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嵐の金曜日 ~2時間目から始まる大捜査線~

作者: 橋 千有

◆2時間目の休み時間◆


 2時間目の休み時間。

 諸橋辰巳もろはしたつみが気付いた時、もうすでに全員の目が自分のことをにらみつけていた。

「な、何?」

 三屋菜種みつやなたねの机の周りを囲んでいた女子の一人が、何かを持って突然辰巳の方にずかずかと歩いてきた。

「タツ!あんたでしょ!」

「な、何がよ」

「あんた、菜種ノートに落書きしたでしょ!」

「菜種ノート?なにそれ?」

 その女子が、手に持っていたものをバンと辰巳の上に置く。

 それは一冊のノート。

 表紙が少し厚くなっていて、可愛らしい装飾がしてある。

 それを開くと、カラフルな色遣いできれいな文字がびっしりと書いてある。そこに、黒い文字で、何やら訳の分からない文章が落書きされていた。

「これ何?」

「菜種のメモ帳よ。菜種のいろんな思いがこのノートの中に詰まっているの!単なるメモ帳じゃないの!」

「ちょ、ちょっと待って、俺じゃねえよ!」

「嘘、この間、あなたがこれを落とし物だって、職員室に届け出たの知ってるんだから!」

「落とし物?」

 辰巳は、もう一度そのノートの表紙を見た。

「ああ、これか・・・」

「思い出した?あの後、このノート、ずっと職員室にあったんだから、こんなことできるのはあなたしかいないの!」

「違うよ、俺が拾った時は、こんなの書いてなかったよ」

「あ、このノートのこと、やっぱり知っていたんじゃない!さっきは、知らんぷりしようとしたくせに!第一発見者が犯人て、やっぱりほんとなのね」

「知らねえよ。だって、こんなノート、女子ならみんな持ってるじゃん。いきなり見せられたって、俺が拾ったノートだったかどうかなんてわからねえよ!」

 辰巳は、いつもはおちゃらけ専門のクラスのムードメーカーだったが、女子のしつこい突込みに柄にもなく語気を荒げた。

「洋子、もういい。やめよ、こんなこと」

 洋子と呼ばれた怒れる女子に話しかけたのは、渦中の人物菜種だった。

「タツくん、ゴメンね疑って。いいんだ。こんな落書きのことで、いざこざはやめよう」

 辰巳は菜種を見た。

 お前のせいで・・・・。と言いかけた辰巳は、その言葉を飲み込んだ。

 菜種は申し訳なさそうに、口角を上げていたが、その表情はまるで、友達の葬式にきた同級生のよう。

 お前にとって、このノートってそんな大事なものだったのか・・・。

 たかがノートの落書きで、と思っていた辰巳は一瞬、切れそうになりかけた自分を反省した。そして、落書きされたノートに視線を落とした。そして、そこに書かれた落書きの文章を読み上げた。

「さはらでそは わがこころひ きさくあなた のおもひいず こにあらんわ がこころはや・・・・。なんのこっちゃ・・・・」

 辰巳は、もう一度菜種を見た。

「お前、この文章に何か覚えあるか?」

 菜種は、首を横に振った。

 辰巳は、ふうっと息を吐いた。

「こんな訳の分かんねえ文章書きやがって。分かった。この犯人俺が探してやる!」

「やめてよ。犯人探しなんて。あたしが我慢すればいいんだから」

「よくねえ!これが、脅迫文だったらどうする?」

「脅迫文?」

 洋子が聞き返す。

「わざと訳の分からねえ文章を書いて、実は、お前を傷つける脅迫状だったらどうする?」

「すぐ警察よ!」

 なぜかさっきから菜種でなく洋子が叫んでいる。

「そんな大袈裟にしないで。第一、こんな落書きで警察が動くはずない」

 菜種が困り顔で言う。でも、自分のことを真剣に皆が考えてくれていることを知って、さっきまでの暗い表情は少しずつ明るくなってきていた。

「そのとおり、だから俺たちが探すんだ」

「俺たち?」


◆◆3時間目の長休み時間◆◆


「と、言うわけだ諸君。知恵を貸してくれ」

 3時間目の長休み時間。

 ここは、体育連室。

 体育連とは、この高校のスポーツ系クラブが作る連絡協議会のこと。辰巳は、バスケットボール部のキャプテン。そこに、バレー、テニス、卓球、バドミントン、体操、陸上、剣道、柔道、弓道10クラブのキャプテンが緊急招集された。

 いずれも自分のクラブ活動だけでなく、それぞれに得意分野を持つ個性集団の集まりだ。生徒たちは彼らのことを親しみを込めてこう呼んだ。

 主将連、と。

「知恵といっても、俺たちは筋肉バカだからなあ。頭の方はちょっと頼りないぞ」

 と、陸上の加賀谷陽介が言う。

「文連に頼んだらどうだ?推理小説研究会とか?」

 と剣道の鈴木宗明が言う。

 文連とは、体育連の文科系クラブ版だ。

「『それを紐解くことが公共の幸福につながることか。その論拠を述べよ』」

 辰巳がモノマネすると、どっと笑い。

「今の、高宮たかみやの真似?」

 バレーの長谷川修一が聞く。

「似てた?」

 推理小説研究会会長高宮幸太郎の、いかにもすました言いっぷりを見事にマネできて辰巳はひそかにほくそ笑んでいる。

 だが、それは本題ではない。

「あの、コテコテの頭でっかち軍団が、こんな訳の分からないこと聞いてくれるもんか。ああいう奴は、高校生クイズにでも出てりゃいいんだ」

 辰巳が吐き出すように言う。

「そんな面倒くさいやつに頼むより、お前の親友がいるじゃねえか」

 バドミントン部の坂木義彦が言う。

「親友?」

寳川睦郎たからがわむつろうだよ」


 寶川睦郎は、辰巳の小学生からの親友。

 スポーツ万能、成績優秀、当然この地区で一番の進学高校に進むと思っていたが、なぜかこの地区で三番手の西高校に来た。辰巳は西高合格ラインギリギリだったが、睦郎は余裕で合格。どこのスポーツクラブに入るかと思いきや、睦郎は美術部に入部した。

 なぜ?

 奴は、この高校に何を求めてきたのか?

 この地区の一番は男子高、二番手は女子高、順位では三番手でも男女共学では西高が一番。睦郎は、なんでも優秀ではあったが、むっつりスケベなところがあった。きっと女子のいない学園生活が嫌だったんだな。それが、辰巳の分析であった。

「残念なことに、この高校の美術部には、ヌードデッサンがないんだよ」

 やっぱりお前の目的はそれだったか。

 辰巳はあきれながらも、自分の分析に誤りがなかったことをひそかに自慢に思っている。

 まあ、そんな奴だから、常に成績トップでも、特に目立った活躍がなくても、なんとなく皆がその名を覚え、何かというと、頼りにしたがった。で、睦郎のいいところは、来る者は拒まずのところ。頼まれたことは、常に真摯に対応した。

 おかげで、小学校からの親友である辰巳は、最近あまり睦郎と話す機会がなくなっていた。

 中学までは、タッちゃん、ムッちゃんの凸凹コンビで鳴らしていたんだけどね。


◆◆◆昼休み◆◆◆


 で、昼休み。

「最近はまっているのは、橋千有の本だね。特に、この『じゅくじゅく坊ちゃんと七人のメイドたち』は傑作」

 開口一番、なぜか本紹介から始まった。

「橋千有って怪しい本もいっぱい書いてる奴だろ」

 辰巳が言うと、

「まあな。柄にもなく詩集も出してる。こっちは目も当てられないけどね」

 ここは、美術部の部室なのに、どうしてそういう話から始まる?

 睦郎の思考は常に奇想に満ちている。

 辰巳は、もう慣れっこだった。

「で、俺に聞きたいことって何?」

 辰巳は、睦郎にざっとこういう仕儀に至った経緯を説明した。

「お前、菜種ちゃんに気があるの?」

 いきなり聞いてくる睦郎。

「何でそうなる?」

 むきになる辰巳。

「いや、菜種ちゃんて、なんかいいじゃん。ボイン、バキュンじゃないけどさ。なんか柔らかそうで」

「なんじゃその、ボイン、バキュンて?柔らかそうって、菜種は食べ物じゃねえっての」

「じゃ、なんで?単なる落書きなんだろ?気がなきゃ、どうして女子にそんなに真剣になる?」

「落書きなんだけどさ。・・・・・なんか、いたずらにしては、念がはいった感じがしたんだよ」

「念?」

「何か、恨み、つらみっていうかさ・・・・。その、・・・うまく説明できねえ!」

 辰巳は突然立ち上がった。

「行くぜ、ムッちゃん!」

「な、何だよ?タッちゃん」

「いいから、ついてこい!」


 というわけで、連れてこられた先は、菜種のクラス。

「ど、どうしたの?」

 突然、すごい勢いで入ってきた2人に、菜種が聞く。

「菜種、さっきのノート見せて」

 辰巳が言う。

「だから、その話はもう・・・」

「いいから見せろ!俺の直感なんだ!」

 いつもムードメーカーの辰巳の真剣な表情を見て、あきらめた菜種は例のノートを出した。

「どこだっけ。落書きされたページは」

 机の上に置かれたノートに辰巳が手を伸ばすと、菜種はびくっとしたように手を引っ込めた。

「何だよ。俺の手そんなに汚くねえよ。ちゃんとトイレで手洗ってるし」

 菜種は、その言葉にぎこちない表情で笑い返した。

 落書きされたページを開く辰巳。

「どうだい、なんか感じないか?」

 辰巳に言われ、睦郎は、そこに書かれた落書きの文章を見た。

 さっきまでむっつりスケベだった目の色が変わる。

 睦郎の瞳はノートの文字をとらえながらも、そこから入った情報を縦横無尽に脳の中で広げ、解析を始めていた。

「菜種、このノートをなくしたのはいつ?」

「今週の火曜よ。月曜は、『深夜の馬鹿力』聞きながらこのノートを開いた記憶があるから」

「伊集院さんのラジオな。あれはいい。俺もいつも聞いて・・・」

「で、タッちゃんがこのノート拾ったのは?」

 脱線しかけた辰巳を引き戻す睦郎。

「昨日じゃねえのは確か。てことはおととい以前」

「今日は金曜だから、火曜になくして、水曜にタッチャンが拾って、今日手元に戻ったってことか。で、タッチャンの言うとおり拾った時落書きがなかったとすると、職員室にこれを届けた後の水曜から木曜の間に落書きされたことになるな」

「職員室で、落とし物のノートにいたずら書きする奴はいないだろ」

「それはどうかな。なら、現場検証と行くか」

 睦郎の鋭い視線が、辰巳を射抜く。

「それはそうと、菜種。最近、何か悩んでいることはないか?」

 睦郎は突然、菜種の方を見て言った。

「悩んでいること?」

 菜種は、睦郎は何を聞いているのだろうと、辰巳の方を見る。

 辰巳は肩をすぼめて見せた。

「別に・・・」

「じゃ、握手しようぜ」

 睦郎は突然、片手を出した。

「な、どうしたの?突然・・・・」

 突然のことに、ぎこちない笑顔を作りながら身を引く菜種。

「俺と握手するの、嫌か?」

「何、訳の分からねえことしてんだよ!行くぜ、職員室!」

 睦郎の訳の分からない行動は、辰巳の言葉で遮られた。


「落とし物を誰かほかの人に見せたかって?そんなことするはずないだろ」

 辰巳に突っ込まれた担任が言い返す。

「じゃ、落とし物って、今どこにあります?」

 睦郎が聞く。

「落とし物の入っているロッカーはあそこだ」

「現物見させてもらっていいですか?」

 担任は、鍵を持って立ち上がると、落とし物が入っていると言ったロッカーへと向かう。

「落とし物をまたなくしちゃまずいからな。ちゃんと鍵付きのロッカーで保管しているんだ」

 その鍵を入れようとするが、鍵が合わない。

「あれ、合わねえな」

「先生、そのロッカーの鍵こっちですよ」

 近くにいた女の先生が、自分の机の横にかかっていた鍵を渡す。

「ああ、そうだ。ロッカー新しいのにしたんだ」

「新しいのにした?」

「いつ?」

 辰巳と睦郎が続けざまに聞く。

「田辺先生。新しいのにしたのいつでしたっけ?おととい?」

 担任が、田辺先生と呼ばれた女の先生に聞く。

「来たのは今日です。手違いがあって、2日遅れたんです。古いのはおととい持っていかれちゃったけど」

「えっ、じゃ、その間落とし物は?」

 辰巳が聞くと、田辺先生が答える。

「大丈夫。図書室の受付カウンターの下に置いておいたから。図書室なら鍵もかかるし」

「でも、落とし物には落書きがされていていたんです。ちっとも大丈夫じゃありませんよ」

 挑発的に睦郎が言う。

「どういうこと?」

 田辺先生が聞き返すと、

「落書きをした犯人は、この職員室の中で万年筆を持っている人です。この職員室の中で万年筆を使っている人は正直に手を上げてください!」

 睦郎は、職員室中に響き渡るような大声で叫んだ。

「何言ってるんだ?お前」

 担任が、あわてて睦郎を抑えようとする。

「先生が犯人ですか?」

「違う!俺が万年筆なんか持っているわけないだろ」

「じゃあ、他の先生にも聞いてください」

 担任は、睦郎の鋭い眼光に気圧されて、しぶしぶ聞いた。

「この中で万年筆を使っている先生はいますか?」

 先生たちはお互いに顔を見合う。

 誰も手を上げない。

「今時、万年筆なんか使う人なんかいない。みんな、ワープロか、ボールペンだよ」

 担任は、睦郎の方に向き直ると言った。

「そうですか。お騒がせしてすみませんでした」


 扉から出ると、職員室の中に向かって深々とお辞儀する2人。

「な、何だよいきなり、職員室であんな大声出して。こっちまでとばっちり受けるところだったぜ」

 歩き始めた睦郎を追いながら、辰巳が言う。

「少なくとも職員室で落書きされたわけじゃない。これで大分絞られてきた」

「絞られてきた?何が?」

「タッちゃんは気づかなかったか?あの落書きの最後の文字のところ、インクがにじんでいた」

「インクがにじんでいた?」

「反対のページにインクの染みがかすかについていた。たぶん、書いていて急にノートを閉じたんだ。ボールペンやマジックならあんなにインクがにじむはずがない。可能性が高いのは万年筆だ。俺は、あんな感じのにじみをみたことがある」

「どこで?」

 睦郎は突然立ち止まった。

「ここで」

 そこは、図書室の前だった。

 2人が中に入ると、昼休みとあって、生徒が何人か、テーブル席に座って本を読んでいた。

 辰巳は、この図書室に入るのは、入学して3度目だった。

 どの棚にどんな本が置いてあるかもわからない。だが、睦郎は、ずんずん進んでいく。そして、ある棚の所で立ち止まると、目で背表紙を探し始めた。

 そして、ある本に目を止めた。

 その本を棚から抜き出し、その本の最終頁を見た。そこには、貸出カードが貼り付けてあり、貸出の日付と返却の日付が、日付スタンプで押してある。

 だが、上から何行目かの日付が、日付スタンプでなく万年筆で書かれていた。そして、インクが乾く前にったのか、日付の数字がにじんでいた。

 睦郎は、「な?」という表情で、辰巳を見た。

 その本を戻そうとした睦郎。同じ棚の反対側の本が抜かれて、抜いた人物と目があった。

 睦郎は、軽いデジャブに襲われた。


「橋千有を?」

「詩集はダメだね」

「それは、純粋さの・・・・」

「じゅくじゅく坊ちゃんこそ・・・・」


 彼女との会話が突然、頭の中に蘇った。

 睦郎は、本を戻すと、作者別の棚で何やら探し始めた。

「は」行の棚の中から、一冊の詩集を抜き出す。


 詩集 ~残念~    橋千有


 それをパラパラめくり、あるページで止める。

「・・・・・やっぱり・・・・・」

 睦郎は、その詩集を持って受付カウンターに向かう。

 睦郎が貸出票に自分の名前を記入しているうちに、図書委員の女子が、本に貼り付いている図書カードに貸出日と返却日の日付スタンプを押す。

 受付カウンターには、万年筆も置いてある。

「その万年筆は使わないの?」

 睦郎が、図書委員に聞く。

「昔は、みんな万年筆で書いていたみたいだけど、今は日付スタンプでやるから。でも、委員によっては、今でも日付を万年筆で書いている人もいるみたい。だから置いてあるのよ」

「ふうん。ところで、昨日木曜の図書当番て誰だったか分かる?」

 受付カウンターの端に置いてあった当番表を見る図書委員の女子。

「昨日は、2年C組の条刈谷美月じょうかりやみづきさんね」

「ありがとう」

 それだけ言うと、睦郎は、図書室を足早に出た。


「落書きの犯人は、その条刈谷美月とかいう図書委員か?」

 辰巳が睦郎に聞くと、睦郎は首を横に振った。

「万年筆で落書きができた可能性がある人というだけだ。犯人と決まったわけじゃない。犯人なら、犯行をする動機が必ずある」

「菜種に聞けばいい。条刈谷美月と何があったのか」

「いや、正直に話してくれるとは思えない。菜種ちゃんは何かを隠している。その彼女に真相を聞くためにはまず、外堀を埋めなければ。菜種ちゃんて何クラブだっけ?」

「彼女はマーチングクラブのカラーガード隊の一人だ」

「カラーガード?楽器を持たずに、バトンとか旗を持っているやつか」

「ああ」

「ミニスカートに、白い手袋・・・・」

「ムッちゃん、何考えてるんだ?」

「いや、ちょっと妄想・・・・」

「今、エロモードになってどうするんだよ!」

「お堅い図書委員とミニスカ・カラーガードか・・・・いったいどこに接点が・・・・」

「しょーがねえな、主将連に聞いてみるよ」

「主将連?」

「言っとくが、主将連の女子情報をなめるなよ。すっげえんだから」

「すっげえんだからって、どんだけ女子のことあさってるんだよ。この高校の主将たちは何考えてんだ?」

「ムッちゃんと同じことだよ」

 2人は、2年C組の前を通りかかった。

 睦郎は、前扉から教室に入ると、そこにいた男子に聞いた。

「条刈谷美月さんいる?」

 男子は、後ろを振り向き、姿を確認すると、

「呼ぼうか?」

「あ、いい。条刈谷さんてどの子か教えてくれれば・・・」

「一番窓際の、後ろから2番目」

 男子が後ろを振り向きながら言う。

「ああ、ボブカットの眼鏡の子?」

 睦郎が聞くと、

「そう」

 辰巳も、睦郎の後ろから美月を確認する。

「やっぱり、橋千有少女だ」

 睦郎がつぶやく。

「何?」

「俺、図書室で前に彼女と会ってる。その時、俺、橋千有の棚の場所を図書委員の彼女に聞いたんだ」


 前と言っても、数か月前。まだ桜が散り切っていない頃の話。

 睦郎は図書室で本を探していた。一冊の本を見つけ、その本を抜いた時、その反対側の本も抜かれ、棚の反対側にいた彼女と目が合った。

 思わず、睦郎は彼女の、美月の目を見た。

 最初は驚いたようだった美月は、笑顔を見せると聞いてきた。

「誰の本を探してるんですか?」

「あの、橋千有って知ってます?」

 パッと美月の表情が明るくなった。

「橋千有を知っているんですか?」

「あー、彼の『じゅくじゅく坊ちゃんと七人のメイドたち』ってあります?」

「それはここにないけど、詩集ならあるわよ」

「詩集?彼の詩は前に読んだことあるけど、詩集はダメだね」

「そうかしら?」

「彼の詩は、ねちっこいというか、なんか押しつけがましくてね。どうも肌に合わないんだ」

「人によってはそう感じる人もいるかもしれない。でも、それは、純粋さの発露だとあたしは思う。当たり前のことを当たり前だと叫ぶのを、うっとうしいと感じる人もいれば、心に共鳴する人もいる。ただ、それだけのこと」

「純粋さの発露ね。まさにじゅくじゅく坊ちゃんこそ、それを体現してるキャラなんじゃないかな」

「そうね。あたしもじゅくじゅく坊ちゃんは大好き。彼の最高傑作だと思う」

「残念だな。その最高傑作が置いてないのは」

「今度の図書委員会で購入の提案をしてみるわ。あなたの名前を教えて」

「何で?」

「図書購入には推薦者の名前が必要なの」

「寶川。寶川睦郎」

 ノートに睦郎の名前を書き込む美月。

「そうかあ。ここで、じゅくじゅく坊ちゃんが読めるのはまだ先か。でもいっか。まさか、こんなところで橋千有談義ができるなんて思ってもいなかったから」

 睦郎が言うと、美月は照れたように笑った。


 その時の明るかった可愛らしい笑顔は、窓際に佇む今の美月には全くない。周りの女子は、まるでそこに美月がいないかのように振る舞う。そこだけ暗い空気が淀んでいるかのようであった。

 睦郎は、図書室で借りた詩集を辰巳に見せた。

「これが美月ちゃんのおすすめだった。美月ちゃんは橋千有の数少ないファンの一人。俺のイチオシも彼女はチェック済みだった」

「その数少ないってのは、どういう統計?」

「俺の直感だ。だが、これで落書きの謎は解けた。あとは・・・」

「分かってるよ。2人の間に何があったのか、だろ。任せとけ」

 そう言うと、辰巳は、廊下を走り去っていった。

 睦郎が視線を元に戻すと、美月と目が合った。

 美月が視線を外すまでの一瞬の間に、睦郎はにっこり笑って、詩集を掲げた。

 それは、美月の視線をしばらく繋ぎ止めたが、結局、図書室で見せた輝くような笑顔は見られなかった。


◆◆5時間目の休み時間◆◆


「・・・・というわけで、次のテストはここまでの範囲から出るからよく復習しとけ」

 数学の下田先生のいやーな一言。

 その一言に、五時間目終了の鐘が重なる。

「起立、礼」

 授業終了の儀礼のあと、先生が出ていくと、それと入れ替わるように、辰巳が睦郎のクラスに飛び込んできた。

「ムッちゃん、美月って、倉小、七中だったんだって」

「ほう」

「つまり、俺たちと同じ、小、中学校だったってことさ。俺、彼女のこと全然覚えてねえ。ムッちゃんは?」

「覚えてないな」

「だろ。美月って、中学までハブられていたんだ。(※1)だから、さっきもあんなに暗かったんだよ」

「だけど、前に俺が図書室で会った時は、とてもそんな感じじゃなかった。輝いてたぜ、明るくな」

「変わったんだよ、菜種のおかげでな」

「菜種ちゃんのおかげ?」

「菜種って、小学校の時からいつも友達の中心にいるタイプだったらしい。まあ、特別可愛いわけでもないし、特別スポーツができるわけでもない。成績だって中くらい。でも、休み時間になると菜種のまわりには、男女の隔てなく、人が集まってくるんだよな。なんか、不思議な心地いい包容感が彼女の周りにはあふれてるんだよ。で、1年の時、美月はそんな菜種と同じクラスだった」

「2年になってクラスが分かれたのか」

「ああ、でも、合同クラスの授業では、いつも菜種は美月のところに来て一緒に授業に行ってたんだ。2人はできてるんじゃねえかって噂が立つくらい親密だったらしい」

「できてる?ガールズラブかい?誰か見たのか?2人が乳繰り合ってるところ」

「そんなんじゃねえよ。どうしてそこまで飛ぶ?2人は、どこに行くときも手をつないでいただけだよ」

「手?それだけ?」

「ムッちゃん、何期待してたんだよ。全くこのエロ親父は」

「まあ、いずれにせよ、美月ちゃんにとっちゃ、それだけでも中学の時に比べれば夢待遇だったわけだ。美月ちゃんの輝きはそんなところにあったんだな」

「ところが、最近2人の様子がどうもおかしくなったらしいんだ」

「おかしくなった?」

「ここんとこ、2人が手をつないでる姿を誰も見ていないんだ。いつも2人で行動していたのに、最近は、いつも美月が一人っきりでいるらしい」

 それを聞いた睦郎の瞳が急に真剣な光を帯びた。

 睦郎は、突然立ち上がるとクラスを飛び出した。

「おいおい、急になんだよ!」

 あわてて辰巳が後を追う。

 2年C組のクラスに入ろうとした睦郎は、窓際で外をぼうっと見ている美月を見て立ち止まった。

「・・・・いや、やっぱり俺じゃだめだ」

 睦郎がつぶやく。

「何?」

 その時、六時限目の鐘が鳴り響いた。

「タッちゃん、悪いが放課後、菜種ちゃんを引き留めておいてくれ。あとは、彼女だけなんだ。彼女がすべてを解決する鍵を握っている」

「急にそんなこと言われたって、今日は部活が・・・・」

「言っておくが、これは命にかかわることなんだ。今日ケリをつけなければ一生後悔するぞ」

 脅し文句のようにそう言い捨てると、睦郎は六時限目の授業に向かった。


◆放課後◆


 授業が終わり、生徒たちが教室から出ていく。

「菜種、今日マーチングあるの?」

 3人の女子が、菜種の周りに集まる。

「ううん、マーチングは今日からテスト休みなんだ。体育系はまだみたいだけどね」

「そう、じゃ一緒に帰ろ。今日ミスド100円の日だから」

「それね」

 菜種は、にっこり笑う。

「つきあう?」

「つきあう」

 と、そこへ、辰巳がやってきた。

「菜種、落書きの犯人が分かった」

「えっ?」

 そこにいた女子も一斉に、辰巳の方を見る。

「それって誰よ」

 出た。怒れる女子、洋子の厳しい一言。

「・・・・その前に、どうしても菜種に聞きたいことがあるんだ」

 菜種の周りに陣取る女子の方を、ちらりと見る辰巳。

「何よ、あたしたちが邪魔ってこと?」

 洋子が、辰巳をにらむ。

「・・・・あー・・・・」

 どうも、辰巳は、この洋子の一言が苦手だ。

「洋子、ゴメン。ミスドはまた今度」

 菜種が、辰巳に助太刀するように言う。

 女子3人は菜種の方を見た。

「・・・・・分かった。じゃ、また今度ね」

「うん、ありがと」

 女子3人が、教室を去る。

 ふと気づくと、教室の中は、菜種と辰巳だけになっていた。

「それで、あたしに聞きたいことって・・・・」

「うん、それなんだけど・・・・」

 辰巳は、教室の扉の方を見る。

「実は、菜種に聞きたいことがあるっていうのは、ムッちゃんなんだ」

「ムッちゃん?」

「ああ、寶川のことだよ。あいつの名前、寶川睦郎だから」

「それで、ムッちゃんなのね」

 と、そこへムッちゃん、もとい睦郎登場。

「遅いぜ、ムッちゃん」

「ああ、ちょっと調べものしていたんでね」

 手には例の詩集。

 睦郎は、菜種の前の席のイスをひっくり返すと、菜種に向かい合うように座った。そして、詩集を机の上に置く。

「この詩集、橋千有って人の詩集なんだけど、なんか見覚えないか?」

「・・・・・これ、前に美月ちゃんから貸してもらったことがある」

「中、読んだ?」

 うなづく菜種。

「落書きされたノート見せて」

 菜種は、落書きされたノートを出した。

「その落書き、なんて書いてある?」

 菜種は、落書きされたページをめくり、読み上げた。

「さはらでそはわがこころひきさくあなたのおもひいずこにあらんわがこころはや・・・・」

「お見事!見事つっかえずに言えたね。じゃあ、今度これ読んでみて」

 睦郎は、詩集のページをめくって菜種に示した。

「触らで そはわが心引き裂く あなたの想いいずこにあらん わが心は闇に・・・これって・・・」

「最後まで読んでみて」

「・・・・触らで 

 そはわが心引き裂く

 あなたの想いいずこにあらん

 わが心は闇におちる 

 深き深き深淵の底

 わが手のひらは求む

 光より眩しき あなたの柔肌

 そなきなば、

 そはわが身引き裂く

 ならば捧げよう

 わが玉の緒をもってして」

「その落書きは、脅迫文なんかじゃない。この詩の頭を書きかけてやめたんだ。この詩の意味を?」

 辰巳は思いっきり、首を横に振った。

「この詩は、失恋の歌だ。愛しい人から触るなと言われ、その想いが分からなくなってしまった恋人の詩だ。その恋人にとって、愛しい人の柔肌は、光より大事なもの。それがもう二度とれられないと言うのは、この身が引き裂かれるようなものとうたっている」

「・・・・・最後の玉の緒ってなんだ?」

「玉の緒というのは当て字だ。実際は魂の緒、つまり、あなたの肌に二度と触れられないのであれば、自分は命を絶つと言っているんだ」

「それって」

「この落書きは警告だ。読んだ人に、自分はこれから死ぬと宣言しているんだ」

「それ、やばいじゃん。すぐ止めに行かなくちゃ」

 辰巳が立ち上がろうとするのを止める睦郎。

「自殺を止めるのはたやすい。だが、その心の闇を取り払えなければ、何度も同じことを繰り返すだろう。大事なことは自殺を止めることじゃない。その心の闇を取り去ることだ」

 睦郎は、菜種の目をじっと見据えた。

「この、落書きをしたのは条刈谷美月。菜種に、この詩集を教えた張本人だ。彼女は、木曜の図書当番の時、落とし物ロッカーの入れ替えで、鍵のかかる図書室に一時的に置かれていた落とし物箱の中に、このノートを発見した。そして、このノートが誰のものであるかも知っていた。彼女は、図書委員の仕事の合間に、このノートに自分の想いを書き綴ろうとした。だが、それは、何かの理由で中断された。そして、ノートはそのまま落とし物箱に戻され、今日菜種の元に戻った」

「美月ちゃんが落書きの犯人・・・・」

「犯人は分かった。だが、彼女が自殺を考えるほどの何があったのか。それが分からなければ、この事件は解決しない。菜種には何か思い当たることはないか」

 菜種は、睦郎を見た。

 だが、その口は重く、つぐまれたままだ。

「・・・・・なぜ、手をつながなくなった?」

 睦郎が先に口を開いた。

「えっ?」

「その理由こそが、美月の暗闇に光を当てる。・・・・菜種、手のひらを見せてくれないか」

 菜種は、びくっとしたように、胸の前で両手を握りしめた。

「・・・・・マーチングクラブで聞いてきた。練習のあと、どうしてシャワー室に行かない?」

 菜種は、睦郎から視線を外し、顔を伏せた。

「人はみんな何かが欠けている。欠けているものが多いか少ないかで、その人の悩みや苦しみの大きさも違ってくる。菜種に欠けているものは一見小さいように見える。でも、その悩みや苦しみは、もしかしたら美月より大きいのかもしれない。それを明かすことは、美月の心の闇だけじゃない。菜種の心の闇にも光を当てることになるんだ」

 菜種は、顔を伏せたまま、上目遣いで睦郎を見た。

 その目は、怒りに燃えているようにも、何かを懇願しているようにも見える。

 その目を見た睦郎は言った。

「・・・・・乗り越えるのは今しかないぞ」


 3人は、2年C組に向かった。

「美月には、放課後話があるから残っていてくれって伝えてある。さっき、橋千有の詩集を彼女にみせたから、きっとその件だと思ってるはずだ」

 睦郎が言う。

「おいおい、それって告白タイムのシチェーションじゃねえか。用があるフリして実は、って。大丈夫か、そんなことして?」

 辰巳が冷やかすように言う。

 2年C組には、まだ、何人か男子が残っていた。

 だが、窓際の後ろから2番目の席に美月の姿はなかった。

「条刈谷さんは?」

 空っぽの席に近づき、その場に残っていた男子に睦郎が聞く。

「さあ、帰ったんじゃねえの?」

 睦郎の方を見た辰巳は、にやけながら言った。

「ムッちゃん、彼女にフラれたな」

「いや、彼女は帰っていない」

「え?」

「鞄を置いたまま帰る奴がいるか?」

 机の横には、手提げかばんがぶら下がっていた。

「・・・・・気づかれたか」

 睦郎の表情が変わる。

「気づかれたって・・・・」

「まずい、彼女はやる気だぞ」

「やるって、何を?」

「自殺に決まっているだろ。彼女を探すんだ」

「探すって言ったって、どこを?屋上とか?」

「いや、屋上は内側に鍵がかかっていて、先生じゃないと開けられないはずだ。だから、他を・・・・」

 睦郎の言葉が止まる。

「その鍵ってどこにある?」

 辰巳が、睦郎に聞く。

「・・・・先生に聞こう」


 例の新しいロッカーを開ける担任。

 扉の裏に鍵がいくつもぶら下がっている。

「・・・・あれ?鍵も、全部図書室から持ってきましたよね」

 担任が、田辺先生に聞く。

「先生が確認してくれたんじゃないんですか?」

 田辺先生が担任に聞き返す。

「いや、田辺先生がしてくれたんじゃないんですか?」

「わたしはしていません」

 担任は、頭をかいた。

「おかしいな。屋上の鍵だけない」

「先生、警察と消防呼んでください」

 睦郎が言う。

「何?」

「屋上から飛び降りようとしている子がいるかもしれないんです」

「ど、どういうことだ?」

 担任が説明を聞こうとした時、辰巳と睦郎は、廊下に走り出していた。

 一人取り残された菜種は、担任に申し訳なさそうにお辞儀すると、2人の後を追った。


 階段を2段飛びで駆け上がる。

「こら、バスケ部、階段は2段飛び禁止だぞ!」

 3階に駆けあがったときに、剣道部主将鈴木宗明が冷やかし半分に言う。

「うるせえ、剣道部!こっちは命がかかってんだよ!」

「命って・・・・どこ行く気だ?」

「屋上だよ!」

 その声が聞こえたとき、もう2人の姿は宗明の視界から消えていた。そして、それを追うように菜種が駆けあがっていく

 それをぽかんと目で追う宗明。

 そこへ、バレー部主将長谷川修一が通りかかる。

「何だ?バスケ部は何慌ててたんだ?」

「何か、命がかかってるって駆け上がっていった」

「命?」

 ゴルゴ松本さんの命のポーズで、修一が宗明に答える。

 それを無視して、階段の上を仰ぐ宗明。

「例の落書きと何か関係あるのかな」


 その頃、辰巳と睦郎は、屋上に突き出した階段室にたどり着いていた。辰巳がドアのノブを回す。

「開くぞ」

 辰巳は、睦郎を見た。

「待った」

 睦郎は辰巳を止めた。

「何だよ!」

 そこへ、息を切らして菜種が駆けあがってくる。

「菜種、お前にまかせる」

 睦郎が言う。

「何?」

 辰巳が睦郎に聞き返す。

「美月を止められるのは俺たちじゃない。菜種だけだ」

「何言ってるんだよ!美月は、もうあっちの方に足突っ込みかけてるんだぞ!菜種が失敗したらどうする気だ?目の前で美月に飛び降りられてみろ!菜種はどうなると思う?」

 菜種は睦郎を見た。

 睦郎も菜種を見て一言。

「俺は、菜種を信じる」

 そこへ、宗明と修一も上がってきた。

「どうした?」

 2人は、妙な空気の3人の前に思わずその場に立ち止まった。

 菜種はゆっくりと歩き出した。

 そして、睦郎の前を通り過ぎると、ノブに手をかけた。

「まじかよ!クソ!剣道部、バレー部、手伝ってくれ!」

 辰巳は、宗明と修一に声をかけた。

「手伝えって、何を?」

「消防車が間に合わなかったときの保険だよ!」

 そう言うと、辰巳は階段を駆け下りた。


 美月は、屋上のへりに立ち上がったパラペット(※2)の上に乗り、正面を見ている。

 そこからは街並みが一望できたが、美月の目にそれは映っていなかった。

 何で、寶川君はこのことに気づいたんだろう。

 でも、きっと菜種ちゃんは気づいていない。

 何がダメだったの?

 何が菜種ちゃんは気に入らなかったの?

 あなたがつないでくれる温かい手のぬくもりがわたしを変えてくれたのに。

 やっと変われたと思った。

 でも、結局わたし何も変わってなかった。

 あなたがわたしの手を引っ張って行ってくれなければ、わたしはまたすぐ元に戻ってしまう。

 でももういやだ。

 前になんか戻りたくない。

 だって、そこは、太陽が照っていても暗い、ポカポカ陽気でも冷たい場所。

 一人ぼっちの暗闇になんか戻りたくない。

 だから・・・・。

 そのとき、美月の背後で、階段室の扉が開いた。

「美月ちゃん!」

 その声・・・・。

 美月は振り向いた。

 そこには、美月が狂おしく求め続けていた人の姿があった。

 来てくれた。

 菜種ちゃんが来てくれた。

 でも、どうしてわたしの手を握ってくれなくなったの?

 これからも、もうずっとわたしの手を握ってはくれないの?

 声に出そうとしたが、どうしても出ない。

 中学の時のわたしに戻ってしまった。

 言いたいことが言えない、誰からも振り向いてもらえないわたしに・・・・。

 だから、今ここにいてくれる菜種ちゃんもこの時だけ。

 この場所から降りて近づいたら、またわたしから離れて行ってしまう。

 一度転がり始めたマイナスの思考は、かすかに差した光をあっという間に暗闇に取り込んでしまう。

 菜種は、ゆっくりと美月のほうに歩いていく。

 美月の足が、縁の外側に動く。

 菜種は立ち止まった。

 そして、握っていた両手のひらを広げ、しばらく見つめた後、その手のひらを美月の方に向けた。

 菜種の手のひらは、そのほとんどの皮が剥け、剥けた部分は赤くなり、乾燥した部分には醜くしわが寄っている。

「・・・・・夏くらいからこうなったの」

 菜種は絞り出すように言った。

掌蹠膿疱症しょうせきのうほうしょうっていうの。一生懸命治そうと思ったんだ。でもだめ。どんどん、悪くなっていく一方。治らない病気じゃないんだ。医者はあまり手を洗いすぎちゃダメだって。手のひらには皮膚を守る菌がいて、手を洗いすぎると、その菌がなくなってしまう。それが、なかなか治らない原因だって・・・・。でも、あたしだめなの。一度手を洗い出すと止まらなくなるの」

 菜種は、自嘲気味に笑った。

「あたし、いつもみんなに囲まれて偉そうなこと言っているくせに、自分の心をコントロールできないんだ。強迫性障害って聞いたことある?」

 美月は、首を横に振った。

「何か不安なことがあるとそれが強迫観念になって、何度も何度も同じ行為を繰り返す病気なんだって。あたし、一度何かを洗い出すと、まだ汚れているんじゃないかって不安で、洗うことが止まらなくなっちゃうの。あたし、毎日家で1時間以上シャワーを浴びてる。シャンプーや石鹸がいつまでも落ちていないような気がしちゃうんだ。だから、クラブの後、みんなシャワーを浴びるけど、あたしは浴びれない。そんなことしたらいつまでたってもシャワー室から出てこられなくなるから」

 菜種の目から、涙がこぼれ落ちた。

「この手のひらは、人に感染しないんだって。だったら、気にしなければいい。今までみたいに、みんなと手を握りあえばいいじゃない。・・・・・でも、だめだった。この手をみんなに見せることが・・・・・いやだった。いつもきれいで、温かい手で、誰もが握りたくなるような手でいるように見せたかった。だから、美月ちゃんと手をつながなくなった。いつだったか、美月ちゃん、あたしの手のひらを見ようとしたの憶えてる?」

 美月は、うなづいた。

「あのとき、すごい目で菜種ちゃんににらまれた・・・・・」

 声が出た。

 ようやく声が出せた。

 菜種は、美月のその言葉を聞いて、

「あのとき、あたしの病気のことがばれたと思った。みんなにこの手のことをばらされる。でも、美月ちゃんは、他の子にこのことを話さなかった。だから、もしかしたら、あたしの手のひら見えてなかったのかも、って。」

「・・・・・手のひら、見えてなかったよ」

「そうだよね。きっとそうなんだと思ってたけど・・・・。でも、それを聞くのが怖かった。そしたら、いつの間にかあたし、美月ちゃんを避けるようになってた。美月ちゃんが、こんなに苦しんでいたのに。あたし、自分のこの手のことを隠したくって・・・」

 それ以上言葉にならなかった。

 ああ、わたしは何を恐れていたんだろう。

 今度はわたしが、手を引っ張る番だ。

 美月は、屋上の縁から降りた。

 そして、菜種に近づくと、その手のひらに自分の手のひらを重ねて指をからませた。

「大丈夫だよ。手のひらがこんなでも、菜種ちゃんは菜種ちゃん。誰も、菜種ちゃんを嫌ったりしないよ」

 菜種は、美月の胸に泣き崩れた。

「もう大丈夫そうだな」

 2人のところに、睦郎が歩いてきた。

 美月は、睦郎を見上げた。

「寶川君」

「ショックだったぜ。教室に行ったらいないんだからさ。やられたと思ったよ。俺、美月のことを甘く見過ぎてたんだな」

「ごめんなさい」

「謝るのは俺の方さ。この埋め合わせ、あとでさせてもらってもいいかな」

「えっ?」

 美月は動揺して、菜種の方を見る。

 菜種は、涙をぬぐって、その動揺に笑顔で答えた。

「おーい!」

 突然、下から声が聞こえてきた。

 睦郎が「何だ?」という表情で、屋上の縁へと向かう。

 そこから下を見ると、

「おおう!」

 と声が上がって、体操用巨大マットが校舎の下に広げられた。

「何やってんだ?」

 睦郎が下に向かって叫ぶ。

「あ?何だ、ムッちゃんか。美月が飛び降りたかと思ったぜ」

 辰巳が、上を見上げて叫ぶ。

「それが、消防車が間に合わなかったときの保険か?」

 美月と菜種も、屋上の縁から下をのぞく。

「おっ、2人とも無事だったようだな。どうだい、この救命マット。主将連御用達だぜ」

 マットを引っ張っているのは、いずれも筋肉バカで鳴らした主将連の面々だった。

 熱いけど、ちょっと抜けている男子たち。それを見ていた美月と菜種の顔に笑顔が戻る。

「その救命マットがあれば、屋上にいても全く不安がないわ」

 その明るい声は、いつもの菜種に戻っていた。

「よーし、それが聞ければOK!じゃ、みんな撤収!」

 そう言うと、辰巳は体操用巨大マットの撤収を開始した。


▼嵐のあと▲


 こうして、嵐のような金曜日は去った。

 様々な想いが交錯した金曜日。

 一歩間違えれば、その想いは交わることなく、悲劇を生み出したことだろう。だが、ほんのちょっとのやさしさや思いやりで、それは回避することが可能なのだ。


 雨降って、地固まる。

 

 2年B組のクラスに、美月が入ってきた。

 そこには、いつもと同じ、みんなに囲まれた菜種の姿が。

 菜種は、美月が入ってきたことに気づくと笑顔になった。

 美月も笑顔になる。

 「行こう」

 美月が手を差し出すと、菜種はうなづいてその手を握った。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

いやー、字数の関係で、そうとうかっ飛ばしちゃいましたけど、皆さん目は回りませんでしたか?

久しぶりの高校生モノ。

中学生たちの青っぽい青春を「読書感想文」と「スタードロップ」で描いてきたので、そろそろ高校生を・・・と思っていたところにこの企画だったので、思わず食いついちゃいました。

皆さんの青春カウンタは、振り切ってましたかね?

これからも、こんな感じで、ベタな青春を応援していきたいと思います。


なお、本編に登場する橋千有詩集は存在しません。

「じゅくじゅく坊ちゃんと七人のメイドたち」はもう少しお待ちください。(て、楽しみにしている奴なんかいねえって)


注釈

※1 ハブられる 仲間はずれにされるという意味の俗語

※2 パラペット 屋上の外周部に取り囲むように立ち上がった低い壁のこと



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― 新着の感想 ―
[良い点] 男子は男子っぽく。女子は女子っぽく。 いいですね。青春です。 特に、体育会系の男子のバカっぽさがすごく青春で好きです。
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