序章
あと数分、ほんの数分。もうそれだけの時間しか残されていない。
「アートランティコ!アートランティコ!」
響き渡る悲痛な声援が、徐々に悲壮感を帯びていく。
ドット画の電光掲示板の時間表示に89:59が刻まれ、そして消滅した。地獄への残忍なカウントダウンを告げるアディショナルタイムは、4分と表示された。
J2・J3入れ替え戦、ホームの豊橋市立陸上競技場での第2戦。アトランティコ三河はJ3を2位で終えた東京ニューウェルスを相手に、0-1でリードを許していた。そもそも敵地での第1戦を1-2で落とした時点で勝機は既に失せていたと言ってもいいかもしれない。いくらアウェーゴールを奪ったといっても、今のアトランティコ三河にはなんの役にも立たない1点であることくらいは有識者でなくても十分理解できる状況だった。金切り声で声援を送るサポーターですら、既に4分後の光景は想像できる。
それほどまでに、シーズン中のクラブの状況は最悪だった。
シーズン開幕前の宮崎キャンプの時点では、「愛知の第2のクラブ」はまだクラブ史上初のJ1昇格を目指せるポジティブな状況だった。そして有識者も揃って、J1自動昇格圏内であるJ2の2位以内を獲ることは十分可能だと満面の笑みで言っていた。あとは新任のブラジル人指揮官の手腕に期待といったところだった。そう、指揮官次第だったのだ。
ところがこのブラジル人指揮官があまりにもお粗末だったのだ。
プレシーズンからあまり調子の上がらないブラジル人ストライカーを開幕戦で先発させたところから何か嫌な予感はあった。しかし指揮官の同胞のストライカーに対する尋常ならざる寵愛は続き、開幕8連敗を喫するという状況に陥った。これほどまでに無様なチームは、必然的にすぐさま空中分解した。とうに選手たちの指揮官への信頼は薄れていたにもかかわらずいつまで経っても解任に踏み切れなかったのは、完全にフロントによる失態だったとしか言いようがない。
開幕からの連敗はまだまだ序章に過ぎなかった。ドローでようやくシーズン初の勝ち点を獲得したものの、その後立て続けに5連敗。シーズン初勝利を手に入れるまでに実に16試合を費やした。それでも上向かないチーム状況を鑑みたフロントがとうとう監督解任に踏み切ったのが26節終了から2日後。あまりにも遅すぎる判断だった。
後任に据えたのはコーチから昇格させた暫定監督。監督経験も皆無の37歳のコーチには、打つ手など全くもってなかった。終盤にたまたま下位で残留争いを繰り広げるライバルクラブを相手に勝利し続け、裏天王山となった34節のAC宇都宮戦を制して奈落の底に叩き落すと、そこで精魂尽きたかのようにシーズン残り4試合を全敗で終えた。最下位でなかったのは、夏場以降のAC宇都宮があまりにも弱すぎことと、終盤戦で何とかかき集めた勝ち点のおかげだった。最後の愚かな4連敗がなければ、21位ではなく残留圏の20位で終えることができていたにも関わらず、みすみすそのチャンスを捨てに行ったのだ。
何とか首の皮1枚つなげて入れ替え戦に回ることができたとはいえ、最終節終了後のセレモニーでは罵詈雑言が飛び続けた。
「お前らがクラブ壊してどうすんだよ!」
「お前らは簡単に移籍できるだろうが!サポは死んでもできんのだぞ!」
「フロントは責任取るべきだろうが!」
「お前ら本気でやめちまえ!」
盛大なブーイングは社長の月並みの感謝と謝罪の言葉をかき消し、フロントへの不信感を露わにする横断幕がゴール裏に掲げられた。到底入れ替え戦を勝てるような雰囲気ではなかった。引責と辞職を求める声がこだまし、殺伐とした状態で、もちろん何の波乱も起きないわけがない。セレモニー後、選手やスタッフが場内を一周しながらゴール裏に到達したとき、とうとう事件は起きた。
スタンドのどこよりも一層ブーイングの大きいゴール裏で、当然のように罵倒や不信感を露わにする声が轟いていた。当然のことだと選手たちは受け止めていたが、
「やる気ないなら今すぐ契約解除しろや!」
この一言に、ある選手が激高した。そのままゴール裏に詰め寄ると、係員の制止を振り切ろうとしながら、
「俺たちも全力でやってきたんだよ!」
この一言が火に油を注ぎ、一時騒然とするような事態に発展した。
通常ならば当該選手への謹慎処分などが下ってしかるべきだ。しかしクラブには、主力である彼に処分を下せるほどの余力はなかった。なにしろなりふり構わず残留を勝ち取るしかないのだ。
結果的に険悪な雰囲気を引きずったまま入れ替え戦に突入した。その代償は、あまりにも大きかった。
一瞬、ほんの一瞬だった。中盤でルーズになったボールを前線に蹴り出し、全員が敵陣に侵入した、まさにそれが命取りになった。
相手ディフェンダーにはじき返されたボールがそのまま相手の足元に転がり込んだ。そのままゴールに向かってボールがシンプルに運ばれていく。
僅かに自陣に残っていた守備者はことごとく躱され、切り裂かれていく。遂にあとはキーパーだけという状態になってしまった。相手のエースである韓国人ストライカーは、何の躊躇もなくキーパーを躱した。
転がるボール。無人のゴール。スローモーションのように、ゴールへ転々とするボールを見送るディフェンダー。そして、ネットが残酷なまでに緩やかにボールを迎え入れた。
静寂は一瞬だった。東京から詰めかけた相手のサポーターの歓声が、あっという間に競技場を包み込み、その沈黙を許さなかった。
もはや試合終了を待つ必要もなくなった東京ニューウェルスの選手たちが、自軍ベンチに一目散に駆け寄り、歓喜の輪を作った。チェックメイトは、あまりにもあっけなく宣告された。
片やアトランティコ三河の選手たちには立ち上がる気力も残っていなかった。ある者は天を仰ぎ、ある者はピッチに崩れ落ちた。そしてある者は、ただひたすら前だけを虚ろに見たまま立ち尽くしていた。
主審は双方の労をねぎらうかのように、3度のホイッスルを吹いた。それは東京ニューウェルスにとっては甘美であり、アトランティコ三河にとっては絶望といえる、明確なコントラストを映し出すかのような音色だった。東京から大挙してやってきたサポーターの歓喜の絶叫を聴きながら、ホームチームのサポーターは沈黙した。
ここに、アトランティコ三河にとって初のJ3降格が決定した。