第1話
「弟からの密書ですか」
1558年の春、武田和子は溜息を吐く羽目になっていた。
余程、秘密にしたいのか、秘匿時用として渡された暗号文で書かれた密書だ。
全ての仮名(イロハ48字)を別の仮名に置き換える一字単位の換字式の暗号文で、濁点や小文字等を省いて全て大文字の仮名書きにされているために、自分の腕では復号にも苦労する。
一度きりの使い捨て方式で、次の密書用の暗号用の鍵が別送の手紙で同時に届く手筈になっており、その通りに次の密書用の暗号用の鍵が手元に届いてもいる。
(一度きりの使い捨て方式なので、かなりの強度を誇る暗号文だと弟からは聞かされているが。
お互いに10代の姉弟が使う暗号文とはとても自分には思えない代物で、自分の今の立場を半ば思い知らざるを得ない暗号文、密書だった)
弟といっても血のつながりは全く無い。
更に言えば、戸籍上の姉弟でもない。
和子の猶母になる顕能尼の実子、本願寺顕如からの密書、手紙だった。
このような手紙を弟が送ってくるということは、余程の密事、本願寺内部でも公言しにくい事を連絡してきたということだ。
和子は、自分が呼ぶまで絶対に入るな、と侍女に命じた後、自室で暗号文の復号を一人で行った。
そして、幾つか意味不明の箇所が出てしまい、原文を再確認したり、一部を濁音化したり、小文字化したり等の試みをした後で、ようやく自分なりの復号に成功したが。
僅か1枚の手紙の復号に半日近く掛かってしまい、自分の復号の才能の無さに、和子は自分の頭を抱え込むことになった。
そして、ようやく把握できた密書の内容に、和子は息を呑むことになった。
法華宗の少数派、法華宗の不受不施派の北米への移民について妨害しないように、むしろ便宜を図るようにという指示、依頼を、顕如は自分に出してきたのだ。
どうして弟までが。
和子の内心は混乱した。
実はこの時、和子の手元には別の筋からも、法華宗の不受不施派の北米への移民について、便宜を図って欲しい、という依頼が入っていたのだ。
しかも二つの筋から。
一つは異父兄の上里勝利からの依頼であり、もう一つは直接に自分に依頼があった訳ではないが、夫の武田義信に対してあった依頼で、夫が苦渋する羽目になっていたのだ。
夫の苦渋の原因が、本願寺顕如の猶姉である自分にあることから、自分に対して気にする必要はない、私にも兄から協力依頼があるのだから、と口先では言っていたものの、自分の立場上から積極的に協力しようとは、とても言えなかったのだが、顕如のこの密書があれば話は別になる。
もしかして、弟の顕如は本願寺の情報網から、この移民の話をかなり把握しているのかもしれない。
そして、姉の私が苦悩しないように背を押してくれたのかもしれない。
そう和子は前向きに考えることにした。
だが。
そうは言っても、相手が相手、法華宗徒である。
和子自身はシャム生まれであり、本願寺門徒と法華宗徒の因縁について、そう詳しくは把握していないが、お互いの関係がよろしくないどころでは済まない、のは把握している。
自分の立場(本願寺顕如の猶姉)を活用すれば、北米にいる本願寺門徒の暴発をかなり抑えられるだろうが、それだけでは不十分だろう。
こちらが把握している情報からして、北米の本願寺門徒側もそれなりの武装を整えているようにしなければ、北米に来る法華宗徒から舐められる可能性がある。
「父さんの言ったとおりね。武装した相手には武装して備えるしかない。その結果、手段が目的になって、しばしば武装拡張競争になってしまうがな、って父さんは苦笑して言っていた」
和子は日本本土にいる実父、上里松一の顔を思い出しながら呟かざるを得なかった。
何故に顕如がこのような密書を送ったかですが、文中にあるように、法華宗不受不施派の移民への動きを知り、和子が苦悩しているだろうことを察して、そっと背を押したというのがあります。
(後、前作で描いているように、顕如としては、法華宗に対してそこまでのことをするつもりはなく、極めて後味が悪いことになったので、それを少し償いたいという想いもありました)
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