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「それにしてもJ3降格ってこんなにキツいんだな」
アトランティコ三河のチームカラーであるオレンジ色のネクタイをきっちり締め、紺色のスーツに身を包み、カーキ色のロングコートを羽織った岩佐浩平は、練習メニューの最後となる紅白戦をしているチームを眺めながら、独り言のようにぼやいていた。発した言葉同様、その表情には重苦しさともどかしさ、そして僅かな寂しさが垣間見える。
南国と言えどもまだまだ2月の寒さが残る中、宮崎でのキャンプは既に最終日となっていた。日差しがやや弱まる曇り空。ただ雨が降りそうなほどの空ではない。
4日前に宮崎入りして以降、格上とのトレーニングマッチや毎日のハードな2部練習もこなしてきたが、ここまでの疲労を全く感じさせないほどに選手の動きは良い。選手たちが相手を翻弄し、鋭く躱す様を見ていると、今すぐシーズンが始まっても大丈夫ではないかと錯覚させられる。
地元宮崎のサッカーファンだけでなく、愛知県からわざわざやってきたアトランティコのサポーターもスタンドで見学をしている。時には声援の声がグラウンドに向けて発せられるその声も、選手を後押ししようというハリのある声だった。リスタートとなるシーズンに向けた期待感が漂うのは、反対側から見ていてもよくわかるほどだ。
それでも、岩佐にはどこか厳しさを感じているように見えた。
「いや、なんとなくわかってたけどさ、ここまで酷いとは想像できなかったよね。実際現場に踏み入れないとわかんないことってまだまだいっぱいあるんだろうね」
「そんなもんですよ、岩佐さん。Jリーグは結局まだまだ歴史が浅いから、すぐに結果で判断されるようなリーグなんすから」
岩佐の右隣に立つ、同じくオレンジ色のネクタイを締めた幸長健司が岩佐に返す。こちらは黒いスーツの上にベージュのコートだ。涼し気な表情とは裏腹に、彼もまた陰鬱な表情だ。
「それこそヨーロッパのセリエAとかリーガエスパニョーラと違って、ほんとにネームバリューよりも1年ごとの結果が重要視されて、それでスポンサーが動くんです。だからどんな親会社でも、結果が出なければ見切りをつける、いわゆるビジネスライクな傾向が根強いわけっすよ」
時々グラウンドの反対側から聞こえる監督の指示の声がよく通る。ボールホルダーに対するプレスをしきりに繰り返し、徹底的に厳しくチェックをかけるよう、詳細に、繰り返し指示を出していた。
「でもまさかなぁ、何から何までほとんど総入れ替え・・・」
「そうっすね・・・」
「俺さ、正直こんなにいなくなるとは思ってなかったもん」
「いや、俺ももっと引き留められると思ってたんですけどね。選手生命って短いから、選手のほとんどがその分少しでも上のステージで輝いていたいって思うのは当然ですから。ある意味仕方ない部分なのかもなぁ」
うん、まあねぇ、そうだよねぇ、と曖昧ながら言いながらもどこか納得のいかないような表情で、岩佐はグラウンドを遠い目で見つめていた。その目は、これから来るシーズンへの憂いもあり、そして変わり果てたチームの様子への寂寥感もあった。
「それにしてもここまで変わるもんなんだなぁ」
今シーズンから代表取締役社長に就任した岩佐はまだ、37歳という異例の若さでの就任だった。同じく強化部長に就任した幸長もまた35歳という、この業界では非常に稀な若さでこの職に就いていた。
前社長は当然ながら、昨シーズンのJ2・J3入れ替え戦を終えた翌日、引責辞任を発表した。それに追従するように、副社長、ゼネラルマネージャー、強化部長と立て続けに辞任し、フロントの大半が入れ替えとなる形になった。不甲斐ないシーズンの代償に、10社は下らないであろうスポンサーが撤退を表明し、残りのスポンサーでさえもほぼ全てが支援の縮小や出資額の削減を表明してきた。シーズン終了報告会には、例年の半分以下のサポーターしか参加していなかった。
新社長に岩佐が就任した経緯は、実に奇跡的だった。スポンサーのうちの1つである三河温泉協会の広報部長だった岩佐がアトランティコ三河の苦境を耳にし、自ら火中の栗を拾いに手を差し伸べたのだ。もともと大のサッカー好きだった彼は、生まれ育った豊橋の街にスタジアムを構えるこのクラブの危機を救いたいと思い、自身が社長となってクラブを立て直したいという強い希望をクラブ側に猛列にアピールした。もちろんクラブはこの申し出を有難く快諾した。
その岩佐が新たな強化部長として連れて来たのが、彼の大学時代の後輩である幸長だった。同じ東京の明栄大学のサッカー部でプレーしていた2人は、在学中のみならず卒業後も非常に親しい仲だった。卒業後にあっさり選手を引退した岩佐とは異なり、幸長はJリーグよりも1つ下のカテゴリーであるJFLのクラブで3年間プレーしていた。岩佐が地元に帰り、父親の伝手で三河温泉協会に入った頃、幸長は岩佐に冗談交じりに提案したことがあった。
『いずれはアトランティコのフロントにでも行ってみたらたらどうっすか』
当時のアトランティコはまだJFLで戦っており、Jリーグ入りを目指すクラブを後押ししようというポスターが豊橋や蒲郡の各地で見られた頃だ。幸長も、JリーグのクラブでなくJFLくらいのレベルでも現役を続行したいと考えており、その候補の1つとして岩佐の地元である豊橋にあるアトランティコ三河への加入を考えていた。その相談の中で、幸長がたまたま放った一言だ。
そのとき岩佐は、半分苦笑交じりに、
『まあJリーグに昇格したらその機会があるかもな』
と、さして本気にする様子もなく返していた。まさか本当に冗談が実現し、しかも社長に就任するなどとは、夢にも思っていなかっただろう。
このやり取りから2年後、アトランティコはめでたくJリーグ昇格を果たし、当時の最下位リーグであったJ2に参戦することになった。もう一度幸長が提案した時、岩佐は首を横に振りながらこう言った。
『そんなんまだまだ先だよ、俺がクラブに関わることができるのなんて』
『じゃあ機会があったら?』
『そりゃやるかもしんない。どっちかっていうとやりたいとは思ってるからさ』
窓から豊橋市立陸上競技場を窺えるカフェで、岩佐はそんなことを言っていた。それだけに、この危機的状況に陥ったクラブに手を差し伸べるという決断は早かった。協会長に掛け合い、スポンサー出資の削減もさせなかったのも、ひとえに彼の迅速な行動力と熱意によるものだ。
『俺が社長になったら必ず1年でJ2に復帰させます。J1に行って、そこで上位争いができるようなクラブにします。だからお願いです、スポンサー支援規模の縮小だけは考え直してください!この通りです!』
三河温泉協会の会長や会計に頼み込んだ結果、何とかスポンサーからの撤退や規模の縮小を回避することができた。しかし、その代わりに彼が求められたものも大きかった。
『もし1年でJ2に復帰できなければ、三河温泉協会はアトランティコ三河のスポンサー事業から完全撤退する。一切の資金援助も広告も、全部だ』
一見簡単なミッションに聞こえかねない。しかし、4年前にJ3が新設されて以降、J2から降格してきたクラブが1年でJ2復帰を果たした例はない。むしろJ3の中位の常連に落ち着いているクラブが大半だ。これは、今までリーグ史上前例のないミッションだった。
さらに、降格したクラブが草刈り場となり、大量に選手が流出することは、もはや常識である。とはいえ、岩佐や幸長が想定していた以上に選手流出が激しかったのは事実だ。それは選手だけでなく、コーチ陣にも当てはまることだった。優秀なコーチがJ2の中位クラブに次々と引き抜かれていく様は、実に滑稽だった。交渉のテーブルに着くまでもなく他のクラブに移籍しますんでと退職願を突き付けられ、コーチ全員を失った。監督まで退任したことで、現場の首脳陣を全員出してしまうという状態にまで陥った。
コーチ陣の整備云々の前に、何としても監督を探さなければならなかった。しかし、2人はこの状況に最もふさわしいと考えている人物がいたのだ。
強化部長就任から3日後、幸長は東京の目白にあるグラウンドに来ていた。このグラウンドは明栄大学の所有するもので、人工芝がよく整備されていた。ちょうど木曜日で、彼が目当てとする人物がここにいることを分かっていた。
本当は豊橋にあるクラブハウスでミーティングが行われているのだが、前日に事情を説明すると岩佐は、
『奇遇だな。俺もお前にそろそろ頼もうかと思ってた』
幸長のその言葉を待っていたかのように、立ち上がって頷いた。考えていることは、頤一緒だったのだ。
『じゃあ、経費でお願いしますよ』
『自腹で行けよ』
『いちおうこれ仕事でしょ!ねえ岩佐さん!』
『冗談だよ、出してやるよ』
こんなくだらないやり取りをしながら、自分が明日言わなければならないことを頭の中で整理していた。
ちょうどグラウンドでは紅白戦が行われていた。
『もっと寄せろ!そんな甘いプレスで相手が止めれんのか!』
フェンスの外からでも聞こえるような凛とした怒声が響く。相変わらずだ。的確な指示をビシッと出すことで、練習中も試合中も流れを変える。案の定、青い3番のビブスを着た選手が激しくボールを奪いに行くと、相手の攻撃のペースが少し遅れ、後ろにボールを下げざるを得なくなった。
昔と比べると白髪が混じるようにはなったオールバックの髪も、縁の薄い丸メガネも、鼻の下の髭も、何もかもが幸長の記憶通りのままだった。彼は満足そうに手を叩き、
『そうだ!いつもそれをやれ!』
叱るべきところでは叱るが、褒めるべきところはしっかり褒める。これも昔からだ。彼はこの当たり前のことを当たり前のようにできる、珍しい指導者だ。
3番の選手はよく見ていると、ポジショニングも悪くなく、ゲーム全体の流れを読むのが上手い。実際、他の選手と比べて動き出しが一歩速かった。
自分のマーカーにボールが入った瞬間、彼は猛然とプレスをかけに行った。激しくボールを奪い取ると、そのままドリブルで駆け上がる。圧力をかけるディフェンダーを次々躱すと、ペナルティーエリアの手前でフワッとした浮き球のパスを送った。そこに長身の選手が走り込み、ヘディングでゴールに叩き込んだ。実に美しい連携だった。技術面も決して悪くはない。Jに行ってもそれなりに通用しそうな選手だった。特にJ2などでは少し成長すればレギュラークラスの選手になるかもしれない。
『あいつは来季から大宮だ』
不意にその人物―金勇聖が口にした。振り返りこそしなかったが、一瞬だけ柔和な表情を見せると、
『本当に目利きが良いならわかるだろう、幸長』
気づいていたのだ。隠れていたわけではないが、練習の邪魔にならないようにと外から黙って見ていたのにだ。本当に金には超能力がありそうだ。
『動きを見ていればわかります。前線からのプレスと速攻を武器にする大宮のプレースタイルにも十分合いそうだ』
『そうか。やっぱりJのスカウトの目は伊達じゃないな』
こっちに来い、と金に言われ、幸長はグラウンドに入った。
右手を差し出しながら金は、
『久しぶりだな。母校が懐かしくなったのか?』
『まあ、そういえばそんなとこですかね』
ふん、と鼻を鳴らした金は、再びグラウンドへと目を向けた。選手たちが互いに指示を出したり意見を交わす声が響く。だいぶ疲れてきたのだろうか、やはり足が止まりかけている選手が出始めた。そんな彼らに幸長は内心で、『夏場にはこれをやっててよかったって思えるようになるぞ』とエールを送った。これくらい、金の下では当然のようにあり、その結果として彼らの成長があるのは間違いない。幸長は熟知していた。
数プレーをじっくりと見たあと、金は腕の時計に目を遣り、
『そこまで!クールダウン!』
大きな声で叫んだ。選手たちがグラウンドで大の字になったり、座り込んだりしながらも、クールダウンの準備を始める。シューズの紐を緩めながら交わされる会話は、先ほどの紅白戦の反省点だ。幸長がいた頃よりも活発に意見が交わされている。
『幸長』
金が振り返る。
『後輩たちに一言言ってやれ』
『僕なんか大したこと言えませんよ』
『JFLとはいえ大学からサッカーの世界に身を投じ、海外にまで行った男だ。お前なら言葉に説得力がある』
大学時代、金には怒られっぱなしだった。プレーも、精神面でも。しかし、その金が自分のことを評価している。
『じゃあ、お言葉に甘えて』
金が選手たちの方に向かって歩き出した。幸長も後ろをついていく。
『解散したら、いつもの場所に行くか』
『了解です』
いつもの場所。それは、金と幸長、そして岩佐にとっては思い出のある場所だ。よく叱られ、たまに褒められ、慰められ、成長や覚醒を促す場になってきた。この場所にこの3人が集っていなければ、間違いなく今の岩佐も幸長もなかっただろう。
結局、その場では本題を伝えることができなかった。
『みんなにはプロに行く可能性も、海外に行く可能性も、僕らの頃より無限にあると思います。だからこそ、積極的にチャレンジしてほしい』
幸長は続けた。
『僕は選手としてはあまり大成できませんでした。でもこれから僕は、アトランティコ三河の強化部長という役職で、クラブを復活させるという使命が待ってます。そのために全力を尽くしたいと思ってます。そのプロジェクト、ミッションの中に、皆さんが関わる時が来ることを願ってます』
少し長かったかな、と思うスピーチの最後を、このように締めた。
『なかなか良かったじゃないか』
金は運転しながら笑う。助手席の幸長は、
『やめてくださいよ、選手としては全然何者にもなれずに終わったんですから』
『そんなことはないだろう。4部とはいえドイツでプレーできたわけだ。そんな選手はなかなかいない』
『まあ確かにそうですけどね』
久々に乗った恩師の愛車は、全くと言っていいほど変わりなかった。同じトヨタの黒いミニバンにもう15年も乗っているというのが驚きだ。よく壊れやしないなと感心してしまったほどだ。
『ライバルクラブの親会社の車は嫌か?』
不意にあまりに意地悪な冗談を投げられ、これには苦笑するしかなかった。
名古屋を本拠地とする名古屋グランドガンズは、アトランティコと比較することさえも許さないであろうビッグクラブだ。Jリーグ発足時からのリーグの一員であり、未だかつてJ2降格を経験したことのない、資金力も豊富で、Jリーグ設立以降、ワールドクラスのスーパースターがやってくるようなクラブであり続けている。情報によると、来シーズンも既に現役のメキシコ代表選手を獲得することが決定的になっているようだ。早ければもう明日の朝にはリリースが出されているだろう。
『愛知ダービー、いつになったら実現するんだ?』
『それは・・・』
すぐに、とは言えなかった。今のチーム状況を考えても、1年でJ2に復帰することさえもなかなか厳しい状況に追い込まれているのだ。とてもJ1に行くことなど考えるような余裕もなかった。
『いいか幸長、信じてやるんだ』
『信じる・・・』
『現場を信じない限り、選手やスタッフが答えてくれることはない』
突き刺さるような言葉だった。
車が駐車スペースで停止する。何年ぶりだろう。最後に来たのは大学を卒業するほんの少し前だった気がする。もうかなりの年月が経ってしまったのだ。
店先の「孔明亭」の看板は、あの頃と全く変わっていない。暖簾をくぐり、引き戸を開けると、そこには懐かしい店主の顔があった。
『へいらっしゃい!』
笑顔でこちらを振り返った店主の表情が一瞬固まった。そしてすぐ、驚きの表情へと変化する。
『健司・・・帰ってきたのか?』
『おやっさん、ごぶさたっす』
『監督、どうしたのよ!?』
『まあな。テーブル席空いてるか?』
店はだいぶ繁盛しているようだったが、運よくテーブルの2人席が空いていた。席に着くと、『いつものでいいか?』という店主の声に頷きつつ、金の表情を窺った。仕事を終えた彼は、今日の練習の反省点をリプレイしているのか、あるいは大学時代の幸長を思い出しているのか、何かを考えるような表情をしていた。
『監督』
呼びかけると、やや下を向いていた顔が幸長を捉えた。表情は、練習の時には見せない穏やかな、父親のような表情だ。
『幸長』
金は運ばれてきた冷水を口にすると、真っ向から幸長を見据えた。一瞬にして幸長の背筋が伸びる。昔からこの目つきになった時の金は、何かを見透かしているときの目だということを、今になって本能的に思い出した。
練習で手を抜いているとき、試合中の負傷を隠しているとき、あるいは何か言いたいことがあるとき、いつだって彼はこの目を前にして隠し通すことができなかった。それは、他の部員にも等しく言えることだったが。
『率直に言おう。俺は気づいている』
『なにをですか?』
訊くまでもなく、何の話かはよく分かっていた。それでもあえて隠してみる。
『降格したクラブの新任の強化部長が、思い出巡りのノスタルジックな旅のためだけにわざわざここまでやってくるわけがないだろう。ましてやJリーグでは最も重要な、シーズン終わりのこの時期にな』
金は促すように続けた。
『言ってみろ、俺への頼みを』
バレていた。この勘も昔から全く錆びついてはいなかった。
覚悟を決めた。恩師に対する教え子の表情から、アトランティコ三河の強化部長の表情に変わる。
『アトランティコ三河の強化部長としてお願いがあります』
金の目に怯えなくなる程度には成長していた。テーブルに両手をつき、深々と頭を下げると、はっきりと言い放った。
『金勇聖監督。どうか我がクラブの監督を引き受けていただきたく、ここに戻ってまいりました。お願いいたします』