1話
菅野先生の机の上の弁当の中に赤い絵の具を入れると、田中修一は満足げに笑みを浮かべ自分の席に着いた。
今日もよくやるわよね。どれだけ暇なのかしら。
その様子を横目でチラリと見ながら、私はご飯をモゴモゴ食べる。
この学校でこいつ、田中修一にたてつく事は、中学校生活を丸々棒に振ったのと同じである。
というのも、こいつには前科がある。
学校内でシンナーを吸っていたり、女子トイレに隠しカメラを仕掛けたり、先生を血が出るまで殴ったりしたこともある。
後者の先生を殴った件だが、これは噂でなく、私の目の前で起こった出来事である。
先生の頭からつうっと血が流れていた事を、弁当を食べながら思い出してしまった。
ケチャップが血に見えてきた。
私はずり落ちそうになる眼鏡を片手で押さえると、まだ残っている弁当を気持ちが悪くならないうちに食べきった。
「ふうっ」
放課後からは憂鬱な部活動だ。面倒でも体力はつけておきたい。
田中は私と同じ吹奏楽部で、楽器は私が打楽器。彼はトランペットと違うのを担当しているが、練習する場所は2-2組と同じである。
何でよりにもよって同じ練習場所なのよ。
たまに音楽室で全員で合奏する時もあるが、ほとんどは楽器ごとにそれぞれ別の教室で練習をする。
嫌ならば部活を辞めれば?という話になってしまうが、吹奏楽顧問の玉木先生はもの凄く怖い。
辞めると言おうものなら、
「どうしてだ」「理由を言え」「言うまで帰さんぞ」
と、言葉攻めのフルコースがプレゼントされる。
そういえばこの先生も性格的にいろいろやばいって話だ。
私はあまり気にしなかったが、時々セクハラまがいの事をしてくる。
体操服の中に手を入れられたり、お尻を触られたりしたが、まさか私ごときにセクハラしてくる男なんていない。
きっと、スキンシップだろうと割り切っていたが、友達に話したら
「訴えれば裁判では勝てるよ」
と言われ、ああ。こういうのはセクシャルハラスメントというものなんだなと思った。
「田中君の下の名前のしゅういちってどんな字か教えて!」
2-2組の教室で部活の練習中に、杉野明美が田中に声をかける。
どうしてこういう年頃の娘って田中のような不良に関わりたがるんだろう。
私は立ちながらの練習のせいか、少し眩暈を覚えた。
「もしかして、こんな字?」
明美は黒板に「修一」と書いてみせた。
「こ~んな字」
田中は明美の右手に自分の右手を添えると、黒板に大きく「sexy」とふざけて書いた。
おいおい。先輩方が怪訝そうな目で見てるぞ、と言いたかったが止めておいた。
先輩も田中という男の危険さを分かっているのか、何も言わない。
ブサイクでいつも威張っている出蔵先輩さえも、田中には何も言えないのだ。
私は田中より出蔵の方が嫌いかもしれない。
田中は誰にでもああだけど、出蔵は美人や強いやつには下手に出る。
人によって態度を変える奴なのだ。
「美月さんって下の名前なんて言うんだっけ?」
「えっ」
明美にいきなり問われ、私はびくりとした。
明美の事は嫌いではないのだが、彼女と仲の良い田中には関わりたくなかった。
「ええっと」
と言い、私は黒板の端っこに「佳代」と書いた。
緊張のせいか書く手が震える。
「佳代って言うんだ。可愛い名前」
「えへへ」
私はもうこれ以上皆に注目されるのが嫌で、慌てて元の場所に戻る。
「名前だけだな。可愛いの」
そう言ったのが今まで一言も話したことのない田中でびっくりした。
「名前だけだってさ」
聴いていた男子達がゲラゲラと笑い始めた。
私の顔がカーッと赤くなる。
まるで宙に放り出されて足場がなくなるような感覚だ。
周りの笑い顔が皆怪物に見えてきた。
「知ってるか?こいつブックオブで立ち読みしたことないんだってよ」
「マジかよ。何いい子ちゃんぶってんだよ。皆立ち読むくらいすんだろ」
友人の操に、私は確かに立ち読みしないことを話したが、それは私がブックオブという存在を知らなかったので、適当に話を合わせておいたのだ。
きっとそれを聞かれていたのだろう。
私は世間にかなり疎い。
芸能人の話なんてされても困るくらいだし、ブックオブがまさか古本屋だなんて知りもしなかった。
でも、この展開はさすがにまずい。
私がいじめの対象となってしまうのも時間の問題だ。
何を隠そう、私は小学校時代いじめのストレスで胃に傷ができたことがあるのだ。
いじめは辛い。
もうあんな思いはごめんだし、小学校の可愛らしいいじめならまだしも、中学ともなるとさすがにいじめもグレードアップするだろう。
ただでさえ器量が良くなくて、男子に影から「でこ」と呼ばれているのに。
ちなみに「でこ」とは私のおでこが広いかららしい。
遠足の時、田中の友人の村中明人に、「でこ広いね」と言われてから影ながらそう呼ばれるようになった。
私はトイレに行くふりをして、急いで教室を後にした。
「大丈夫?」
手洗い場で泣いていると、佐藤猛が声をかけてきた。
「自分の持ち場に戻りなさいよ」
私はつんとした態度をとってしまった。
まいったな。今日は厄日だ。
こいつにだけは見られたくなかったのに。
「ハンカチ貸そうか?」
猛は音楽室にハンカチを取りに行こうと、私にちょっと待っててくれの合図を出した。
「・・・・・」
猛が音楽室に行った後、彼が私と同じ楽器で、同じ2-2の教室で練習をしていたことを今更ながら思い出した。
見られていた、のだろうな。やっぱり。
何だか恥ずかしい。
でも、彼はなぜここへ来たのだろう。
トイレをしに来ただけだろうか。