【第5回 「くま クマ 熊 ベアー」】
自室のデスクで辞書を片手に課題と睨めっこしていた俺は、ふと視線を感じて振り返った。
「・・・」
気のせいだったらしい。俺は基本的に部屋のドアを開けたままにしておくので廊下まで見えるのだが、たまたま隣の部屋の穂花が通っただけかもしれない。
そう思って再び課題に目を落としたところで、今度はカサコソと音がした。
もう一度振り返るが、誰もいない。考えられるのは飼い猫のミッチー君がパトロールで通った可能性だが、ナチュラルボーン・アサシンなミッチー君が果たして無防備な敵の背後で足音を立てるなんてことがあるだろうか。
俺は背中側に意識を集中させる。それこそ、見えないものが透視できるほどに。
そして、脳内でゆっくりとカウントをとる。3・2・1・・・俺はカウントに合わせてゆっくりと振り返ると見せて、一気に振り向いた。
「・・・!」
何か白いものがサッと部屋の入り口の向こうに消えたのが見えた。
すぐに立ち上がって部屋の入り口まで行くのも一つの方法だが、ここは敵を油断させて引きつけるべきだろう。
俺はデスクの上を見渡した。何か、使える武器はないだろうか。・・・あった、これなら釣れるかもしれない。き○この山いちご&ショコラ。
俺の後頭部の第三の眼は確実に敵の姿を捉えている。現在、奴は俺の部屋の中程にまで侵入している。しかし、急いては事を仕損じる。ここは大袈裟なくらいの動作でゆっくりと振り返り、やつを安全に退避させる必要がある。俺に気付かれていないと思わせることができれば、捕獲の確率もグッと上がるはずだ。
俺は両腕を突き上げて伸びをすると、いかにもこれから立ち上がりますという雰囲気を出してからゆっくりと立ち上がる。そして、福岡ドームの天井が開く速度くらいの速さで振り返った。当然、そこにはヤツの姿はない。
俺は手に持ったき○この山いちご&ショコラの小袋を、まるで太平洋に浮かぶハワイ諸島のように、フローリングの床のど真ん中に置いた。
そして、デスクに戻ると、別の小袋を開け、一本つまんで口に入れる。
「うわーこれほんとおいしいな〜」
ガリガリと咀嚼しながら言いつつ背後に意識を集中させる。俺にはいま、背後の様子が手にとるようにわかる。
敵は、ドアから頭部をひょっこり覗かせて、俺の様子を探っている。俺が気づいているかどうかを見極めようと、じっと動かずに見ている。俺が後ろを気にする様子もなくき○この山を食べながら本を読んでいるのを見て、おそるおそる、2、3歩部屋の中まで入ってきた。目的のおやつまではあと1メートルとちょっと。慎重にさらに数十センチ進み、そこで一度止まって俺をじっと見る。一歩進んだ。き○この山まであと二歩。その二歩を奴は息を殺し、一歩、また一歩と進み、獲物に手をかける。
その瞬間を狙って、俺はガバッと飛び上がると敵目掛けてびょこ〜んと飛びかかった。
「!!」
目に飛び込んできたのは、真っ白くてむくむくしたナゾ生物。ナゾ生物はき○この山を放り出すと一目散に部屋の入り口から出て行った。あ、そっち曲がったら階段だから危な・・・ああ、遅かった。途中から階段を転がり落ちる音が聞こえてきた。あのモコモコは多少クッションになったりするのだろうか。
とりあえずあれは何だ? ・・・羊?
俺は記憶のどこかに似たような姿の生物を見た覚えがあった。そう、あれは、村上春樹の初期小説の登場人物、羊男ではないだろうか。
おっと、ぼーっとしてしまったが、羊男の生存を確認しなければ。なんかモコモコ着込んでいたからたぶん無事だろう。そもそももしも本物の羊男なら別にどうなったって構わないのだが。
部屋の入り口から踊り場に出て階下を見下ろすと、階段の先の床の上に不気味に蠢く謎生命体が転がっていた。
俺が階段に足を下ろすより先に、白物体にゆっくりと近づいてくる姿があった。・・・見知らぬおばさんだった。おばさんが身を屈める拍子に見えてはいけない胸部装甲が目に飛び込んできそうになったので反射的に顔を逸らす。
恐る恐る顔を戻した時にはおばさんの姿は羊男もろとも姿を消していた。まさか、消滅・・・な訳はない。
途端にガハハとオバ連と思われる複数の笑い声やら何やらがどっと聞こえてきた。どうやら近所のオバ連たちが集っているようだ。部屋にいても気づきそうなものだが、なぜ気づかなかったのだろう。
ともかく、謎生物の謎は謎のままだが、オバ連の宴会に捕まるのも恐ろしいので謎は謎のまま忘れることにして部屋に引き返す。
俺は課題の続きに戻ったものの、ナゾ生物のことが頭から離れずどうにも集中できない。
諦めた俺は本棚の前まで行くと、適当に本の背表紙を眺める。
すると本棚の一角を占める一つのシリーズに目が留まった。
「くま クマ 熊 ベアー」。
小説のタイトルというより子供向けの動物本のようにみえるが、ファンタジー業界随一の着ぐるみ系美少女冒険物語である。ちなみに作者のペンネームは「くまなの」。正しい読み方はわからないのだが俺はなんとなく「くまなの?」ではなく、「くまなの↓」と読んでいる。ドリカムとか関ジャニと同じ発音である。
さて、この「くまクマ」であるが(正式な略称は知らないのだが、たぶんこうなんじゃないだろうか)、何というか、説明が非常に難しいのだ。
異世界に転生した美少女がクマの着ぐるみを着て最強の冒険者として巨大な魔物を倒したり困っている人々を助けたりする小説である。
その世界の魔物は強大で強いのに対して、人間の力はたとえ実力のある冒険者でも全く力が足りておらず、かと言って常に魔物の脅威にさらされているかというとそこまででもなく、人々は比較的平和に能天気に暮らしているが、それも主人公のクマ、じゃなかった着ぐるみ美少女ユナの周囲だけがどんどん平和になていっているだけなのかもしれないが、とにかくわりとアンバランスな世界観だったりする。ちなみにユナ本人は自分が美少女だとは思っていない。
こういう風に説明するとまるでディスっているようだが、決してそうではない。はっきりいうと俺の好きなラノベランキングで常にトップ10入りするレベルで大好きな小説なのだが、しかし、積極的に人に勧めたいかというと、あまりそういう気分にはならない。
どちらかというとご都合主義な物語でもあるが、それはユナのクマパワーが反則級に強いからで、ピンチが必ず解決されるという安心感が担保されているという点で、退屈に感じる人も少なくないはずだ。
にもかかわらず、俺は初めて手に取ったときには、その魅力に取り憑かれて当時刊行されていた10巻ほどをほんの2、3日で読み切ったし、なんというか、中毒性のある不思議な魅力があるのは確かだ。
ただこの小説は、現在のライトノベルが抱える一つの問題が常に気になる小説でもある。
それは、「ありがとうね問題」である。
先にも書いた通り、この物語は基本的に、困っている人をユナが助けるという形になっているため、物語のそこかしこで感謝の言葉が飛び交う。ユナは感謝もされるし、反対に感謝もしまくっている。
その時に使われる感謝の言葉のほとんどが「ありがとうね」である。
もしかしたら、この表現を見ても違和感を感じない人も結構いるかもしれない。しかし、声に出して読んでみてほしい。
「ありがとうね」
そう。我々の日常生活において、「ありがとうね」とは言わないのだ。「ありがとう」もしくは「ありがとね」「ありがとうございます」。
「ありがとうね」の「ね」は、親しみを込めるときの接尾辞のようなもので、この「ね」を付けることによって、感謝の言葉に気持ちを乗せようとするものだ。
正しい日本語としては、「ありがとうね」でいいのかもしれないが、この表現が会話においてのみ使われるということを考えると、自然な口語表現こそが求められるライトノベルにおいて、一度この違和感が気になると気になって読書に集中できなくなってしまうことすらある。
おそらく、この「ありがとうね問題」はどこかで議論されることもなく、編集者の校正のチェックが入ることもなく、徐々にライトノベル業界に蔓延しつつあるのではないだろうか。
言語とは変遷するものである。
言語が時代とともに変化していくことを否定することは、言語の歴史そのものを否定することである。にもかかわらず、戦後教育を受けた我々世代は、問題と答えが一対一である、という価値観を無意識に植え付けられている。特に日本語の表記の問題は、明治期に書かれた小説を読むとわかるのだが、はっきり言って適当である。一つの音に対して複数の書き方があるというのは100年前の日本語においては当たり前だったのだ。
しかし、近現代の学校教育が教育の標準化という、高い目標に向かって進んだ結果、それまで曖昧だった日本語の揺らぎが否定されてしまった。ハネの有無や書き順で簡単に正解と不正解を切り分ける、ということをしてしまったのだ。
こうやって書くと、我々の日本語がどんどん乏しいものになっていっているように感じるかもしれない。
しかし、そんなことはない。言語は変遷するものだから。
特に現代語は表現の自由さという点では、ポストモダンの作家たちが目指したようなことを日常において実現したと言ってもいいくらいだ。
そう、変わることは良いことなのだ。
ここで「ありがとうね問題」に話を戻そう。
思うに、最初は誰かの些細な書き間違いだったのではないだろうか。というのも、この「ありがとうね」は、基本的にはライトノベルでしか使われない。ライトノベルのお隣の業界とも言えるマンガ業界では使われないのだ。マンガは「吹き出し」が小説における「」の役割を果たしているが、より自然な表現を希求した結果、会話や擬音は極めて簡潔に洗練されている。
ところで、ライトノベルというのは結構読者の範囲が狭い業界である。他のメディアに比べて、興味がない人が入ってきづらいのだ。その結果、少し閉鎖的な読者の擬似コミュニティのようなものが形成される。ライトノベルの作者が熱心な読者であったりもする。なろう業界のおかげで読者が簡単に作者になることもできる。
その結果として、一度どこかで使われた「ありがとうね」は、別の誰かによって自然に再使用され、それが何度も何度も行われた結果、今では読者の大半がそれに違和感を感じなくなっているのではないだろうか。
もちろん、意識の高い作者は、当然「ありがとね」と表現する。
しかし問題は、「ありがとうね」を使う作者の意識が低いわけではないということなのだ。
今や「ありがとうね」は、繰り返し使われることによって、ライトノベルの世界に市民権を得た。そしておそらく、遠くない将来においては、他のメディアにも、ゆっくりと「ありがとうね」が広がっていくことだろう。もしかすると、近い未来においては、我々は、日常会話の中でさえも、「ありがとうね」と言っているかもしれない・・・。
ところで、「くま クマ 熊 ベアー」は、この「ありがとうね問題」が気にならないくらい、面白くて楽しい小説である。念のため。
そんなことを考えていた俺は、ふと視線を感じて目をあげた。
そこには真っ白い着ぐるみを着た幼稚園児くらいの子供の姿があった。
「・・・アルパカ?」
残念ながらクマの着ぐるみを着た美少女ではなかった。