第7話
真田信綱をオレゴン・トレイル探査のために送り出す一方で、武田義信は妻と協力して、内陸部に移民しようとする植民者達が使う幌馬車を大量に製造し、他にも移民をする際に必要な様々な物資を調達する準備を調えることにした。
なお、この当時の日本の北米大陸においては、海岸部では船が、海岸部から離れたところでは馬車が主な物資輸送の手段にはなっていた。
だが、この馬車をそのまま幌馬車に転用して、移民に向かう植民者が使えるか、というと。
「1頭立て、大きくても2頭立ての馬車が主ですからね。とても積載する物資の量が足りませんね」
義信の妻の和子は即座に見抜いた。
「それも当然だな。これまでの植民は基本的に海岸部を中心に進められていたからな」
義信も妻の言葉に肯かざるを得なかった。
そう、農業生産の都合もあり、これまでの日本人の植民地の開拓は、まずは海岸部、それから河川を使って、農地を潤せるようにという発想から、内陸部へと向かうことばかりだった。
半ば必然的に船が主要な物資の輸送手段になり、多頭立ての馬車等は作る必要が無かったのである。
船が使えない所を補完するための1頭立て、2頭立ての馬車で充分だったのだ。
こうしたことから、和子は父の上里松一に依頼して、皇軍が持っている筈の移民用の幌馬車製作のための情報提供を依頼することにした。
武田家が移民しているオレゴンの植民地には、日本本土から直接に赴く不定期船はめったに来ないが、カリフォルニアのサンディエゴからは必要な物資を届け、また、オレゴンの産物(この当時の主な産物はほぼ毛皮だった)を送り出すために、ほぼ週に1度の定期便が往復するようになっている。
和子はこの定期便に自ら乗り込んで、インド株式会社のサンディエゴ支店に乗り込み、自らの立場を駆使してインド株式会社への公用として、父への電報を打って幌馬車製作のための情報を求めた。
父からは折り返しの電報で、情報を提供する、資料はできる限り早い船便で届けるとの返事があった。
この情報を得て、和子はオレゴンの自分達の植民地に引き返した。
そして、和子が電報を打ってから2月程した盛夏の頃、父が手配した移民用の幌馬車製作のための様々な資料、更に父からは必要になるだろう、ということで、皇軍がこの世界に持参した史料の中で、どこに埋もれていたのか、(皇軍のいた世界で)米国西部開拓時代の移民達が、幌馬車で移民先に向かう際に持参していた物資の種類や量の例が記載された詳細な資料までが、和子の下に届いた。
和子は、その内容を見て一驚する羽目になった。
「えっ、幌馬車と言いつつ、牛で牽くことも稀では無かったの」
和子の驚きに大して、義信の方が冷静だった。
「それは当然だろうな。牛と馬、どちらが飼料に苦労するかを考えれば自明の理だ」
夫の言葉に和子も納得せざるを得なかった。
尚、アユタヤ生まれで日本では牛を詳細に見たことが無い和子が思い浮かべたのは、スイギュウであって、厳密には牛でないのだが。
それを夫の義信は知る由もなく、微妙にずれたままで夫婦の会話は続くことになった。
「牛の方は、馬と比べてそれこそいざとなれば木の葉まで食べられるからな。馬だとそう言う訳には行かず、別途、馬用の飼料が通常は必要になるのだ」
「確かにそうですね。馬用の飼料を運ぶとなると、牛で牽く方が確かにマシのことが多いでしょう」
夫婦の会話は続いた。
「それにしても、移民用の幌馬車を作るとなると色々と大変だな。単純にこれまでの馬車を大きくして、改造すればいい、という訳には行きそうもないな」
「確かにそうですね」
そう夫の言葉に答えながら、和子はどうしていこうか、と気が逸っていた。
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