9.秋豆のケース
秋豆景子は、夏の戸口に立っていた。
「うーん、申し訳ないんだけど、心当たりはないですねぇ」
連日の猛暑の中、海山という若い警察官が聞き込みに来ていた。先日の銀行強盗に関連する件である。当初は銀行強盗との報道で、ニュースの地方枠として小さく取り上げられていたが、その潜伏先であった建物近くの池から大量の人形が出てきたことから、昼のワイドショーの格好のネタとなっていた。専業主婦である秋豆は、毎日流れてくる下衆な報道にうんざりしていた。子どもも小学校に上がったことだし、そろそろ少しくらい働きに出るのもいいかもしれない。
警察官は、「もし何か思い出したら、こちらに連絡ください」と電話番号が書かれた紙を差し出した。営業マンのように名刺を配ることができないのか、それともただ忘れてきただけなのか、社会経験の乏しい秋豆には判断がつかなかった。
「わかりました、何かあればご連絡いたします」
「ありがとうございます」
警察官は会釈をして立ち去りかけたが、思い出したように秋豆の方に振り返り、「ところで、あの家について、『呪われている』という噂は聞いたことがありますか」と尋ねた。
「ええ、ありますが」と答えながら、警察までその話題かと辟易した。
「何かの参考になるかも知れませんので、もしご存知のことがあれば教えていただけませんか?」
「うーん、呪いって言っても、あんまり具体的な話は聞いたことがないような気がします。昔、小学生の頃に肝試しで行ったことがあって、その後にクラス替えで嫌いな子と一緒になったり、じゃんけんで負けが続いたり、親戚が亡くなったりしたときはそれが『呪い』かも知れないなんて真剣に悩んだときもありましたが。」
「呪い、というよりは、普通に起こりうることだったと」
「はい」
「ちなみに、肝試しは普通、何人かでやるものだと思うのですが、他の人は何か言ってましたか?」
秋豆は頬に手を当て、古い記憶の引き出しを順番に開けては、丁寧に戻していった。
「取り立ててこれというものは。ただ、そう言えば、一緒に行った男の子が、その後転校したんですが、間もなく亡くなったという話を聞きました」
秋豆は男の子の顔を思い出そうとしたが、霧がかかったように輪郭がぼやけていった。その子は足が速く、ちょっとした好意のようなものもあったはずなのに、どうしてもそれを拾い上げることができなかった。時間の流れは遠いどこかで分断されてしまい、もうつながることはないだろう。自分の世界がひどく小さく収縮していくような気がした。
「その男の子の名前はわかりますか?」
いいえ、と秋豆は首を振った。名前すら出てこないのだ。もちろん、どこの町に行ったのかも覚えていない。
「そうですか、わかりました。ご協力、ありがとうございました」
これから小学校の履歴でも洗うのだろうか。秋豆は警察官を見送りながら、自分の小学生時代の光景を思い浮かべていた。
何でもできる気がしていて、手を伸ばせばどこへでも届くと思っていた。世界は光に満ち溢れていた。
それが、今はどうだろう。
「ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに」
「いえ、気にしないでください。たまたま寄っただけですから」
居間では、スーツの若い男がワイドショーを見ながらコーヒーに口をつけていた。食卓の椅子に腰掛け、自宅のようにくつろいでいる。
秋豆は、食卓を挟んで男の向かい側に座った。
「あら、たまたまだったの?仕事中に?」
男は薄く笑った。「そう、たまたま、今日もこの近くを通ってね」と言いながら、秋豆の頬に触れてきた。
「三時には買い物に行かないと」と言いながら、秋豆はなされるがままにされていた。
ちょっとした非日常が欲しかった。家では母としての役割でいなければならない。夫は仕事ばかりで相談もできない。そんな中で、若い男に自分のことを女として扱われるのは心地よかった。男と肌を重ねながら、これもきっと呪いのせいなのだ、と思った。
男は、秋豆の頭を優しく撫でながら、今度一緒に行きたいところがある、と言った。どこにだって行こう、と思った。この小さな世界から連れ出してくれるなら、どこだって。
夏の午後の日差しは、ギラギラとしていながら、どこか投げやりだった。