第15話
とはいえ、1559年の秋時点では、ようやくカンザスシティにまで宇喜多家の面々がたどり着いただけといっても過言ではなかった。
最初の移民の路を切り開いたといえる宇喜多家の面々にしてみれば、速やかにミシシッピ川の支流であるミズーリ川の重要な拠点、カンザスシティにたどり着いたこと、更に防御拠点を築きつつあり、翌春になる1560年春には後続の移民が来ることを待ち望んでいる旨を、オレゴンにいて自分達の報告を待ち望んでいる法華宗徒に、半ば帰還を考えない早馬で伝えるだけで、当面は精一杯だった。
(これは移動の特性等による違いによるものである。
それこそ、数人単位の乗馬騎兵が、オレゴンに情報を伝えるだけなら、カンザスシティからオレゴンまで1日に120キロ程駆け抜けることも十二分に可能だった。
(尚、これはネズ・バース族等の親日的な原住民の協力が十二分に得られるのが大前提である)
しかし、実際に移民のために、オレゴンからカンザスシティ周辺まで幌馬車で移動する面々は、1日に24キロ程も進めれば御の字だった。
幾らネズ・バース族等が親日的でも、大規模な移民団の幌馬車の馬の飼料等を全て提供するのは不可能としか言いようが無く、移民団は自らの才覚で旅程のほとんどにおいて飼料や水を確保しようと努めざるを得なかった。
こうしたことから、移民団の使用している牛馬は、度々旅程の途中で資料や水を飲み食いするために、速度を落として所々で止まらざるを得ず、結果的に1日に24キロ程しか進めなかったのだ)
とはいえ、現地に無事にたどり着いた宇喜多家の面々にしてみれば、思ったよりも状況は明るかったといっても過言では無かった。
2000名近い最初期の移民団に犠牲が全く出なかったことは無く、カンザスシティにたどり着くまでには100名以上の犠牲者が結果的に出てはいた。
その原因だが、それこそ病死もあり、旅路の途中で事故に遭って重傷を負って亡くなったもあり、原住民との紛争から戦闘となったことによる戦死もあり、というのが現実だった。
だが、宇喜多家の面々にしてみれば、想像以上に犠牲者が少なかったというのが本音だった。
何しろ未知の土地(細かいことを言えば、事前に真田信綱らが踏破している以上、未知とは言えないかもしれないが、宇喜多家の面々にしてみれば未踏の地であり、未知の土地でもあるのは間違いない)を進まねばならない以上、1割以上の死者が出ることさえ、暗黙の裡に覚悟していたのが本当だった。
だが、それよりも少ない犠牲で済んだのだ。
こうしたことから、宇喜多家の面々は前を向いて、カンザスシティ周辺を防御拠点として整備することができることになった。
そして。
たどり着いたカンザスシティ周辺の土地は、狩猟活動等においては極めて有難い土地だった。
バイソンが大量に生息しており、それこそ宇喜多家の面々は、前装式ライフル銃を持って植民したこともあり、バイソン狩りを効率的に行って、その狩猟成果に依存することにより、衣食住について安楽に暮らすことが出来た。
また。
この当初の段階では、それ程の規模の後続が来るとブラックフット族等に思われておらず、幾つかのバンドの襲撃を受けただけなのも、宇喜多家の面々にしてみれば幸運だった。
実戦経験のあった宇喜多家の面々は、バンドの襲撃を返り討ちにして、勝利を収めた。
更にこの戦いにおいて、生き残ったブラックフット族の女子どもを、自らの庇護下に置いて、更に自らの家族にするようなことも、宇喜多家の面々はした。
これについて、後世において非道極まりないという非難も浴びせられたが。
時代背景を考えるとある程度は止むを得ない話だった。
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