空
人間は常に空の下に生きている。365日毎日、空の情景とその様子は異なりを見せる。多くの人はそれを当たり前と捉え深く考えることはしないだろう。曇りや雨天、我々の居る地上からは一見多くの雲で覆われた空は、その雲を突き抜けた先には輝かしいばかりの太陽と最上級の青空が広がる。我々は空を見ている様で星を見ていて、宇宙を見ている。
思い込みの認識の上に真実が在る。
人類の進化はテクノロジーの進化と共に在り、今ではパソコンと携帯電話が融合したスマホが普及している。産業革命の時代、パソコンが発明された時代にこんなことが想像できただろうか。生活の利便性は飛躍的に向上した。
しかし、本当の意味での人間の生活は、質は、向上しただろうか。
簡易化し利便性を追求したことで、人間の性格や人格は向上したかは甚だ疑問だ。いや、寧ろ低下しているだろう。悪意的な人間、潜在的な悪意を持った人間の行動を飛躍させている。
無論、世界的にも云えることだが、特に日本のこれは、「常識」「世間体」「ストレス社会」の反動が大きく起因しているだろう。
前者2つの負担が3つ目の後者に繋がる。年上年下、上司部下、先輩後輩などの行き過ぎた概念の副産物がこれなのである。これらから生じるストレスは精神的な余裕と安息を阻害する。
その結果、物事への優しさや寛容寛大さが欠落した人間となるのだ。多くの被害者や犠牲者が出ても変わることは無いこの負の文化風潮、そしてこのストレス社会を日本人は見改めるべきだ。
朝方の冷え込みが、布団から出るか出ないかの葛藤となって決まって毎朝訪れる。10月中旬になってからというもの、冬の訪れを認めざるを得なかった。どうせまた汗が滲む様な天気で裏切るのだろう?そんな感情がまた返って嫌だった。
というのも、温暖化の影響か10月でも度々汗を感じる日があったからだ。いや、寒いと感じる日が殆ど無かったという方が正解だろうか。特に何の恨みもないが、画面越しにそれを伝える天気予報士に苛立ちを覚えたりもした。本当はそれだけではない。天気予報士でもない素人の人間が、脚本通りに専門分野を報じているのがさらに不愉快を募らせる。若い女子を使えば視聴率も上がると思っているなんともふざけたテレビ局だが、当たっている。
そう、男は若くて可愛い女子が映っているとチャンネルを留めてしまうのだ。ましてや日常生活の中で一般的に重要となる天気予報ともなれば尚更だ。とんでもないブスでもない限り、回す理由などどこにもない。女性でも、爽やかなイケメンが天気予報をしていれば朝から気分は良いはずだ。若い女子は女性からすればとくになんてこと思うことではないのだろうが、特段ネガティブに捉えることでもないだろう。
あらゆる場所や状況で女性は特別な存在だ。受付やコールセンター、商業施設でのアナウンスなど音声ガイドや接客という場面ではかなり女性優位であると感じる。それはきっと、女性という存在が、癒しとして、普遍的なものであるからなのだろう。こういう場面で既に男女に対する差別というか偏見の様なものは往々にして確立されている。
僕はこれは人間の性別としての性なのだと考えてはみるが、喉に刺さり中々取れない小骨の様な罪悪感をどことなく感じているのだった。
ここ最近になって寒波の影響で急に寒くなった。例えるなら、浸かっているぬるま湯の中に大量の氷を放り込まれた様な感じだ。テレビの女子が朝方は10度下回っているとか、霜が降りてるとか、師走並みの寒さだとか、言っている。冬の朝が苦手という人も多いが、同じくして僕、村上冬真もそうであった。特にこの日は、朝の冷え込みが際立って身に沁みた。北海道に住んでいる人たちはなんてことない慣れた様で冷え込んだ朝でも普通に活動してることに例年必ず驚かせられる。それだけで関東人よりも生物学上何か特化しているのではないか、そう思ってみては都合の良い言い訳の糧にしていた。それにしても、北海道民が川も凍ってしまっている様な朝に、今日は暖かい方だねとか、テレビで言っているのには手に持ったモーニングコーヒーを何度止めたことか。きっとその瞬間、関東人のほとんどが手を止めたに違いない。
僕は冬の朝が苦手な人間ではあるものの、実は、冬は大好きなのだ。湿度が低く、乾燥し、空気が澄んだ晴れた日の情景は、素晴らしいの一言に尽きる。昼間は生々しい青を魅せ、夜は無限に瞬く星で煌く漆黒を魅せる。一度は北欧にオーロラを観に行きたいと思っていたりする。
午前中に学校の講義が入っているのでそろそろ起きてみようと試みるが、身体は横向きの体育座りの状態から動く気配はない。無意味に足裏同士を擦ってはみるものの、中々、上体を起こすまでには行かない。そんな葛藤をかれこれ毎朝小1時間はしている。
鳥が外で鳴きあっている。頻繁に発声して鳴き合っているが一体何を言い合っているのだろう。人間でもそんな朝から饒舌な人は稀だろうし、いたとすれば嫌われやすいタイプとなることは間違いない。朝からマシンガントークをしている人は、朝からカツ丼でも焼肉でもフレンチのフルコースでも、顔色一つ変えることなく食べれる人に違いない。鳥というのは朝が早くて関心する。明朝の4時頃に尿意を感じて嫌々起きたが、その時には既に複数の鳥が鳴いているのを寝ぼけた脳みそが憶えていた。空を自由に飛べるとはなんて魅力的な存在なのだろう。寿命は人間ほどではないが、それが何なのか。鳥はそれを大きく上回る程の魅力と価値を享受している様に僕には見えた。そんな鳥を以前から羨ましく感じていた。
そうこうしている内に通学に向かう小学生の集団の声が聞こえてきた。
すると、スイッチが入ったかの様に身体がふと起き上がる。集団心理に同調されるからか、置いて行かれる孤独からの勝手な焦りなのかは僕にもはっきりとは分からない。
そこから朝シャンをし、歯磨いて着替えて髪をセットして学校へ向かうという流れが僕のいつものルーティンである。いわゆる、朝食抜きというやつだ。不健康な生活習慣という指摘もメディアや書籍で目にするが、周囲の同級生以上に健康を意識していると自負している。炭水化物を必要以上摂らない様に制限し野菜と肉はしっかり摂り、週3日以上のランニングと懸垂で筋肉をつけ健康を意識しているのだ。ロードバイクもたまに跨るのだが、脚が太くなることでチノパンが履けなくなるという理由でこれを控えるようにしている。
そんな体系だが、俗に云う細マッチョと認識している。大胸筋の膨らみ、腹筋の割れ、上腕筋周りの太さを確立して、はじめて、男としてのスタンダードな骨格を得られるものだと思い込んでいた。飲み物に関しても、周囲はコーラやエナジードリンク、スタバのフラペチーノだのを頻繁に飲んでいるのだが、僕はめっきり水とお茶とブラックコーヒーの選択肢が殆どである。飲み物程度でカロリーを摂ってどうするのかと周囲のその行動、というより今の同年代のその行動に度々理解に苦しませられている。
原宿などと同様、トレンドというか企業のメディアやSNSを活用したキャンペーンにまんまとやられた結果の今の時代の姿なのかもしれない。
駅が近付くと、多くのサラリーマンや学生たちが駅構内へと流れ込んでいく。みんな僕と同じく都心へと向かう人がほとんどなのだろう。寡黙に集団で進んでいく出で立ちは、まるで徴兵された兵隊が戦場へと向かっていく様相にすら感じる。
識別番号の振られたICカードを改札機というゲートに読み込ませる。無機質な反応でそれはゲートを開き出迎える。決まったホームに向かって進んでいく。ホームには集団で整列しながら待つ人で溢れている。アナウンスの後にメロディともに金属の巨大な箱が長く連結されてやって来た。無駄なく少しでも効率良く収容運搬しようとするクラシックな形のそれは、決められたポイントにオーバーすることなく停車する。停車したそれの扉が一斉に開くと同時に、先程まで整列していた人が無言で突入して行く。既に搭乗している多くの人がいるにも関わらず問答無用になだれ込んでいく。少しでも隙間があれば突入していく覚悟をみな持ち得ているのだ。冷徹に考えれば、見ず知らずの人同士の身体が一定時間密着し合う光景は異様だ。扉が閉まる様にお腹を凹ませ呼吸を一部制限する。そんな状況の繰り返しを続けながら、一駅また一駅と都心へと入って行く。
大嫌いな満員電車を下車し駅を出ると、僕は機械的なルーティンを脱したことに毎回安堵した。霜で滑りやすい日陰の道を慎重に、足元に神経を集中させながら歩くのだが、雲一つない空気の澄んだとても気持ちの良い空をついつい眺めてはヒヤヒヤするという、そんなのを繰り返しながら大学に向かっていた。
すると、道中で背後から同じ講義の知人に声を掛けられた。友人か?と聞かれれば応えにくく困ってしまうので敢えて知人と捉えている。手には飲みかけのエナジードリンクの缶が握られている。すると、直ぐにこちらの反応を待たず彼は喋りだした。
「なあ村上、昨日のレアルの試合観たかよー」
サッカー好きだけにかなり興奮した様子だ。エナジードリンクを飲んでいるからだろうか、いや、エナジードリンクにそんな効果があるとは聞いたことがない。
「クリスチアーノ・ロナウドのシュートすごかったよなあ。マジ興奮したわー」
今でも十分興奮しているというのにそれ以上に興奮したとでも言うのだろうか。
そんなことよりも、昨夜のニュースの方が気になって仕方ない。交通事故で女子高生が亡くなったという事故だった。昨夜から、彼女はどんな人だったのか、どんな声だったのか、どんな一生だったのかなど尽きない推察を続けていた。推察せずにはいられなかった。果たして、彼はそのニュースを知っているのだろうか。そんな感情に満ちた視線で彼の方を見る。返ってきた彼の視線は生き生きと輝かしく童心に溢れていた。
きっと彼は知らない。耳にしたとしても、聞き流す程度だったのだと強く思った。
一方的な会話らしくない会話をしていると、学校の正門が見えてきた。正門にある守衛所の所で誰かが守衛と談笑している。その顔にどことなく見覚えがあった。近くに住むお年寄り達が、定期的に正門などを箒で掃いて掃除してくれているのだ。実際、掃除というのは建前で、守衛さんとの日常の会話を愉しみにしているのだと見抜いていた。きっと、僕の隣でサッカー論を熱弁している男も誰かと話をしたくて昨夜からずっと温めていたのだろう。そう考えると、彼がなんだか愛嬌良く思えてくる。
そういう風に他人の心理や行動を洞察していくのはなんともおもしろい。普段からの物事の捉え方や判断が変わりだしたのは、こういう思考回路を持ってからだろう。
自宅から学校まで歩を進めて来たが、誰も彼女のニュースなど気に留めている様子はなく、どこか腹立たしい様な悲しい様な何とも言えない感情を覚えた。僕はそんな複雑な心境の中、守衛の方に軽く会釈をし正門を通り過ぎた。
誰に何かを期待していた訳でもない、ただ誰に何かを裏切られた感を浴びる様に感じた。小さくだがとても強く着実に不信感が僕の中で芽生えていた。構内に入る直前で、自分が無意識に早歩きになっていることに気付いた。
夕方の帰路、普段より一つ手前の駅で降りることにした。多くの人で混雑した電車は嫌いなのだが、彼女と同じ年代の女性や疲れた様子のサラリーマン、子供の小さな手を引く女性、イヤホンをしながらスマホに夢中になる同年代、百貨店の紙袋を提げ安心した様子で優先席に座るお年寄りなど、何か世の中の一面を改めて感じることが出来た気がした。混雑した車内への不快感はいつもより小さかった。この日の車内はいつも以上に感慨深く感じた。総じて、イーブンといった具合だ。
駅を出ると、丁度、ビルの小さな間から西日の灯りが顔面に当たった。
皮膚、頭蓋骨を突き抜け、それは脳みそにまで突き刺さる。自然の暖かさを、感じる。
それは、どことなく力強さにも感じた。
しかし直ぐに照射範囲から外れてしまった。周囲の人は空や夕陽なんて気にする素振りなど全くない。皆、当たり前の様に改札を出て当たり前に帰路に就いている。目先は進行方向の数メートル先または手元ばかりがほとんどだ。それを認識した瞬間、一気に現実に引き戻された。
電車に乗車している時から車窓から差し込む夕陽に目を奪われていた。慣れない手前の駅で降りたのはそれが理由だ。自宅の方向に歩を進めると同時に、それをよりはっきりと観れる場所を探す為だった。電車に乗っている間に、そこを河川敷と決めていた。実はこれらは、朝起きた時から考えていた。いや、厳密には、もっと前からだ。
夕方になりヘッドライトを点けだす車が目に付くようになった。夕陽で染められた空の発色に比べると全くと云っていい程にそれは官能的には感じられなかった。いや、そんなことは云うまでもなく当たり前だ。わざわざそんなことを思う自分が阿保らしいと思っては、小さな自己嫌悪を感じていた。
道中で、人工的なそれが目に入る度に不快感を感じていた。街にはこれから帰社するサラリーマンたちの直帰を阻む匂いが漂い始めていた。本通りから入るいくつもの路地を跨ぐ度に、肉を焼く匂いや甘だれの匂いがした。仕事の疲れやストレスを脂と糖質で誤魔化し、また翌日も頑張ろうというサイクルの繰り返しである。感情も思考もある人間だが、冷徹に観ると社会のほとんどの人間は機械的だ。僕はそれに終始違和感を感じていた。
一歩一歩と河川敷に近づくにつれ周囲の建物も低くなり住宅地としての雰囲気が漂い出してきた。駅から3キロは歩いて来ただろうか。すると、目先に橋が見えてきた。交通の往来の激しい橋だ。その橋の手前の交差点から河川敷脇に続く側道を視認した瞬間、僕は上半身に夕陽を浴びた。同時に河川敷の堤防が目に入る。一直線に無言で歩を進めていく。明らかに、脚の動き、歩幅が、大きくなっているのがすぐに分かった。
交差点を曲がり、河川敷の堤防を上る様は、まるでオリンピックの聖火台に上がっていく気分だった。
堤防上の歩道に辿り着いた瞬間、燃え上がる夕陽は僕の頭から脚の先まで全身を包み込んだ。
僕はそれを全力で受け入れた。
メラメラと力強く燃えたぎる存在感を強く感じる。それでいて、そのどこかに母性をも感じた。
その周囲と地平線にまで広がる茜色のグラデーションは、年中を通して人間が観ることの出来る自然界至高の芸術だ。正確には、地平線というより、河の向こうに連なる屋根を地平線として代用している。河川敷の堤防にいる僕にとってはそれが日没ラインだったからだが、そんなことはこの時の僕にとっては問題ではなかった。
刻一刻と変わっていく儚いそれは、人間の様にすら感じる。
____人生で最も至福な時間だ。
ジョギングをしている女性がこちらに向かって来ていることに気付くのが遅れてしまった。咄嗟に目元を抑えてはみたものの、案の定、不思議そうな顔をされ横を通り過ぎて行く。何とも云えない気まずさに襲われた後に、意味もない素朴な笑みへと変換された。
動揺を必死に堪え、冷たく冷え切った河川側斜面の芝生に腰を下ろすことにした。一瞬、尻に冷感が走るが、直ぐにその懸念は消し飛んだ。
なんとも美しく壮大、それでいて儚いのだろう。時間の経過があっという間に感じる。
彼らは正直だ。
人間の様な醜悪さは微塵も無ければ、彼らの主張には一切の迷いも無い。不変だ。
その時の僕はまるで、温められた鉄板に置かれてゆっくりとゆっくりと溶けていく冷蔵庫から取り出したばかりのバター。そんな気がした。
彼らに魅せられて顔面を茜色に染めながら、同時に僕は彼女のニュースに思慮を巡らせていた。
ニュース内容によると、彼女は高校2年生の17歳。自転車で通学途中に朝の通勤通学で混雑する幹線道路の交差点を横断中、左折してきた大型トラックに轢かれて亡くなった。
教習所や免許試験場でよく聞く、巻き込み事故というやつだ。
昨夜、僕は到底他人事とは思えない心境でテレビに思考のすべてを持っていかれていた。しかし、テレビは1分程の報道で次のスポーツトピックへ移行してしまった。心理的な整理が追い付かない僕は、次のスポーツ関連のニュースを笑顔で読み上げているアナウンサーに当惑した。
余りにも情報が足りない。足りなすぎる。当事者達の心境は計り知れない状況であるのにも関わらず、テレビの進行に倣ってスポーツニュースを優雅に観る神経は、この時の僕には正気の沙汰とは思えなかった。吐き気さえ覚える。
溜まらずに僕はインターネットで情報を調べてみるが、取り上げられてはいるもののどのネットニュースも記載される内容には大差がなかった。
僕は、彼女へ突如訪れた死というものの真実を、体を成せる真実として認知しておきたかった。
観光客が道に迷い、地図を再確認し、溜息を漏らしながら来た道を引き返そうと云う様な心境になりかけていた時、一本の動画に辿り着いた。
その動画は当時、事故現場交差点で信号待ちをしている車に搭載されたドライブレコーダーの映像だった。その現場付近にいた車の映像がまさかあるとも思わず、空虚な高揚をした。動画共有サイトでは数多な動画が世界中で共有され続けており、この様な類の動画も啓発などの意味も含め共有されているようだ。時代と科学の進化を実感しつつも、マウスに置かれた人差し指に意識の多くを持っていかれる。
再生ボタンを押す寸前、手に湿り気を感じた。
動画は鮮明ではないものの、事故発生からドライバーが駆け寄るシーンまで記録されていた。
路側帯を自転車で走る女子高生が交差点に進入すると、後方から来た大型トラックが彼女と丁度平行に並んだ。トラックのミラー下の助手席ドア付近に重なってしまっただけに完全に死角だ。
非情にもそれは彼女に襲い掛かった。
そのまま巻き込まれると、倒れた自転車と一緒にトラック本体の左側車輪に踏まれた様に車体が揺れた。不審に感じ左折途中で止まりかけるが、ドライバーは杞憂だと思ったのか再度アクセルを踏み左折を強行するトラック。
その瞬間、幹線道路反対車線でラジオを流しながら信号待ちをする車のドライブレコーダーにまで届く大きな悲鳴が起こった。周囲にいた女性の声だろうか。
今度は牽引する荷台まで大きく上下に揺れたのだ。その状況に漸く確信したのか、ドライバーは急いで車を停め扉を開けっぱなしですごい形相で飛び降りてきた。車体で彼女の様子までは見えないが、彼女を確認したドライバーが頭を抱え真っ青な顔をしている姿が映っているのを最後に動画は終わった。
多くの人間が観るテレビニュースはほんの1分にも満たない内容だった。抽象的で情報量が足りないだけでなく真実とは程遠い。我々は一体何が分かるのだというのだろうか。我々は一体何を知ろうとしているのだろうか。僕は自問自答を繰り返した。
当日朝、彼女はいつのも様に当たり前に家を出ただろう。誰もが本人でさえもこの様な運命が訪れるとは思いもしなかったことだろう。
事故直前に大きな金属の塊が覆ってきた時の恐怖とは、10トン以上もの車体に踏まれていく恐怖と心境とは、表現しきれないものが本人にはあったはずだ。メディア越しに目の当たりにする僕達には到底察しも理解も出来ることはない。
彼女が生まれた意義とは?
生きてきた意義とは?
全てに於いて彼女は一体何だったのか?
自分を、人間を、社会を、重ねて想いを巡らせていた。
この彼女の件だけではない。以前から、あることをきっかけに僕は他人事を他人事と捉えることが出来ずにいた。常に俯瞰的な思考を続けてきていた。
そして僕は、人間には「運命」という概念だけが一番に合理的であると感じている。
しかしながら、面識もなければ声も性格も顔も何も知らない人間を、何故そこまで想うのかははっきりとは自分自身にも分からなかった。ただ、自分という存在、周囲という存在、社会という存在、人間という存在そして、それらへの意義というものを根本から考え見改めた過去があるということが、きっかけであり、始まりであり、全てであることは分かっていた。
それがいじめだ。
人間が人間の為に人間により構成され人間で渦巻くこの社会では、人間であるにも関わらずその大半の人間を人間として認識していないのだ。
その現状を認識した瞬間、
高熱の鉄板の上に落された僕のそれまでの全ての既成概念の水滴が一瞬で蒸発した。
生まれたことを知らず、存在していることを知らず、亡くなったことを知らず、共に同じ時を刻んでいた人間を、終始認識出来ない人間とその社会に絶望を感じずにはいられなかった。
絶望を。
夕陽の弧がもう少しで地平線に消える。
茜色に墨を垂らした夕焼けが夜の始まりを告げていた。
東から伸びる漆黒の空に、第三の彼らが静かに姿を現しだした。ベガ星がひと際と輝いている。
僕は彼女を忘れない。一方的に憶えて心に留めておくことにした。この先も、ずっと。
視界が煌き揺れていることには気にせずにいた。
しかし、それが頬を伝うとくすぐったさが込み上がり、強制的に現実に引き戻された。それまでの感情とは別の感情で醒めた僕は、硬直しきった膝に抗いながら立ち上がる。
地平線に沈んでいく夕陽。
夜空へと変貌を遂げていく夕焼けと星たち。
彼らを横目にしみじみとした足取りで僕は帰路に就いた。