第6話
さて、そういった動きが本願寺内部や上里家の周囲であった結果。
更に北米方面での動きもあり、1558年の秋を迎える頃、法華宗徒の強硬派(不受不施派)の多くの北米への移民の準備は徐々に整えられようとしていた。
彼らの多くが、秋の収穫を自らの手に確保して、それによる利益を投じようと考えたことから、移民として実際に出発するのは、早くとも晩秋の頃になるのは半ば当然の帰結ということができた。
更にそこまでの時期になれば、もう少し出発を後らせて、日本で最後の年末年始を済ませた上で、という気分になるのも半ば当然の話となるわけで。
そして、実際に北米へ移民するとなると様々な準備が必要で、すぐに出発できよう筈も無い。
移民のための事前の準備がそれなりどころでは済まないのも、当然の話と言えた。
例えば、北米へ移民するとなると、当然、持っている田畑を処分することになる。
しかし、それこそ中には村民ほぼ全部が丸ごと北米へ出て行こうとする事態となると、その村の田畑の処分がそう簡単にできようはずもない。
最終的に一部の村民が残ったが、その一部の村民が結果的に広大な農地を確保したために、上総、安房、下総南部、それに備前、備中において、熱心な法華宗徒がかつていた村では、日本のそれ以外の地域と比して、農地が極めて大規模化するという副産物が生じる事態となった。
更に移民するとしても、自分やその家族の身一つで、というわけにも行かなかった。
北米へたどり着いたとしても、信仰を護るのなら、速やかに新天地(具体的には内陸部)を目指していき、その地を開拓する必要があると考えられた。
どうやって、その新天地に赴くのか、彼らの多くが内心では不安を覚えざるを得なかった。
こういった状況に対して、北米の武田家では1558年の春以降、様々な準備を調えようとした。
「まず、内陸部の地理が分からねばな」
「そうですわね」
武田義信夫妻は、そのような会話を交わすことになった。
最初に日本からの移民が北米にたどり着いて約10年。松平家や水野家等も探索活動を行っており、カリフォルニア南部においては、皇軍がこの世界に持参した地図が、かなり正確であって役立つのが判明してはいたが。
皇軍が持参してきた地図は、世界に関しては、所詮は世界地図帳の一部と言った程度の地図ばかりで、実際の移民活動に役立つかと言われると程遠い代物の地図だった。
(それこそ、1枚の日本全土の道路等は一切記載されていない地形図を渡されて、あなたはそれを使って徒歩で日本横断旅行ができますか?
というレベルの話である。
細かい地形等が分からないと、内陸部に移民が赴くのにも大変な苦労が待っているのだ)
更に武田家がいるのはオレゴンであり、日本人の開拓はまだ始まったばかりと言って良く、まだまだ処女地と言っても過言では無かった。
こうしたことから。
「真田信綱を呼べ」
武田義信は決断した。
「信綱、オレゴン・トレイルと呼称される道路の有無を調査して欲しい」
「オレゴン・トレイルですか。それはどんな道路ですか」
義信の言葉に信綱は首を捻って、ぶしつけとは想ったが問い返さざるを得なかった。
なお、その場には和子もいた。
「皇軍によると、東の方には山々を越えた向こうには広大な平原地帯があるとのこと。その平原地帯にこの土地から向かうための道路が、皇軍のいた世界ではオレゴン・トレイルと呼称された道路です。信綱殿には、その道路の有無を探って欲しいのです」
和子が夫に口添えして、信綱に依頼した。
「分かりました。その道路があるかどうか、探ってみましょう」
信綱は義信夫妻の指示に応えて、道路探索に50名程の部下と共に赴くことにした。
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