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★★
速水は、今日一日を回想して溜め息を吐いた。
帰宅してから軽くシャワーを浴びて、冷蔵庫から取り出した缶ビールを飲む。
思い出すのは初めて会った今日の客———黒木 真司の事ばかりだ。
はにかんだ笑顔が可愛いな、と思ってギクリとしたのはカフェでの事だ。
いや、ないだろう、と自分に突っ込むくらいには動揺した。
相手は可愛いという年頃はとうに過ぎた年上の男性だ。
失礼にも程があるだろうと自分を諌めた。
そんな速水の気持ちなどお構い無しに、黒木は一々可愛かった。
恥ずかしそうに付箋だらけの雑誌を取り出したり、
———あんまり恥ずかしそうにするから、こちらも出すつもりが無かったスクラップブックを出す羽目になった。
社会人になって三年は過ぎているだろう癖に、余りにピュア過ぎて、
———だから自分の身の上話しなど普段しない話しをしたりして恥をかいてしまった。
こんな男がNo.1なんて、と笑わないどころか、優しくされて、呆気なく落ちてしまった。
彼には思い他人がいるのに。
やっぱり自分には恋愛は向いていない。
速水は缶ビールの空き缶を手のひらで持て余しながら、深く溜め息を吐いた。
そもそも、速水は男性を好きになる性質では無かった筈だ。
今までも漏れなく女性しか恋愛対象になったことは無い。
戸惑いがあったが、黒木には悟られたくないと思った。
ただでさえ、意中の女性のことでいっぱいな黒木を困らせたくなかった。
それに、もう二度と会わないだろう相手だ。
いつか不確かなこの気持ちも風化するに違いない。
それに、客相手の恋愛はご法度だ。
忘れてしまおう———。
速水は薄ぼんやりと部屋に差し込む月明かりを浴びながら目を閉じた。
★
まさか———。
速水は鼓膜に張り付くようなドクドクという心臓の音に翻弄されていた。
Love isは、三月いっぱいで辞めた。
矢張り接客していても黒木を思い出し辛かったし、就職したら辞める話になっていたからだ。
大学も無事卒業した。
四月からは新たな気持ちで切り替えて行こう。
そう考えていた入社式当日。
エントランスホールで出会ってしまったのだ。
「速水さん?」
振り返ると、黒木が居た。
嘘だろう、と動揺する間も無く、慣れた薄ら笑いが貼り付いていた。
「おはようございます。今日入社式なんです。スーツ着慣れていないので、不安なんですが、おかしな所はありませんか?」
なるべく平静を装ったつもりだったが、少し声が上擦ってしまっていた。
「いえ、大丈夫ですよ。えっ?でも入社式って」
困惑を極めた黒木の表情に、速水は段々と気分が沈んで行くのを感じた。
「元々大学の間だけの約束でしたから。今日からこちらでお世話になるんです。まさか黒木さんと同じ所に就職する事になるとは思いませんでしたが」
速水は落胆した。
黒木の表情が明らかに困惑を含んで居たからだ。
ああ、諦めていたのに、また会ってしまうなんて。
きっぱり気持ちを封じることが出来るだろうか?
いや、出来る出来ないの話しではないのだ。
彼が近くにいようが、いまいが、諦めなくてはならないのだ。
速水は、内心溜め息をつきながら気持ちを切り替えた。
★
速水は営業課に配属された。
対人は苦手では無かったし、そこそこ小回りの効く性格だと自負していたので、妥当な配置だと思った。
万が一、黒木と同じ部署になっていたら、とんでもない失態をやらかしてしまうかもしれないと思っていたので安堵もした。
———部署が違えば案外会わないものだな。
寂しくはあった。
しかし、これ以上自分の中にある黒木への想いを育てる事が怖かった。
世間的に受け入れられつつあるとはいえ、矢張り同性との恋愛はまだまだマイノリティである。
そこを押してまで踏み込めるかと言われたら、速水はそんなに起用な人間では無い。
この気持ちがこのまま育ってしまったら覚悟も無いまま黒木を巻き込んでしまう事になる。
しかも、黒木には、
———好きな人がいるんだよなぁ。
相手の女性はどんな女性なんだろうか。
確か事務の黒木の同期と言っていた。
あれから、黒木は上手く誘えたのだろうか。
黒木とデートした場所の花の盛りは過ぎている。
きっと彼女と行っただろう。
もしかして、もう交際が始まっているのだろうか。
まともな女性ならば、きっと黒木の良さに気付くに違いない。
色々な考えが巡る間に、あっという間に金曜の退社時間となった。
「速水さん、今日飲みに行きませんか?」
同僚の親睦会を断り、帰宅の途に着こうと会社を出ると、そこには黒木が居た。
スーツの上に黒いトレンチコート、それからマフラーを巻いた黒木が、花の頭を赤くしている。
春とはいえ、まだまだ寒さの残る時期だ。
きっと速水を待つ為に定時退社で張ってくれていたのだろう。
———ああ、上手く行かないな。
速水は詰まる胸を抑えて頷いた。