第16話
尚、結果的に1年程、法華宗徒の多くがオレゴンに足止めされることになったが、この間、その残された法華宗徒のほとんどが、のんびりと無為徒食生活を送った訳では無かった。
多くの者が日銭を稼いで食うために、主に武田家の面々が行っていたオレゴンの大地の農地開拓作業等に従事したのだ。
それに、これによって、多くの者が日本でやってきた水田稲作農業と異なる農作業について、1年余り学んだ上で、ミシシッピ川流域へと向かうことができたのであり、決して無駄と言えるものでは無かった。
(何しろ、主に水田稲作農業をしていてはほぼ無縁といえる連作障害を知らない者が、日本から来た移民の中では稀では無かったのだ。
オレゴンの農地開拓作業等で、先に移民してきた者から、そういった事実を知らされ、牛馬による大規模な農地開拓のやり方を実地に学んで、ミシシッピ川流域に赴くことで、法華宗徒の移民は成功できた)
さて、そういった一方で、事実上は松平家と本願寺が手を組んで行った東方への植民計画がどのように進んでいたか、というとこちらも順調に進んだ。
酒井忠次らが行った(史実のサザンパシフィック鉄道沿いの)植民路の啓開は、この世界ではテキサス・トレイルと名付けられることになって、1558年秋にはメキシコ湾にたどり着くことに成功した。
そこで一旦、酒井忠次らは報告のために一部を引替させて冬越しした後、1559年の春から再度の探査活動を行い、今度は更に東へと進んで、最東端として史実でのニューオリンズ市近辺、ミシシッピ川河口に拠点を築くことに成功した。
ここにこれまではロッキー山脈が、北米の日本植民地の事実上の東の境といえたのだが、これ以降の暫くの間はミシシッピ川が日本植民地の東の境となり、
「ミシシッピの川の流れは、日本の北米植民地に大いなる実りをもたらす」
と謳われるようになるのである。
そして、松平家と本願寺門徒を主力とする面々は主にテキサスの大地への入植を進めることになった。
その際に、たまたま瀬名は2人目(後の亀姫)を身籠っていたし、信康も乳飲み子だったことから、これ幸いと松平元康は瀬名をカリフォルニアに置いて、テキサスへと出発してしまった。
更にテキサスでの入植活動に忙しく、カリフォルニアの土地管理は瀬名に任せると口実を作って、瀬名
と元康は、これ以降は別居するようになるのである。
当初は瀬名も追いかけようとしたが、現地妻を複数作る元康に流石に愛想をつかし、カリフォルニアの土地管理の必要があると主張して信康らと暮らすようになった。
そして、石川数正らの行ったカリフォルニア・トレイルの探査も順調に進んだ。
こちらはオレゴン・トレイルとロッキー山脈以東では多くの部分で路を共用することになった。
そして、オレゴンの地はまだまだ未開拓地が広がっていたという現状から、一部の法華宗徒はカリフォルニアに上陸して、カリフォルニア・トレイルからミシシッピ川流域を目指すことにもなった。
更には法華宗徒の一部は、独自の探査活動を武田家等の支援により行い、法華宗の修行、布教の拠点として、史実のソルトレークシティ(この世界では事実上は直訳されて、大塩湖市と呼称される)を建設することになり、その地に赴くための路が法華・トレイルと名付けられることにもなった。
(実際問題として、大塩湖市周辺は人が住む環境としては極めて厳しい土地であり、入植する土地としては魅力に乏しかったが、熱心な法華宗の修行僧たちにしてみれば、それが却って修行の場に相応しいとして入植することになったのだ。
更に熱心な法華宗徒も、この地ならば信仰を護り抜けるとして修行僧たちと行動を共にした)
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