プロローグ 悪夢のようなピタゴラスイッチ
得てして、物事のきっかけというものは些細なことに過ぎない。
それは誰も気にしない程の小さなことが始まりとなり、気がつかないうちに手の施しようがないほどに大きな事象となる。
それこそ、雪だるま式に。
もしもあの時、ああしていれば。
その言葉がどんなに無意味なものであるのか、この夏十七歳を迎えようとしている俺こと野呂井 翔は嫌という程に理解している。
ところで、“超不幸体質”という言葉を聞いたことがあるだろうか?
自分で言うのも何だが、俺は俺という人間を言い表す上でこれ以上相応しい言葉は他にないであろうと自負している。
端的に言えば、俺は何かにつけて運がない。
思えばそれは幼い頃に母親が再婚して、名字が変わったことから始まったように思う。
何その変な名前? と気になった人も多いだろう。
実際よく言われるしな。
しかし、だ。
俺の元の名前は大空 翔という、誰が見ても縁起の良さそうな名前だったのだ。
不運にもノロイカケル、なんて冗談みたいな名前なってからというもの。
道を歩けば鳥のフンが顔にあたり、遠足に行けば必ず雨が振り、人混みに入れば必ず財布をスられる。
努力をすればするほど報われないなんてこともザラだ。
リレーの選手に選ばれたかと思えば本番当日に肉離れを起こすし、高校受験の日なんかは験担ぎに食べたカツ丼で食中毒を起こしたりもした。
おかげで第一志望の高校に入れなかった苦い思い出もある。
ノロイカケルなんて名前なのに、皮肉にも俺自身が呪われているかのような運の無さ。
俺はいつしか、”努力”なんてものが無駄なものであるということを学んでいた。
そんな俺も高校生になって、自分自身の不幸体質にますます拍車がかかっていたように思う。
どれだけ目立たないようにしていても、不幸というものは向こうから飛び込んでくるものだ。
◇
明日から夏休みだというのに、俺はその日も周囲を警戒しながら帰り道を歩いていた。
自宅のある最寄り駅に降り立つと、痛いくらいの太陽の光が肌に突き刺さった。
その日は随分と暑かったように思う。
カラッと気持ち良いほどに晴れた空。
うるさいくらいのセミの声。
そんな中でも汗を流して働く工事現場の連中と、公園で爽やかな汗を流す小学生くらいの子どもたちの対比がおかしかった。
――その公園の側を通りかかったとき、事は起きた。
「あっ、危ない!!」
俺が声のした方角を向くと、俺の頭を目掛けて野球のボールが飛んできているところだった。
何もしなければ、こういう時ボールは百パーセント俺の頭に命中する。
ん、何で分かるのかって?
そういうものだからだ。
それ以上に説明しようがない。
こんなことは慣れっこだ。
俺は最小限の動きで身体を反らしてボールを躱す。
……が、そのボールは縁石に当たってイレギュラーなバウンドをしてみせた。
あり得ない放物線を描いた後、そのボールは工事現場の中へ吸い込まれていく。
嫌な予感がして、ボールの行方を目で追ってしまう俺。
「うわっ!」
やっぱり、ボールを避けるんじゃなくて怪我をしてでも身体で受け止めておくべきだった。
そのボールは工事現場のおじさんの足の下へ滑り込んだ。
ものの見事に、角材を運んでいたおじさんが派手に転倒する。
その角材は近くで缶コーヒーを飲んでいた別のおじさんを巻き込んだ。
このクソ暑い日に何を思っていたのか、そのおじさんはたまたまホットコーヒーを飲んでいたらしい。
熱々のコーヒーが、角材と衝突して宙を舞う。
そしてそれは、不運にもクレーンの操縦席に飛び込んだ。
「ぅ熱っちいいい!!」
熱々のコーヒーが操縦者にかかり、クレーンのレバーが急激に倒され、吊るされていた鉄骨が大きく揺れた。
ワイヤーがたわみ、鉄骨が滑り落ちそうになる。
落下地点には、買い物袋を持った女性が歩いていた。
悪夢のようなピタゴラスイッチ。
あぁ、なんということだ。
俺の不幸で、また誰かが犠牲になってしまう。
俺は自らの不幸を呪おうとしたが、女性の持つ買い物袋……もといエコバックに見覚えがあることに気がついた。
黒い生地に、白地で不格好なドラゴンの絵が縫い付けてある。
アレは、俺が小学生のときに家庭科の授業で作った趣味の悪いエコバックだ。
かつての俺は、それを母親が喜ぶと思ってプレゼントしたのだ。
母は律儀にも、センスが良いとは言えないそれを使い続けていた。
そんな母は、ようやく自分の頭上に鉄骨が迫ってきているのに気がつこうとしていた。
「――母さんッッ!!」
弾かれるように、俺は全力で走り出した。
些細過ぎるきっかけだったが、この事故を引き起こしたのは恐らく俺だ。
無我夢中で走り、まるで周囲の時が止まったようにスピードが出る。
俺の身体は思ったよりも遥かに速く動き、母をその場から突き飛ばすことに成功していた。
しかし。
『――ガッシャアアアアアン!!!』
残念ながら、自分が逃げる程の余裕はなかったらしい。
ものすごい衝撃音の後、激痛が走る。
恐る恐る自分の身体を確認すると、その鉄骨は見事に俺の腹から下を潰していた。
コンクリートが鮮血に染まり、視界が真っ赤に覆われる。
自身の身体が感じるのは、痛い、というよりは熱さだった。
熱い。
潰された箇所が焼けるように熱い。
突き飛ばした母が戻ってきて、俺の手を掴んで泣いている。
人が集まってきて、何か叫んでいるがよく聞き取れない。
ゴポ、と口から血液が溢れる。
今度は寒くなってきた。死ぬって、こんな感じなんだろうか。
全身から力が抜けていく。
ひどく眠い。
なにかを考えることすら億劫だ。
固くて冷たい地面の感覚だけが残る。
最期くらいは柔らかい布団の上で迎えたかったなぁ。
――まぁ、それもどうでも良いか。
漸くこの不幸が過ぎる人生とおさらばできるのだ。
これでもう、俺の不幸に他人を巻き込むこともない。
俺は妙な安堵感と共に、そのまま意識を切り離すことにした。
……自身の未来に、とんでもないモノが待ち受けていることも知らずに。