに白夜がいるからそこまで行くように伝える。
振り返りながらも進んでいく文彰が羨ましい。そこは僕が行く場所なのに。
その姿が竹の向こうに消えた所で、更衣たちが扉を閉めた。
僕はどうすればいいんだろう。帰ろうかと踵を返そうとすると更衣に止められた。
「どうぞ。こちらでお待ちください」
扉の横に僕の部屋にある籐の椅子と同じ物が置かれていた。
そこに座って目を閉じる。
今頃、白夜と文彰はどうしてるだろう。
いいな。
いいなぁ、文彰。
僕も白夜に触れたい。白夜に触れられたい。白夜に食べられたい。
もぞりと体の奥の奥から熱が滲み出る。
いいな。いいな。
羨む気持ちが滲み出して、暗い染みを広げていく。じわりと染み込むようにゆっくりと広がっていく。
「ぎぃやあああああああ!!!!」
扉の中から凄まじい悲鳴が聞こえた。
僕は目を見開いて、椅子から立ち上がる。絶え間なく聞こえる悲鳴に急かされるように扉の前に立つ。
更衣たちも扉の前に待機するが、開ける事はできない。
どれくらい経ったのか。悲鳴が途切れて、しばらくしてから扉がゆっくりと開いた。
そこには白い着物を赤く染めてぐったりとしている文彰と、彼を横抱きにした白夜が立っていた。だらりと垂れ下がった袖から赤い液体がぼたぼたと滴り落ちている。
ああ、もったいない。
白夜は文彰を更衣に渡すと、赤く染まった口元を片手で拭い口端をぺろりと舐めた。
文彰を抱いた更衣が僕の横を通り過ぎていく。
真っ赤な血で染まった白夜から目を離せないまま、僕はただ立ち尽くす。
赤い指先を舌で舐め取って、白夜は艶然と僕に微笑んだ。赤さの残る手を僕はと差し出して、低い艶やかな声で告げる。
「おいで。郁人」
ふらりと足が前に出る。
逆らえるはずなどない。甘い蜜に誘われる蟲のように、僕は白夜へと引き寄せられる。
「いい子だね」
囁かれた言葉に陶然と目を閉じて甘い蜜を感受する。
僕の後ろで扉が再び閉ざされた。
件という者がいる。
牛の体に人面を持つ者で、獣の鳴き声しかあげぬ件は生涯に一度だけ言葉を話す。それは外れることのない絶対の予言。
そんな件が予言を告げて絶命した。曰く、
『輝夜を取り込め。さすれば階位が上がるだろう』
階位とは力の現れ。力を欲する者にはなくてはならぬもの。
輝夜とは魅惑を操る不死の王。その昔、異界に堕ちては世を騒がせ騒乱を巻き起こしたという。
しかし、それも遠い昔の話。
力を欲する者たちは輝夜を探し始めた。
空を駆け、水に潜り、地を跳んだ。
力ある者は異界へと渡り、しばし混乱が続く。
輝夜とされる者たちは吟味され、運の良い者は帰され、運の悪い者は打ち捨てられた。
そうして諦める者が増えた頃、六尾の狐が一人の男の子を連れ帰った。
「宴」の後、六尾の狐は九尾へと変容した。彼の者が連れ帰ったのが輝夜であったかと皆は羨望した。
そうして、六尾の白夜は九尾を得て、妖狐の頂へと階位を上げたのだ。
輝夜は九尾の屋敷に囲われる。
竹林の奥の奥。強固な結界に囲われた屋敷故に、他の誰も手出しはできない。
垂涎と見上げる無数の輩を、白夜は艶やかに嗤って輝夜の待つ屋敷へと戻る。
「宴」の後、死んだように眠る文彰の側で郁人は長くなったその髪を撫でる。あの日、食いちぎられた左腕はなんとか再生できた。
血色の悪い肌を痛ましく思い、文彰を羨んだ自分を責めた。そして、白夜が文彰よりも自分を選んでくれた事に嬉しさを感じてしまう自分が情けなかった。
「ごめんね」
あんなに仲良くしてくれたのに。僕はどうしても白夜を選んでしまう。
だって、僕は白夜のものだから。
「ごめんね」
僕には帰る場所が分からないから。
白夜の側にしか居場所はないから。
帰りたいと泣いた君が羨ましい。
帰りたい場所が分かっている君が羨ましい。
「郁人」
顔を上げると白夜がいた。
いつ来たのか、僕の横に立っていた。
しゃがんで僕の脇に手を差し込んで、容易く抱き上げてしまう。
左腕一つで支えられると、いつもは高い位置にある白夜の顔を見下ろせてとても新鮮でドキドキする。
右手で僕の髪を左耳にかけてくれた。
「よもやと思うたが、やはり私の輝夜は郁人だけのようだ」
白夜はたまに僕を輝夜と呼ぶ。それは名前ではなくて、命婦や更衣みたいな役目みたいなものらしい。
「文彰はどうなるの?」
「どうしたい?」
意地の悪い笑顔で聞かれて、僕は困ってしまった。そんな返事が返ってくるとは思ってもみなかった。
決められた事に従うのは得意だけど、何かを決めるのはとても難しい。それは僕が決めていい事なんだろうか。僕なんかが決めてもいい事なんだろうか。
高い位置から見下ろした文彰はまるで人形みたいで文彰ではないみたいだ。
「帰りたい」と泣いて叫んだ彼はとても綺麗だった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔でも綺麗だった。
「帰してあげて」
彼が帰れる場所へ。彼を待つ場所へ。
文彰には帰る場所がある。帰りたいと思い描ける場所があるから。
「お母さん」と「お父さん」の場所に帰してあげて。文彰はそこに帰りたがっていたから。
「良いのか?」
「僕には白夜がいるから」
未だに胸の奥で「帰りたい」と泣く自分がいるけど、もう僕にはそこがどこなのか分からない。文彰の「お母さん」や「お父さん」みたいな人が僕にもいるのかさえ分からない。分からないなら白夜の側にいたい。
白夜に食べてもらったら、この「帰りたい」もいつか無くなるのかもしれない。
僕が差し伸ばす手を食べて、帰れる足を食べて、泣き叫ぶ胸を食べて、帰りたいと願う口を食べてしまえばいい。そうして残った目で白夜を見つめて、残った耳でその声を聞こう。
何度も何度も白夜に食べられて、何度も生まれる。
白夜がこの身に牙をたてる度に歓喜し、血を吸われる度に胸が震える。そうして幾度も食べられ、再生し、僕の全てが白夜に取り込まれていく。
靄の向こう側が分からなくなって、消えていくまで。
それは、たぶん、そんなに遠い話ではないのかもしれない。
今はまだじわりと滲む哀惜を振り払うように白夜にもたれかかった。
僕の居場所はここにある。
帰りたかったのはどこなのか。誰の元なのか。もう全ては遠い薄靄の向こう側。
決して帰れない、もう帰らない、向こう側。
泣きたい気持ちを塗りつぶして、蓋をする。
そして、もう問う事のない問いも捨ててしまおう。
暮れなずむ薄闇の遠い向こう側へ。
誰ぞ彼、と問う事はもう無い。
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