第4節
連行されたスタッフ用の室内は、一見するとまるで倉庫のようだった。周囲にはダンボール箱が積み重なり、薄暗い照明の下で清潔さはあまり感じない。
イアンは部下らしき男に用意された椅子に座った。この場の空気を支配するイアンの正面に、デリックとエリアルの二人は連れて行かれる。デリックの腕を掴む部下の男の力が強い。これだけでも、イアンが一般的な商売主ではないことが窺えるというものだ。
イアンが足を組んだ。椅子の背もたれに背中を預け、威圧的な態度で二人を睨んでくる。
「知らなかったとはいえ、ルールを破ったのはこっちだ。謝るし、コイツが稼いだ分の金は返すよ」
「殊勝だね」
「それで許してくれ」
とにかく、痛い目に遭うのは御免だ。デリックは譲歩して謝罪の言葉を口にする。
「だが、それでは足りない」
「足りない?」
まさかここで働けとでも言うつもりだろうか。身構えたデリックを嘲笑うイアンは、店で見たときの柔和さが消えている。恐らく、こちらが彼の本来の顔だろう。
「お前の稼いだ分も含めて全て返金しろ。それが真の謝罪だ」
「オレはイカサマなんかしてない!」
「上乗せしてもいいんだよ? 迷惑料ってことで」
一歩も引く様子がない目の前の男の発言に、デリックは奥歯を噛み締めた。ここで逆らって、本来の目的が果たせなければ意味がない。大人しく頷く以外の選択肢が思い浮かばなかった。
誰かに支配されるのは、幼い頃から苦手だ。この街で生きてきたデリックだからこそ、より強くそう思うのかもしれない。
従うしかないと理解していながらも、逆らいたい欲求がデリックに返答を躊躇わせた。唇を引き結んで、どう返すか言葉を探す。
不意に、エリアルがこちらの葛藤などお構いなしに一歩前に出た。相変わらず唐突だ。イアンも瞠目している。
「あなたはこの街が嫌いなのか?」
しかも話す内容まで唐突だ。
「――どうしてそんなことを聞く?」
もっともな意見だ。デリックは内心、イアンの言葉に大きく頷いていた。
「ノースストリートを支配しようとしてるって噂を聞いた。今のノースストリートに不満があるからか?」
「大した度胸だね。お前がこの街の住人でないことは最初から分かっていたけど、外の人間は皆こいつのようにバカなのかな?」
「いやいや、コイツだけだって」
つい口出ししてしまったデリックに、エリアルが困ったような顔を向けてくる。そんな顔をされてもエリアルを庇う気概など、デリックは持ち合わせていない。
「お前はここの住人らしいね」
「どうも」
どれほど外の世界にいても、生まれ持ち、染みついたノースストリート特有の空気は拭い去れないようだ。
「オレはデリック。そっちがエリアルだ。エリアルはアンタの言葉どおり、空気の読めないバカだけど、オレも同じことが知りたいんだよ、イアンさん?」
敢えて挑発するような声音で告げると、イアンが片眉を跳ね上げた。
「だったらこちらから質問を返してあげるよ。デリック、この街に不満はないのか?」
「――随分、答えづらい質問だ」
デリックの街に対する評価の話ではない。答え次第で、イアンがどう動くのかが問題だ。イアンの心が街に対して批判的であるならば、「ある」と答えても問題はないだろう。しかし、もし逆だとすれば。
嫌な汗が背中を伝いそうで、デリックは眉を寄せた。この場所は最初からこれほどまでに息苦しかっただろうか。
「知っているかな、エリアル。この街で生まれた人間は、この街で生涯を終える確率が高いんだよ」
イアンの視線が、ゆっくりデリックからエリアルに移る。
「外に出る者が圧倒的に少なく、ずっとこの街で生きていく者が多い。これは何を意味すると思う?」
エリアルが口を閉ざした。自分が答えるよりも、イアンの答えを待つことにしたようだ。
「ノースストリートで生まれ育った人間は、この街に束縛されているってことだよ。一生ね」
イアンの言葉に胸がざわつく。デリックが心のどこかで彼の意見に賛同しているからだろうか。
「つまり、あなたはノースストリートを快く思っていない」
いつもと変わらないエリアルの態度が、デリックに冷静さを取り戻させた。いつの間にか止めてしまっていた息を静かに吐く。部下の男に掴まれたままの腕が痛い。
「それで? 結局、何が聞きたいのかご説明願おうかな?」
足を組み直して二人を見るイアンの態度は堂々としたものだ。上に立つ者の威厳を否が応でも感じる。
デリックとエリアルを掴んだまま背後に立つ男たちは、先ほどから沈黙を貫いていた。イアンの仲間というよりは、やはり部下と表現するべきだろう。彼の言葉に忠実な部下。体格も良いようで、デリックが正面からぶつかったとしても倒せるかどうか分からない。
このまま逃げ出すことができなければ、一体どうなってしまうのか。イアンについて耳にしたことがある数々の悪い噂がふつふつと思い出される。
動揺を必死に隠すデリックは、倉庫のような室内で不意に動く影を見た。はっと、息を漏らしそうになって慌てて唇を噛む。幸い、デリックの変化を誰も見咎めてはいなかった。
「行方不明になった子どもたちを探してる。何か知らないか聞きたい」
包み隠さず話したエリアルに、イアンが驚きを見せた。
「広場で消えたっていう連中? それを聞くためにわざわざここに?」
「そうだよ。情報が早いんだな」
頷くエリアルに、イアンが不敵な笑みを返す。
「サウスブロックの連中は、俺たちを信用してくれているんだよ。ノースストリートの自警団まがいのヤツらよりずっと。だから、何かあるとすぐに俺の耳まで情報が入ってくる。住民からの情報だ」
「あなたたちなら何とかしてくれるって思われてるのか。だから誰も騒いでないんだな。あなたたちを疑う人間はいない?」
「面白いね。まさか俺たちが誘拐したとでも言うつもりなのかな?」
「――悪いが、それを聞きくために来たんだ」
エリアルが返答するより先に、別の声が割って入った。唐突とも思える乱入は、しかし、デリックたちの作戦通りだ。
イアンの背後を取ったのはランドルである。
「無礼だね。いきなり背後に立って話し掛けてくるなんて。驚くじゃないか」
全く表情を変えずに告げるイアンから驚いた様子は窺えない。堂々としたものだ。視線を少しだけ背後に向けながら、イアンは怯む様子もなく続けた。
「それに、本気で俺たちが誘拐に加担していると思っているようだね」
「加担ではなく、首謀者じゃないかと聞いてるんだよ。Mr.イアン」
イアンに負けず劣らず堂々とした態度で、高圧的とも思える口調のランドルは、いかにも「怖い警官」だった。イアン本人よりも先に、イアンの部下たちがランドルを睨んだ。
殴り合いの乱闘が始まってもおかしくはない緊迫した空気。ランドルの手が、懐に伸びる。反射のように、イアンの部下たちが腰のベルトで固定されていた拳銃に手を伸ばした。
デリックの予想は甘かったらしい。今から始まるのは殴り合いではなく、銃撃戦だ。一歩後退したデリックを、イアンの部下が見咎めて鋭い視線を向けてくる。
状況の変化に動揺を見せないのはイアンだけだ。かなり胆が据わっている。あるいは、このような緊迫した状況に慣れているのかもしれない。緊張からくる息苦しさに、デリックは息を吐いた。
殺伐とした室内に、突如、騒音が響く。
イアンの片眉が僅かに上がる。彼の手が懐に伸びた。咄嗟に身を硬くしたデリックは、イアンが懐から取り出したものを視界に入れて安堵する。
彼の手の中で鳴り響く携帯は、場の空気を読まず、大音量だ。イアンは緩慢な動作で通話ボタンを押した。その背後で、まるでスコットに噛み付かれたかのような苦い顔のランドルがいる。
「――なんだ」
決して上機嫌とは言えないイアンの短い応答に、電話越しの相手が緊張した気配がこちらにまで伝わってきた。
「ふざけた真似をしたね」
イアンの双眸が、初めて動揺に揺れた。
「これ以上会話を続ける時間が惜しい。こちらで処理する」
電話越しの相手が慌てて何事かを喚く声が聞こえたが、イアンはあっさり通話を切った。彼は一度目蓋を閉じて、数秒も経たないうちに再びその双眸を覗かせた。――そこに、もう動揺の色はない。
足を組み直したイアンが、部下たちに見えるように手を動かし、下がるようにと合図した。臨戦態勢に入っていた彼らは戸惑いながらも後退する。今すぐに争う気はないらしい。
彼が通話を終えた室内は驚くほど静かだ。イアンが渇いた唇を舌で湿らせた。再び足を組み直して、対峙しているデリックとエリアルを交互に見てくる。
「俺は加担していないし、首謀者でもないよ。話は終わりだ。帰ってもらおう」
「は? っと、失礼」
簡潔な回答に、無意識に声が漏れた。皆の視線がデリックに集まる。小さく咳払いして、目の前でゆったりと構えるイアンを窺う。
「あ~っと、まったく関係してないって証拠は?」
「ない。あったとしても、披露する理由が分からないね。今すぐ帰れば今回のルール違反は見逃してやるよ。だから帰れ」
しっし、と手を振られてしまった。どうやら本気で彼はこの会話を終わらせたいようだ。
ランドルの顰め面が恐ろしい。こちらを射抜くように見ていたイアンの視線が部下に移る。強引に追い出す算段かもしれない。デリックは神経を研ぎ澄ませて周囲に気を配った。強硬手段に出られたとしても、いつでも反撃できるように。あるいは、逃亡できるように。
緊迫した空気の中で立っているだけで、一分が一時間にも思える。イアンのテリトリーに侵入してからどれほどの時間が経過したのか、既にデリックには判断できなかった。
室内に蔓延した緊張の糸を断ち切ったのは、やはりエリアルだ。
「分かった」
「は?」
平淡な声で了承の意を告げるエリアルに、デリックは声を上げた。この名探偵は突然何を言い出すのか。どれほどの覚悟でデリックたちがイアンのカジノに乗り込んできたと思っているのだろう。彼はここまでの苦労を水の泡にするつもりらしい。
エリアルの勝手な返答に、ランドルが懐に伸ばした手を元に戻した。表情は険しいままだが、エリアルの判断に従うようだ。言葉の少ない名探偵の思考回路をランドルが既に理解しているとは思えない。
それでも、彼がエリアルに従う理由――それは、「信頼」という名の根拠のない感情論か。
デリックは頭痛に悩まされる人間のような心持ちで、二人の様子を交互に見る。口を挟んでも、エリアルの判断に変更はないだろう。ランドルもまた然り。溜息は呑み込んで、デリックは緊張していた体の力を抜いた。
「殊勝なことだね。出口まで彼らが案内しよう」
部下たちが鉄製の重い扉を開ける。導かれるまま、三人は倉庫のような部屋を出た。