5.三笠のケース
響子、君とはもう、今日でお別れだ。寂しいけど、わかって欲しい」
僕は、精一杯の誠意を込めて、噛みしめるように伝えた。胃が無数の小さな針で突かれたように悲鳴を上げる。響子は無表情に僕を見つめている。その二十代の若い眼差しは、何も語ってはくれない。彼女の白いコートと明るい髪の色が闇に映え、すらりと伸びた指先が僕の琴線に触れる。
闇に静まった池には奇妙なほど風がなく、水面は冬の星々をそのままの姿で池に描いていた。僕は古びたボートに彼女を乗せ、続いて僕も乗り込んだ。響子は池の向こう岸を見つめ、何かを考えているように見える。何を考えているかは、僕にはわからなかった。きっとそれは、誰にもわからないだろう。
「僕は、他の女性と結婚することになった。そうなってしまった。誰も悪くない。色んな人の感情があり、思惑があり、進むべき道があった。その決断について、僕自身、納得もしている」
僕はオールを静かに滑らせた。明確な輪郭を持っていた星々は戸惑い、歪んだ。
「ただ、君にだけ、すべてを押し付けることになってしまった。本当に申し訳なく思ってる」
この池は、一般には全くもって知られていない。ただ、ある特定の人間にとっては、とてもよく知られたものである。自分にとって特別なそれを持つ者は、ここにそれを持ち込み、供養する。人は人の集まりの中で骨になり、灰となり、土に埋められるように、人形は人形の集まりの中で、その役割を終えて行く。
ここは、そういった場所なのだ。そして誰かが、「代議士の息子」としての僕と、彼女の姿を見たならば、きっと僕の人生も、そして僕の周りの人生も、音を立てて崩れていくだろう。危険を冒してでも、僕は彼女をここに連れてきたかった。そして、危険を冒さなければならない時期が、とうとうやってきてしまったのだ。
響子と名づけた人形は、冷ややかな月光を横顔に受け止めている。手を握ると、シリコンの柔らかな感触を得た。血が通っていないかと思うほど、指先が冷えている。僕はせめて最後にと、手を握り温めた。彼女は満足そうに薄く微笑んでくれた。それだけで、僕は心の隅々まで満たされていく気がした。
「もう、5年前になるのかな。あそこで初めて君を見たとき、僕は心の底から、そう、心の底から、生きていて良かったと思った。運命だと思った。君はすべてを受け入れてくれた。すべてだよ。頭のてっぺんから足の先まで、全部だ」
僕は無音の冷たい池の上で、出会った頃からの思い出を一つ一つ確かめていった。それは、人の中で生きていこうとするには、残しておいてはいけない秘密のアルバムだった。丁寧にしまっておいた心の中の写真を取り出しては、確かめるように二つに裂いていった。
「ああ、なんでこんなことになってしまったんだろう。君なしでこれから生きて行かないといけないと思うと、こんなに心細くなるなんて」
僕達は、確かに愛し合っていた。彼女は何も言ってはくれなかったけれど、僕には確かにそれがわかった。彼女だけは、僕がどれだけ自らの醜い心の内をさらけ出したとしても、静かにそれを受け入れてくれた。どれだけの時間を一緒に過ごしただろう。どれだけの時間を語りあっただろう。僕にとっての君は、唯一無二の、絶対の存在だった。
「そういった関係が健全でないことは、どこかでわかっていた。それでも、僕は君に依存しなければならなかった。そして、いつかそれを卒業しなければならないことも、どこかではわかっていた。でも、いつも、今ではない、もっと先であって欲しいと願っていた」
そして、とうとうそれが来てしまった。
僕は、響子の頬に手を触れ、そっと口づけをした。それは、何かを確かめるためのものではなく、どこにもたどり着かない、袋小路のような口づけだった。
彼女の額に、自分の額を合わせながら、「ごめん」と言い、目を瞑った。辺りは、音を抜いたように静かで、星の瞬く音が聞こえてくるようだった。
目を開くと、僕は彼女の隣に跪き、背と膝の裏に腕を通して抱きかかえた。今まで感じたことのない重みを腕に感じた。
ベッドの上に横たえるように、池にそっと彼女を添えた。白いコートが水を吸い、明るい髪が闇に飲まれていく。しなやかな指先は、何かを掴むことなく沈んでゆく。彼女の姿が歪み、うまく見えなくなってしまった。なんでだろう、少しでも、一瞬でも長く、彼女の姿を見ていたかったのに。
「さようなら」と僕は言った。あるいは、そう言おうとした。うまく声にならなかったのだ。
顔まで沈む瞬間、彼女は確かにこちらを見た気がした。気のせいかもしれない。沈み方の偶然の産物かもしれない。それでも、彼女はこちらを見ていた。そして、さようならと言った。僕は完全に一人になってしまった。後戻りのできない選択をしてしまったのだ。僕はこれから、自分の足で歩いて行かなければならない。
僕は、ボートの上で、月にかかりゆく雲を眺めていた。
人と人形を隔てるものはなんだろうか。僕と彼女の間には、確かに愛があった。僕には、彼女の言いたいことがわかった。もちろん、わからないこともあったが、そんなことは人間同士にだってあることだ。肉体的な反応がなくても、精神的なつながりがあったのだ。
一人でいるには、世界は広く、冷たく、そして他人行儀だった。僕は、この世界にたまたま外から迷いこんでしまった異国の旅人のような気持ちになった。あくまで一時的に、かりそめの存在として滞在を許されているだけの、哀れな旅人だ。
僕は力なくオールを握った。思うようにボートは進まなかった。形のない響子の声が、いつまでも僕の心に反響していた。