6.竹中のケース①
その日、僕は確かにアルトの声を聞いた。でも、結局見つけることはできなかった。怖い大人に捕まってしまったから。だから、僕はもう一度行かなければならない。あの、赤い屋根の家に。
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アルトが僕の家に来たのは、僕が小学校にあがった時のことだ。生後三ヵ月ほどの黒いラブラドール・レトリーバー。せわしなく、でも小さいながらに力強く、正直なところ最初は怖かったけれど、僕が学校から帰ってくるたびにじゃれてくるので、いつの間にか仲良くなっていた。
「アルト、散歩しに行くよ!」
アルトは、短く、そして愛らしく返事をした。勢いよく玄関を飛び出した僕らに、背中から母が「あんまり遅くならないようにね」と声をかけた。僕らは、気の済むまで家の近くを散歩し、公園でボールやフリスビーを投げ、新しい芸に挑戦した。いつも気がつくと日が暮れていた。芳樹や健司も、よく一緒に遊んでいた。
小学校も高学年になると、ゲームが交流のメインとなり、また、ちょうどそのころ不審者がよく目撃されていたことから、外で遊ぶことが少なくなってしまった。アルトを置いて友達の家に遊びに行ってしまい、家に帰るとアルトが玄関横の犬小屋で寂しそうに鳴いていることが度々あり、母からよく怒られた。たまにはお母さんが散歩に行けばいいのにと思ったけど、それを言うと長引くので言わないことにしていた。お父さんは特に何も言わなかった。朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってきていて(たまに帰ってこないこともあった)、休日はずっと寝ていた。
そんな風に過ごしていたところ、僕は友達と三人で、夏休みの最後の思い出にと赤い屋根の家に行くことになってしまった。怖いのは苦手なのだけど、行くと言ってしまった以上は行かざると得ない。夜中にこっそりと家を抜け出そうとすると、犬小屋で寝ていたアルトが不意に目を覚まし、視線が合った。アルトは、遊んでもらえると思ったのか一瞬嬉しそうな表情を見せたが、僕がいつも友達の家に行くときのように身振りで静かにしていて欲しいことを伝えると、鎖に繋がれたアルトはそっと眠りについた。僕は、何だか申し訳ない気持ちになったが、とにかく静かに家を出た。
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赤い屋根の家は、思っていた以上に不気味だった。その上、大嫌いな虫までいた。戦利品でも見つけて、とっとと帰りたかったのだけど、あいにくそれらしいものが見つからない。一階を、便所、台所、和室と見たが、区切りをつけられるような要素は何もなかった。
「何にも無いね。戦利品が欲しいとこだけど。芳樹、タンスには何か入ってた?」
「いや、こっちには何にも。健司は?」
「同じく。何も出てきそうにないね。 もう一つの部屋に行ってみようか」
その時、僕にはアルトの声が聞こえた。小さく、でも確実に、それはアルトの鳴き声だった。もしかすると、何かの拍子に鎖が外れ、僕を追いかけてきてしまったのかも知れない。弱々しく、消え入りそうな声だった。
「ちょっと見てくる」というなり、僕はアルトを探しに行った。声は二階から聞こえた気がした。
一階から階段の上を見上げても、真っ暗で何も見えなかった。僕は怖さよりも、アルトの弱々しい声が気になった。どこか怪我をしてしまったのかもしれない。僕は階段を昇り始めた。古い板のきしむ音が、やけに耳に残った。