1998年、香港で
1998年、香港で、喫茶店で二人の男が話していた。
片方が言った。
「香港が中国に返還されてから1年経ったが、どうだい王。お前が心配してたような言論の弾圧とか集会結社の自由が失われるとか、そういうことは起こってないじゃないか。やはりお前の取り越し苦労だったんだよ」
王が言った。
「今のところはな、丁……。だが今後どうなるかは分からないんだ。中国本土では六四天安門事件について自由に語ることもできないというじゃないか。文革といい、大躍進といい、民主主義の国になったはずの中国は、今でも帝政の中国と根本的なところが変わっていないように見える。今の香港では言論の自由や信仰の自由があるけれど、それだっていつ失われるか分からない……中国本土と同じように、政府の批判だってできなくなるかも知れない」
丁が言った。
「そうは言うが、英国植民地時代だって、英国に反旗を翻した連中は弾圧されたじゃないか。どんな国にだって支配の体制があるのは同じだろう?だったら、同じ漢民族の祖国に仕えたほうがいいさ。それに今は、本土復帰したけど一国二制度があって、英国の批判もできるし中国の批判もできる、むしろ英国植民地の時より自由になったと言ってもいいだろう」
「そうかも知れないが……
なんと言うか、香港は中間的な状態にあるんだ。かつては英国の一部だったけど、英国本土ではなかった。今では中国の一部だが、中国本土ではない。そして英国時代の影響で、独自の体制があって自治区のようになっている……英国でもないし中国でもない、ある種の権力の空白地帯だからこそ、高度な自治ができているんだ。でもこの中間的な状態が、果たしていつまで続くことか……いずれ中国本土に完全に取り込まれて、今ある例外的な自由も失われてしまうのではないか……?
それに、たとえ今の状態が続いたとしても、この体制は50年で終わることになってる。返還から1年経ったから、もうあと49年だ。その頃までに、中国本土はどうなっているか……」
「いや、王、今の中国はまだ貧しいからだよ。衣食足りて礼節を知るというだろ?今の中国はあれでも民主主義の国なんだから、これから豊かになってくれば、もっと自由になるかも知れないじゃないか。そう、香港が中国化されるんじゃなくて、むしろ中国が香港化されるかも知れないだろう?なんと言っても香港には金がある。この経済力で祖国を豊かにして、自由にもできるかも知れない」
「そうだといいが……しかし、ヨーロッパのユダヤ人の中には金持ちもいたけど、ドイツでナチスが台頭した時には、金持ちのユダヤ人も助からなかった。金は確かに大きな力ではあるが、それだけで何でも守れるというわけではない」
「さすがにナチスは言い過ぎだろう。中国はむしろナチスと戦っていたほうだからな」
「確かにそうだが、ナチスのような現象は別に当時のドイツだけの例外的な現象じゃないんだ。どんな国でもあれと同じようなことは起こり得るし、実際に起こってもきただろう。中国だって、ある意味ではあれ以上にひどいことが歴史上起こってきた」
「そうかなあ……まぁ、そんなに気になるなら、英国のパスポートをとっておいて、いつでも外国に行けるようにしておいたほうがいいだろうな。まだ持ってるだろ?用心深い連中は、もう返還前に出ていってしまったけど」
「そうだな……」
王は自分のパスポートを見て、言った。
「ある意味、これも香港の中間地帯の象徴のようなものだ。英国でもないし中国でもない……でも俺は、そんな特殊な都市だからこそ、この故郷を失いたくないとも思っているんだ」