第7節
イアンからの情報によると、ニコラスという男は聡明な野心家で、度胸のある人物らしい。
味方でいるうちは頼りになる存在だが、敵にまわせば厄介な男この上ない。デリックからすれば実際に厄介な男であるイアンがそのように語っていることから考えても、かなり危険な相手だ。
イアンはニコラスの逮捕に協力してくれるようだ。子供たちの命を脅かすような行為に加担したくないとは、イアンの言葉である。デリックたちの目の前で、彼は今まで通りニコラスの味方を演じて彼に電話を掛けた。
この街を支配するために自ら行動してくれるとは実に優秀な部下だ。自分が上り詰める為の大事な宝をこの目で確認したい。場所はどこだ?――流々と偽りの言葉を唇にのせるイアンの笑顔の仮面に、デリックが恐怖を覚えたのは数時間前のこと。電話越しのニコラスは、イアンの完璧な嘘を信じ込んだのか、あっさり子供たちの監禁場所を吐いた。
全てが順調に進んでいる。
「イアンは逮捕しなくてよかったのか?」
ニコラスが告げた監禁場所は車で一時間ほど移動した先にある湖畔沿いのコンテナだ。スチュアートが手配した車で移動しながら、デリックは助手席のランドルを見た。
舗装された道路から、人の手が入っていない砂利道になる。がたん、と大きく車体が揺れた。ランドルは前を向いたままだ。
「やつが違法なことをしている証拠がない」
「だから野放しかよ?」
「いや」
問い詰めるような口調に対し、ランドルが短く否定を返した。車窓から見える景色が徐々に変化していく。街並みが聳え立つ林木に呑まれていった。
ノースストリートにも、自然が息づいている。目の当たりにした景色に、デリックは居た堪れない気持ちになった。自分が捨てた街だ。未練はない。――そう思うことでしかポーカーフェイスを気取れなかった。
「やつは賢い。信念もある。上手く利用すれば、良い情報源になりそうだ」
正面を向いているため、ランドルの表情は後部座席のデリックからは窺えない。しかし、彼の声音からは愉しんでいる気配が伝わってくる。
「こぇぇ」
デリックは両手で自分を抱き締めた。
「ランディは鬼畜警官だからDも気をつけて」
こそこそ耳打ちしてきたライラの助言は、正直なところ何の助けにもならないだろう。これだから警察という人種とは距離を置きたくなる。今後もなるべく関わりたくないが、既にどっぷり泥沼に足を捕らわれているのが現状だ。デリックは大きな溜息を吐いた。
ニコラスの目的がイアンの台頭であるならば、イアン本人が彼のやり方を否定している時点で彼の行動は無駄になる。その事実を知ったニコラスが、果たしてどのような行動に出るのか予想がつかない。
先刻のイアンの部下と同様に、罵詈雑言を彼に浴びせるだろうか。しかし、逮捕できたあの男とは違って、ニコラスはかなりのやり手らしい。その厄介な男のもとへ着々と近づいている状況に、デリックの心労は増すばかりである。
危険な男に囚われたままの子供たちの安否も気にかかる。自分以外の誰かを思うことが、これほどの心労だとは。
デリックはこの事件の片が付いた後、二度と他者を気にかけることはしないと心の中で誓ったのだった。
鬱蒼と生い茂る草木。舗装されていない道路を走り抜け、デリックたちを乗せた車が乱暴に停止した。
スチュアートの運転は味方であることを考慮しても、丁寧とは言い難い。切迫した状況が彼の運転技術に多大な影響を及ぼしているのかもしれない。
運転席からスチュアートが後部座席のデリックたちを見た。声を潜めて、作戦を話し始める。
「ここからは車から降りて、目立たないように歩いて接近するぞ」
車内が緊張からか、あるいは、これから襲撃をかけることへの高揚からか、熱気に満ちていく。大人五人がすし詰め状態で乗車していることも要因だろう。じわじわと額に汗が浮いてくる。男四人に対して女一人では、熱気も籠るはずだ。既にデリックはすぐにも車外へ飛び出したい衝動に駆られている。
スチュアートの言葉に従って、四人は頷いた。ランドルとスチュアートの警官組が弾倉を確認している。ライラは狭い車内に居ることを忘れたのか、腕を回して準備運動を始めた。ぐるんと彼女の細い腕が一周するごとに隣のデリックにぶつかる。その度に、軽い調子でごめんと謝罪された。
デリックはこれといった武器を持たないため、準備するものがない。手持無沙汰に周囲を観察するだけだ。エリアルも同様なのか、車窓から外の様子を窺っている。
「よし、ニコラスはイアンが来ると思い込んでいるはずだ。やつと直に接触をするのは俺かランドルが適任だと思うが、どうだ?」
スチュアートの提案にデリックは首肯した。他のメンバーも異論はないらしい。ランドルとスチュアートがアイコンタクトをとって、ランドルが先に動いた。手にしていた拳銃を懐に隠す。
「スチュアートは潜入捜査中だから目立たない方が良いだろう。俺が接触する」
ランドルが立ち上がる。ついに、卑劣な誘拐犯とご対面する時間だ。
ニコラスが子供たちを誘拐し、監禁している場所は湖畔に隣接する巨大な格納庫のような倉庫だった。至る所に経年変化による腐食が見て取れる。周囲には錆びた鉄の臭いが仄かに漂っていた。まだ幼い子供たちを留めておく場所として、好ましい環境とは言えない。
デリックが通った裏手の道には、格子で蓋をされた側溝があった。汚水の臭気に精神が支配される前に、鼻呼吸を手放しておく。
湖畔の上で揺れているいくつかの船は、そのほとんどが既に何年も使用されていない放置船のようだった。倉庫の傍には巨大な古びたクレーン車まで放置されている。恐らく、ここはかつてノースストリートが独立国家のような街になる以前に開発途中で断念され、リディキュラスシティの政府から見捨てられた場所だ。
錆びついたクレーン車は、倉庫の二階に位置する目張りされた窓の近くでまでクレーンの先を伸ばしたまま、その動きを止めていた。
デリックの後ろからはエリアルがついて来ている。ライラはスチュアートと共に、別方向からランドルとニコラスの対談を見守る予定だ。このチーム分けになった理由は特にない。デリック個人の意見としては、勿論ライラと行動することが本望だが、何故かエリアルが背後についていた。否、憑いていたのかもしれない。
ライラとスチュアートは上手くやっているだろうか。一抹の不安は、しかし、すぐにシャボン玉のように弾けて消えた。背後のエリアルが突然声を上げたからだ。一応は潜められた声だが、現状では余計な言葉は口にしないに限る。
振り返ったデリックに、エリアルが視線を向けた。その双眸が、困ったような色を浮かべる。そっと彼の右の人差し指が示した方向に顔を向けると、木材で作られた巨大なパレットが山のように積み上がっている景色がいくつも見えた。その影に、見慣れた姿が映り込む。
まさか、この場所にどうしている。動揺を処理している時間の余裕はなかった。こうしている間にも、ランドルとニコラスが接触するかもしれない。
「アンタ飼い主だろ! アイツをどうにかしろよ!」
エリアルの腕を掴んで、デリックは声を潜めながら怒鳴った。二人の視線の先にいるのは、紛れもなくデリックが追いかけていた探偵犬――スコットだ。
「スコッティ」
エリアルの囁くような呼びかけに、しかし、スコットは両耳をぱたぱたと動かして反応する。
「おいで」
続く言葉で、スコットがこちらに顔を向けた。駆け寄る姿はまるで普通の可愛い犬のようだ。残念ながら、デリックにとっては単なる愛玩対象ではない。
エリアルの差し出した右手に吸い寄せられるように跳びついたスコットは控えめに尾を振る。平生どおり喜びの声を上げることはしなかった。スコットも声を潜めているつもりだろうか。やはりスコットは探偵犬だ。飼い主と同様、底が知れない。
「お前、今までどこに行ってたんだよ?」
他人のものをまたしても盗んでおいて――との発言は控えた。
スコットの黒っぽい丸々とした瞳が、デリックを見つめてくる。邪気のないその瞳は、飼い主と瓜二つだ。こちらに悪い箇所があるかもしれないと勘違いさせる。厄介で、恨めしくも憎めない。
デリックの問いに、もちろんスコットは答えなかった。一声鳴く前に、エリアルが先に進み始めたからだ。
倉庫が立ち並ぶ廃れた工場地帯のような空間の一角を、忍び足で歩く。ニコラスが指定した倉庫の前がよく見える位置に辿り着いた。先程遠目で確認できたクレーン車を明瞭に捉えることができる。
指定の倉庫の窓は全て目張りされ、ダンボールで目隠しまで施されているようだ。重い鉄の扉が、不快な金属音を響かせながらゆっくりと開いた。
扉の奥から靴底を引き摺りながら歩いて来た男は、くすんだ金髪をオールバックにしている。銀色の厳ついリングを親指に嵌めて、いかにも強面の危険な男だ。イアンから話に聞いていた「聡明で度胸のある男」の印象とは少し違う。見た目だけで表現すると、考えるよりも行動派で、暴力で解決しそうな男だ。あくまで、見た目は。
金髪の男の前に、ランドルが堂々とした出で立ちで現れた。イアンではない男の出現に、金髪の男が一瞬、瞠目した。
「ニコラスか?」
「――イアンはクソったれだ」
口汚い罵りが耳に飛び込んでくる。地面を睨みつけて、唾を吐いた。イアンとはまるで正反対の態度だ。イアンがおかしいのか、この男がおかしいのか。答えは分からない。
デリックはランドルの身が今まさに危険に晒されていると感じ、不安に襲われた。しかし、男と対峙しているランドルは相手の激情にも動揺を見せず、冷ややかな視線を投げつける。下を向いていた男が、ランドルを睨み上げた。殺気の籠もった鋭い目つきだ。
「で、あんたは誰だよ?」
「誰でもいいだろう。質問に答えろ」
「ニコラスはオレだ。イアンから命令されて来たのか?」
ニコラスの手が、背後にまわる。腰に挿している物騒な物に手を掛けるつもりらしい。男の行動を見咎めたランドルの片眉がピンと跳ねた。
「子供たちはどこだ?」
険しい声音のランドルを一瞥したニコラスが、不意に口端を歪めた。まるで愉快な質問をされたと云わんばかりに。
「子供たち? さぁ、どこだろうな」
不敵な笑みがこちらの心中を掻き乱す。この男が、子供たちに危害を加えていないという保障はない。
飛び出して掴みかかりそうなデリックのジーンズの裾をスコットが噛んだ。足元のスコットを見て、少しばかり溜飲を下げる。デリックがここで飛び込んだとしても、ニコラスが子供たちの正確な居所を素直に白状するわけではない。浅い深呼吸を繰り返し、デリックはランドルを見守った。
懐に手を入れながら、ニコラスを睨みつけることで牽制するランドルの姿は、遠目から見ても警官然としている。取り出した拳銃を躊躇なく相手に見せつけ、重々しく口を開いた。
「イアンは台頭を望んでいない。少なくとも、お前が考えるような無粋な方法では。諦めろ」
「あんたもイアンも頭が悪いんだな」
はっと息を吐いたニコラスが、ついに腰から拳銃を抜き取った。ランドルの指がトリガーに掛かる。
「どういう意味だ?」
怪訝な表情を隠すことなく問うランドルは、ニコラスへ一歩近づいた。対するニコラスは後退することも前進することもせず、余裕そうな笑みを浮かべている。
「……コンテナの中を見てくる」
「は?」
緊迫した状況を見守っていたデリックの横から、エリアルが唐突に宣言した。中を見ると宣言したところで、入り口はニコラスの背後にある。侵入するにはニコラスを振り切るしか方法がないだろう。現状にエリアルが割って入れば、間違いなくランドルとニコラスの間でぎりぎり保たれている均衡は崩れる。次に待っているのは、銃撃戦だ。
デリックは咄嗟にエリアルの腕を掴んだ。
「ダメだ。撃たれたいのかよ?」
「撃たれないよ」
「なんで言い切れる?」
預言者か占い師の副業でもしていると言い出す気か。腕を掴んだデリックの手の上に自分の手を重ねて、エリアルが足元に視線を落とす。そこにいるのは、探偵犬だけだ。
たいした力は入っていなかったが、促されるままデリックはエリアルの腕を解放していた。スコットが尾を振って立ち上がる。もちろん、四本足で。まるで二人について来いと言っているかのように、歩き出した。
エリアルは躊躇なくスコットに続く。ランドルとエリアルを交互に見て、デリックは地団駄でも踏みたい気分になった。この場を離れて良いのか判断できない。しかし、エリアルを一人――と一匹で行かせてしまうことが正しいとも思えない。後頭部を乱暴に掻いて、舌打ちする。
足音をなるべく消して駆け出したデリックは、エリアルとスコットの後に続いた。
「スコットが抜け道まで案内してくれるってか?」
「ああ」
間髪いれず頷かれた。
「探偵犬……怖すぎだろ」
デリックの呟きは、エリアルの耳には届かなかったようだ。
振り向くことなくスコットを追う背中を見つめながら、デリックは溜息を吐いた。この男もまた、デリックにとっては恐ろしい相手だ。とりわけ、話が通じないところが。
「ランドルたちをほっといていいのかよ?」
「ランドルは強いし、あっちにはライラとスチュアートがいるよ」
スコットが壁の穴にするりと身を滑り込ませた。
長年の風雨に曝され、錆びた鉄が腐食してできた隙間だ。スコットは入り込めたが、大人の男が通るには少し狭い。強引に入ればなんとか通れるだろうか。四つん這いになって進むしかない。
エリアルが膝を折って穴の中を覗き込む。その後ろで立ったまま順番を待つデリックからは穴の中の暗闇しか見えない。
「何か見えたか?」
「いや、使われていない工場って感じだ」
それは外から見ても十分に分かる。エリアルの頭を軽く叩いてやろうかと画策したが、すぐに諦めた。ここで揉めても意味はない。
乾いた生暖かい風が頬を撫でた。デリックが次の言葉を掛けるより先に、エリアルが穴の中に入って行く。
錆びた鉄部分を強引に押し開いて、なんとか臀部まで通ることができたようだ。残った足先をあっさり中に引っ込め、エリアルの姿が完全に見えなくなる。デリックは硬い地面に膝をついて、穴の中を覗き込んだ。
「エリアル?」
「大丈夫。入って来れるか?」
エリアルが穴の近くで手招きしていた。ひとまず、穴の先に問題はないらしい。エリアルよりも体格で勝るデリックは、彼が通る時よりさらに身体を小さく丸めながら狭い穴を通った。背中が擦れて少し痛い。しかし、無事に通り抜けることができた。
穴の中は、エリアルの言葉どおり、「使われていない工場」だ。周辺には木箱が無造作に積み上がっている。錆びた階段が二階通路まで繋がっているようだが、できれば上りたくない。体重を掛ける場所を誤れば、抜け落ちてしまいそうな階段だ。
ゆらゆらと吊り下げられた照明器具が揺れている。古びたランプはちかちか光り、漏電を疑うには十分だった。階段の近くにホークリフトが何台か駐車されているが、どれも正常に作動するかは判別できない。
エリアルがデリックの手首を軽く掴んだ。
「あの箱、中身は何だろうな」
この状況で、声に出された質問は酷く能天気に聞こえた。掴まれた手首を乱暴に取り戻し、エリアルの手を払う。瞬きしたエリアルがデリックを見てくる。その視線に応えることはしなかった。
積み上げられた木箱の中身より、子供たちの安否を確認したい。
デリックはエリアルを置いて、階段下の扉をひとつずつ開け始めた。開閉の度に、錆びた鉄の音が響く。外にいるニコラスに聞き咎められないことを祈るしかない。
どの扉にも鍵はかかっておらず、中は木箱で溢れていた。子供たちの姿はない。木箱以外に視線を遮るもののないがらんどうの倉庫内だ。見渡せばどこにも子供たちを隠す場所がないと判断できる。自ら進んで身を隠しているのであれば、積み上がった木箱の影に隠れることはできるだろうが、子供たちは誘拐されている。よくても軟禁状態だろう。悪ければ――、最悪の事態はなるべくなら想像したくない。
万が一、最悪の事態になっているのであれば、前もって想像することで二重に嫌な思いをすることになる。デリックは基本的に楽観主義者だ。少なくとも、本人はそのように自分を評価している。嫌なことをわざわざ想像する必要はない。
そんなことは、現実だけで十分だ。
「この中にも木箱。こんなに大量に、何だろうな」
「そんなに知りたきゃ開ければいいだろ。どうせヤバイ薬とかだよ。興味ないね」
「薬だったとしても、逮捕する口実にはなる」
焦燥感から苛立つデリックに、エリアルが冷静に返した。彼の意見が正しい。本来の目的である誘拐事件で逮捕できなかったとしても、別の容疑で逮捕できるならばしておくにこしたことはない。
どのような状況下でも、エリアルの声音は変わらないままだ。度胸があるのか、鈍いだけなのか。あるいは冷酷な人間なのか。
「素手で開けようとしてるとこ悪いんだけど、コレ使った方が早いだろ」
室内の壁に立てかけてあった鉄のバールを手に取り、素手で木箱の蓋と戦っていたエリアルを退かせた。梃子の原理だ。木箱と蓋の間にバールを差し込み、先を下に押すと蓋が開いた。きっちりと密閉されていたようだ。
蓋の裏に折れ曲がった釘の先端が見える。よほど大事なものが保管されているらしい。違法な薬物の気配をひしひしと感じる。デリックは緩衝剤の山を掻き分けて、木箱の中を探った。
「……は?」
しかし、中から出てきたのは白い粉ではなかった。
第4章に続きます。